原武史の「大正天皇」

原武史の「大正天皇」を読了。これを読んだ理由は、平成の時代が後4ヵ月弱で終わろうとしている今、その平成の30年ちょっとのわずか半分しか続かなかった大正の御代について、もう一度振り返ってみたかったのと、大正天皇のお人柄を知りたいというのが動機でした。以前自分で漢詩を作るのにはまっていた時があり、その時読んだ色々な漢詩に関する本に、大正天皇作の漢詩が出ていました。昭和天皇も明治天皇も漢詩は作らず、昭和天皇は和歌だけですが、歌会始などで一般に公開される昭和天皇の和歌は、正直な所「ああそうですか」というレベルで、芸術性というものはあまりなかったように思います。それに比べると大正天皇作の漢詩は、私にはかなりの水準に達したものだと感じられました。
この本によって、色々と大正天皇について知ることが出来ました。
・実母は柳原愛子で(あの柳原白蓮の叔母に当たります)、明治天皇の側室の子でした。しかし当時の皇室の習慣に従って実母とは切り離されて育てられ、暖かい家庭とは無縁の状態で育ちました。柳原愛子は下の女官に対してお土産を買ってきたり気を遣う人で、下の者から慕われていたということです。
・何故病弱な大正天皇が即位したかですが、他の明治天皇の子供はすべて生まれて一歳以内で死んでしまっており、唯一生き残ったのが大正天皇であり、他に選択肢はありませんでした。しかし大正天皇も死んだ他の皇子達と同じく幼い頃脳膜炎を患い、それが最終的には治りきらず後でまたたたります。
・貞明皇后(九条節子)と結婚してからは、側室を複数持った明治天皇とは違い、初めて一夫一妻制を貫きました。(この本の後書きによると、女官に手を付けたりしていたみたいですが、形式的には一夫一妻制でした。)
・病弱でありながら皇后との間に、4人の皇子(昭和天皇、秩父宮、高松宮、三笠宮)を設け、皇室の安泰に大きく貢献しました。子煩悩な父親であり、御幸の時には4人へのお土産を忘れなかったり、一緒に将棋に興じたりしていました。
・病弱なイメージにも関わらず、皇太子時代はほぼ全国を巡啓し、その先々で人々と気楽に交わり、しばしば饒舌な程色んな質問を発し、時には警備の人間を振り切って独自で町を歩いたり、など活発に活動されています。
・韓国に行啓した後、李朝の皇子とコミュニケーションを取るため、朝鮮語の勉強を始め、それは天皇になってからも続いていて、それなりのレベルになっていたようです。
以上のようなエピソードから浮かび上がってくる大正天皇の実像は、明治天皇の近づきがたいいかめしいイメージとはまるで正反対で、気さくで率直なお人柄のように思われ、私には非常に好ましく思われました。
しかし、天皇に即位してからは激務に追われ、皇太子時代のように気さくに全国を旅して一般庶民と交わる機会も少なくなり、やがては幼少期の脳膜炎の後遺症のような脳の病気(失語症、記憶失調など)に襲われ、治世の後半の5年間は摂政となった昭和天皇が実質的に天皇の仕事をこなし、ついに回復することなく、1926年の12月25日に亡くなります。(大正15年から昭和元年になりますが、このため昭和元年は実質的には6日間しかありません。)

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