フランク・ハーバートの”Dune messiah”

フランク・ハーバートの”Dune messiah”を読了。「デューン」の最初の話は新訳が出ていたのでそれで読みましたが、続巻の日本語訳は矢野徹大先生ので、その日本語訳はこの間の「人間以上」ので懲りたので、原文をそのまま読むことにしました。毎日Newsweekを読んでいて、余った時間でこれを読んでいたので、ほとんど毎日5分以下、という細切れ読書で読み終わるのに約半年もかかりました。予想していたより英語そのものは短い文章が多くて難しくはなかったのですが、例の「デューン語」と呼ぶべき特殊な固有名詞がやたらと出てきて、本当に知らない語とこのデューン語の区別がはっきりせず、なかなか難物でした。
内容については、「続編に名作無し」の法則がそのまま、というか、正直詰まらなかったですね。今や最強の皇帝ムアディブになったポールに対して、色んな敵対勢力が陰謀でポールを亡き者にしようとしますが、企んでいる時間が長くてなかなか実行されません。ですが最後の方になってポールが一種の核兵器で攻撃を受けて盲目になり、チャンニが双子の赤ちゃんを産み、ゴーラ(複製人間)となって蘇っていたダンカン・アイダホがポールを殺すように刷り込まれていたのに対し、本来の自分の記憶を取り戻し、と急に話が展開し始めます。この巻は、次の”Children of Dune”とセットのようなので、そこまでは読むことにします。しかしその先はたぶん読まないと思います。

イヴァン・ジャブロンカの「歴史は現代文学である 社会科学のためのマニフェスト」

イヴァン・ジャブロンカの「歴史は現代文学である 社会科学のためのマニフェスト」を読みました。丁度歴史学と社会科学の関係を考えていた所に、タイムリーに読売新聞の書籍欄で紹介されていて購入したもの。筆者は1973年生まれでパリ第13大学の教授。タイトルが示す通り、この筆者は歴史の記述と文学を、元はある意味一体化していたものが、19世紀から20世紀初頭の科学主義によって切り離されてしまったものを再び元に戻すことを提唱しています。そして単にそういう方法論を提案するだけでなく、その実践編として「私にはいなかった祖父母の歴史」という本を書き、歴史学の世界と文学の世界の両方から高い評価を得ているそうです。この筆者が主張するように、確かに歴史の記述は元は文学とは切り離されないものでした。我々がトロイア戦争に言及する場合には、ホメロスの「イーリアス」に準拠するしかありませんが、「イーリアス」は叙事詩であり、まさしく文学そのものです。また、例えば日本の第2次世界大戦の歴史について知ろうとする場合、歴史の教科書の単なる年代順の事実の羅列では、その時代をきちんと理解することはほとんど不可能です。その時代の日本の軍隊の中が一体どのような雰囲気であったのか、歴史の本に記述されているケースは非常に少ないと思いますが、野間宏の「真空地帯」や大西巨人の「神聖喜劇」のような優れた小説は、どんな歴史書よりも日本の軍隊の内実というものを読者に理解させてくれます。また、バルザックの「人間喜劇」は、登場人物の類型化によって、19世紀のフランス社会をどんな歴史書よりも的確に記述してくれます。以前書いたように、私は社会学における「理念型」が、その起源は文学における「フラット・キャラクター」(類型化されていて、いつも読者が期待するような行動を取る人物。E.M.フォースターの命名による)なのではないかと思うようになりました。

