藤原正彦の「国家と教養」

藤原正彦の「国家と教養」を読みました。藤原正彦の本については、大体読まなくても内容を想像出来るので魅力を感じないのですが、この本については大衆小説の価値を強調しているという点に興味をもって読んでみました。しかしその点に