保城広至の「歴史から理論を創造する方法 社会科学と歴史学を統合する」

保城広至の「歴史から理論を創造する方法 社会科学と歴史学を統合する」を読みました。「歴史をどう学問的に扱うか」「社会科学にとって理論とは何か、そしてその検証方法は」ということに関心があって、マイヤーとヴェーバーの「歴史とは科学か」に続けて読みました。結論としてこの本は最近の情報をよく整理してあり、それなりに筆者なりの新しい試みも行っており、まあまあ評価出来るものでした。しかし、以下の点で疑問が残ったり、また異論があります。
(1)「中範囲の理論」の「中」範囲とは何か?
この筆者はマートンの用語を借りて、扱う問題・時間・空間に限定を加えた「中範囲の」理論というものを提唱します。しかし、「中範囲」があるなら「大範囲の理論」「小範囲の理論」とは何なのか、今一つ明らかではありません。この本に述べられているものは、私に言わせれば「小範囲の理論」に過ぎないと思います。というか個人的には社会科学においては、結局どんな時代や社会にも適合するような「大理論」は存在せず、全ての理論化の試みは「小理論」に過ぎないのではないかという思いを強く持っています。
(2)歴史学と社会科学の結合
歴史学者は社会科学の学者に対し、自分達が苦労して調べたことを好き勝手に援用し、自分で事実を調べもしないで勝手な理論化を行っていると非難し、社会科学者は歴史学者が近視眼的過ぎて、森を見ないで木だけを見ていると非難します。これはマイヤーとヴェーバーの時代からそうで、今も同じ状況が続いているみたいです。これに対し筆者は(1)の「中範囲理論」で扱う問題・時間・空間に限定を加えることで、その限られた時空間に対しては歴史学者として事実の収集を行い、その上で社会科学的な分析を加えることを提案して、実際に実践もしているようです。しかし、歴史の流れというものを無視して、ある限定された時空間だけを切り出して分析するということ自体が、既に歴史学の立場からすると相容れないもののように思います。また、ヴェーバーの時代は、社会科学の各分野は現在のように細分化されておらず、経済学は法学部の中で扱われていましたし、また社会学もその中から産まれて来ました。そして、ヴェーバーの時代には各分野の学者はかなりの部分垣根を越えて意見を戦わせていたように思います。ヴェーバーとマイヤーが論争しているのもそのいい例だと思います。さらにはハイデルベルクのヴェーバーの家で、ヤスパースやトレルチなど分野の違う学者が文化的サークルを作って交流していたことも周知の事実です。それに対し、今のアカデミズムでの一番の問題点と私が思うのは、各人が自分の極めて狭い専門分野だけに関心を限定し(しかもしばしば研究テーマの選択がある意味非常に恣意的かつ時には奇妙でさえあって)、他の広い分野の人間と積極的に意見交換をしなくなっていることだと思います。私に言わせれば、歴史学者と社会科学者を一人で兼ねなくても、お互いにお互いの素材を利用して活発な議論や相互批判を行って、少しでも真実に近づけばいいのだと思います。
(3)マックス・ヴェーバーと「解釈学」
この筆者は、ヴェーバーのいわゆる「理解社会学」を解釈学と呼んでいます。この言い方はヴェーバーの学問を理解する上でも、また「解釈学」という言葉の使い方でも間違っていると思います。ヴェーバーの方法論は「理解社会学のカテゴリー」が一番良くまとまっているかと思いますが、人間の行為の意味を社会における集団形成の推進力の元としてのゲマインシャフト行為、ゲゼルシャフト行為といった形で定式化して、社会の動きのダイナミクスを捉えようとするものだと、私は思っています。ウェ-バーの方法論のテキストの中に「解釈学」という言葉が出てくるのを私は記憶していません。また「解釈学」の方も、本来の意味は聖書などの「テキスト」をどのような意味に解釈するかの学問であり、また哲学の世界ではハイデガーが自分の「存在と時間」のことを解釈学と呼んでいますが、ヴェーバー的な社会学においての人間の行為の意味を「解釈する」ための学問、と捉えている人はまずいないと思います。

そういう訳で参考にはなりましたが、特に(3)の点でこの人は元々社会学専攻(現在は国際関係論専攻)でありながら、ヴェーバーもきちんと読んでいないのではないかと思いました。

マイヤーの「歴史の理論と方法」とヴェーバーの「文化科学の論理学の領域における批判的研究」

エドワルト・マイヤーとマックス・ヴェーバーの「歴史は科学か」(森岡弘通訳、みすず書房)を読みました。エドワルト・マイヤーの「歴史の理論と方法」とヴェーバーの「文化科学の論理学の領域における批判的研究」の両方を収録しているものです。マイヤーは20世紀初めにおいての有名な歴史家で、その「古代史」は、古代ギリシアがその当時の現代西洋に対して最大の影響を及ぼしているとして、その形成の過程を解き明かした書として高く評価されています。19世紀に実証的な自然科学が発達し、従来は科学としては見られていなかった歴史の記述も「歴史学」を名乗るであれば、その拠って立つ学問的な方法論は何なのかが厳しく問われるようになり、それにマイヤーが応えたのが、「歴史の理論と方法」です。マイヤーは冒頭で「歴史は何ら体系的な学問ではない」とまず断り、その当時のヘーゲル的な発展段階的な史観や唯物史観で歴史をある意味単純化して理解しようとするやり方に異を唱えました。その点に関してはマイヤーもヴェーバーも同じ立ち位置にあります。しかし、ではどういう方法論的立場でマイヤーは歴史の素材を扱うのかという問いに対しては、マイヤーはかなり舌足らずでまた自分が実際にその著作で実践している内容をかなり性急に定式化してしまいます。それは歴史において全てが重要なのではなく、その後の時代に対して「影響を及ぼした」ものこそが重要で、それによる因果連関の解明が歴史学の課題だとします。こうしたマイヤーの論理展開はかなり不用意であり、当然のことながらヴェーバーから自己矛盾的な記述として詳細に突っ込まれています。
ヴェーバーの指摘はごもっともと思いつつも、その指摘内容はある意味社会科学的な歴史の取り扱いのように思え、如何にして歴史の無限の多様性を科学的に取り扱うのか、という点に関しては必ずしもヴェーバーは完全な解答は出していないと思います。もちろん後の「経済と社会」における理念型と決疑論を使った歴史記述は一つの答だとは思います。しかしそれはそれとして別のやり方があるのではないかという思いは禁じ得ません。この解答を求めて、更に2冊の本を読むことになりました。

辻惟雄(つじ・のぶお)の「奇想の系譜 又兵衛-国芳」

辻惟雄(つじ・のぶお)の「奇想の系譜 又兵衛-国芳」を再読しました。1969年に最初の版が出ています。取り上げている絵師は、岩佐又兵衛、狩野山雪、伊藤若冲、長沢蘆雪、歌川国芳です。Eigoxのレッスンでずっと日本の絵師を紹介するシリーズをやっていて、その中で岩佐又兵衛を取り上げましたが、「何故又兵衛が浮世絵の元祖と言われるのか」という相手の問いに十分答えることができなかったため、再確認のため再読したものです。この本を最初に読んだのはいつか忘れましたが、多分20年近く前だと思います。この本が最初に出た時には国芳以外は、ほとんど無視されていた絵師だと思いますが、いずれも今は有名であり、伊藤若冲に至っては大ブームとでも言うべき状況になっています。そういう意味で辻さんの先見性は素晴らしいと思います。個人的な趣味から言っても、この6人の絵師の内、狩野山雪はそうでもありませんが、後の5人は好きな絵師です。でもその辻さんにおいてすら、又兵衛の絵をその弟子の絵だと間違って鑑定していたりする訳で、奥が深い世界です。

白井喬二の「捕物にっぽん志」(未読全部)

本日から第一回目の夏休みなので、国会図書館に行きました。目的は白井喬二の「捕物にっぽん志」の未読のものを読むことです。
幸いにして国会図書館で全24話を全て読むことが出来ました。以下がその内容です。

第1回 石歴翁(しゃくれきおん)を巡る土蜘蛛族と大和族の争い(1)
第2回 石歴翁(しゃくれきおん)を巡る土蜘蛛族と大和族の争い(2)
第3回 白帑喜剣(しらぬ・きけん)の話(神功皇后の時代)
第4回 源平の巻 悪七兵衛景清(1)
第5回 源平の巻 悪七兵衛景清(2)
第6回 後醍醐天皇の隠岐脱出/成田小三郎
第7回 加藤清正と加藤千畳館
第8回 一休禅師
第9回 佐振延吉
第10回 栗山善助/黒田官兵衛孝高
第11回 由比正雪(1)
第12回 由比正雪(2)
第13回 由比正雪(3)
第14回 大岡越前(1)篠原権兵衛の中島立石殺し
第15回 大岡越前(2)篠原権兵衛の中島立石殺し
第16回 大岡越前(3)白子屋おくま
第17回 大岡越前(4)白子屋おくま
第18回 大岡越前(5)白子屋おくま
第19回 大岡越前(6)天一坊事件の真相
第20回 三日月小僧清次と岩亀楼の喜遊(1)
第21回 三日月小僧清次と岩亀楼の喜遊(2)
第22回 前原一誠
第23回 風俗史 お茶ノ水事件
第24回 銀行券紛失事件

全体を通して読んで見て、既に白井が他の作品で取り上げた題材が再度使われているケースが多くあります。(悪七兵衛景清、由比正雪、岩亀楼の喜遊など)もちろん元の作品とはまた描写が違いますが。最初の2回の「石歴翁」の話はかなりユニークでしたが、ちょっと結末が尻切れトンボでした。全体を通してのテーマは「探偵術、捜査術、斥候術」だと言えると思います。ただ全体に色んな話がありすぎて、全体のまとまりという感じはあまりしません。全体の中では16回~18回の白子屋おくまの話が、不思議なお告げをする柱の話とからめて読み応えがあります。また由比正雪(由井正雪)の話も「兵学大講義」で書き切れなかった部分を書いている感じで、悪くないと思いました。

白井喬二のポートレート(昭和7年)

久し振りに白井喬二の作品を求めて、婦人公論の昭和7年12月号を購入。お目当てだった小説は、ある短篇集に収録されていたもので既読でしたが、その代わりにこのページを見つけたので収穫はありました。昭和7年というと白井喬二は42歳で脂がのっていた頃で、とても若々しく見えます。ちなみに小説のタイトルは「悪華落人」で短篇集の「斬るな剣」に収録されています。
白井喬二とは関係ありませんが、この号の婦人公論には中央公論社の広告が載っていて、その中に「マルクス地代論」「マルクス貨幣論」などの左翼系書物の広告が入っています。昭和7年頃だと、意外と自由だったのですね。ちなみに亡父の生まれた年です。

坂口安吾の「勝負師 将棋・囲碁作品集」

坂口安吾の「勝負師 将棋・囲碁作品集」を読みました。藤井聡太7段の活躍で将棋がブームになっている関係で復刻されたもののようです。私は坂口安吾については高校時代に「堕落論」を読んだくらいで他の作品はほとんど読んでいませんが、この本については「つまらない」としかいいようがないです。色々と将棋や囲碁に関した本は読みましたが、この本はその中で最低レベルといってもいいかと思います。最近藤井聡太7段が対局の時にどんな昼食を頼んだとか、どうでもいいことが一流ともいえるニュースの会社のサイトでニュースとして出ていますが、そういうのとレベル感は一緒ですね。囲碁に関しては文中の記述を見る限りでは、坂口安吾の棋力は私と同じくらいに思いますが、その割には囲碁の内容に関する文章は0と言ってよく、将棋もまた然りです。私から見れば囲碁の呉清源9段は囲碁の神様みたいな人ですが、そういう神様に関する俗事的なことばかりが書いてあります。また、この時代に覚醒剤が合法だったのは知っていますが、坂口安吾が木村義雄名人に対し、ヒロポンを勧めているのを読むとびっくりします。将棋だったら、山口瞳の「血涙十番勝負」「続血涙十番勝負」、囲碁だったら川端康成の「名人」とか、そういう優れた作品に比べたら月とスッポンです。

理念型とフラット・キャラクター

今、フランスの歴史家のイヴァン・ジャブロンカが書いた「歴史は現代文学である」を読んでいます。この本は歴史を科学的に扱おうとして19世紀以降歴史と文学が切り離された物を、もう一度結びつけようとする試みでなかなか興味深いです。
それでちょっと思いついたのですが、社会学で「理念型」(ドイツ語でIdealtypus)という方法論みたいなのがあります。歴史の現象を解釈する上で、観念的に作り出された一種の純粋型のことです。昔は「理想型」と訳されていましたが、「理想」というと価値判断が伴っているようですし、また「売春宿」のIdealtypusもあり得るということで、ニュートラルな「理念型」という訳に落ち着いています。
で思ったのが、この「理念型」の元は、文学における「フラット・キャラクター」(平面的キャラクター)じゃないのかということです。この「フラット・キャラクター」はE.M.フォースターの造語で、対照にされるのは「ラウンド・キャラクター」(立体的キャラクター)です。フラット・キャラクターは、フォースターはディケンズの小説の登場人物はほとんどそうだとしていますが、ある類型的な性格や社会的地位をもっていて常に読者が期待するような行動をする人のことです。(ラウンド・キャラクターはそれとは違い、性格などが次第に変化して深まっていくようなタイプのキャラクターです。)例えば「クリスマス・キャロル」の(改心する前の)スクルージ爺さん、「ディヴィッド・コパフィールド」の悪役のユライア・ヒープ(ロックバンドのユーライア・ヒープはこの名前を借りたものです)なんかが、まさしくフラット・キャラクターです。
マックス・ヴェーバーは有名な「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の中で、「資本主義の精神」を読者にわかってもらうための「理念型」としてベンジャミン・フランクリンを使います。しかし、それは実在のフランクリンというより、キュルンベルガーという作家の書いた「アメリカにうんざりした男」という詩人レーナウのアメリカ体験を元にした小説に登場する「カリカチュア化したフランクリン」であり、まさしくフラット・キャラクターそのものです。
もちろん、「理念型」は人間だけに使うものではないのですが、少なくとも小説におけるフラット・キャラクターの使用の方が社会科学よりはるかに先なんではないかと。

歴史は科学か?邪馬台国関連フェイクニュース

相変わらずWeb上にはフェイクニュースが多いです。
これ(「モモの種で「邪馬台国論争」終止符か」)もその典型。奈良県の纏向遺跡から桃の種が大量に出土し、その年代鑑定が邪馬台国の時代と一致するから、纏向遺跡が邪馬台国だという、無茶苦茶な論理。

魏志倭人伝の邪馬台国の箇所には、かなり詳細な邪馬台国の植生の記述が出てきますが、そこに「桃」の記述はまったく出てきません。「桃支」という単語は出てきますが、これは竹の種類の一つです。

この作者は「中国でモモ(核果類)が栽培された歴史は6000年以上ともいわれ、やがて日本にも伝えられたのだろう。もしも卑弥呼が不老不死の西王母にならってモモを食べていたなら、今回の纒向遺跡で大量のモモの種が出土したこととつなぎ合わせ、また年代も合致することから邪馬台国の場所である可能性が高い。」と書いているが、こんなデタラメな論理は見たことがないです。卑弥呼が桃を食べていた証拠は一体どこにあるのでしょうか?西王母信仰と卑弥呼との関連も何の説明もない論理の飛躍そのものです。また、日本の遺跡での桃の種の出土例は今から約6,000年前の縄文前期の遺跡に遡るそうなので、中国と同じくらいの歴史が日本にもあることになり、たまたま桃の種が多く出土したから、それが邪馬台国と関連がある証拠にはまるでなりません。

纏向遺跡から邪馬台国と同じ時代の桃の種が多数出てくるなら、それはむしろ纏向遺跡が邪馬台国ではない有力な証拠としか思えません。(そもそも纏向遺跡には、その出土品の中に大陸との交流を示すようなものがほとんどなく、邪馬台国関連の遺跡であるというのは元々無理があります。)(こういう単純な論理がわからなくて、今回の件をほぼそのまま報道している毎日新聞、朝日新聞、日経新聞の新聞各社も、無責任きわまりないと思います。)

さらには、ベースとなっている放射線炭素年代測定もかなり怪しいです。2800個の桃の種の内調べたのはわずか12個(0.4%)で、それでいて「この12個は同じ時期に捨てられた可能性が高い」とし、にも関わらず「西暦135~230年のほぼ100年間」と断定していますが、この記述が正しければ、単にその100年のどこか1年で食べられたということに過ぎないのに、わざと幅を持たせてその時代ずっと桃が食べられていたかのように記述し、邪馬台国の時代と一致するような印象操作を行っています。更にはその12個が本当に同じ年代なのであれば、サンプリングとして適切だったかどうか、なおさら別の試料も調べて対比するべきだと思います。(私の想像では多分実際はもっと多くの桃の種を測定し、その中から都合の良いデータだけを選んだのではないかと思います。)

藤村新一による旧石器時代の遺物捏造事件は記憶に新しい所ですが、考古学界の体質は変わっていないようです。
(私は大学の時に、教養学科の選択科目としてですが、考古学を1年ほど学んでいます。東京大学の考古学教室そのものは本郷にありますが、駒場の教養学科でも文化人類学をやっている関連で、考古学の授業がありました。)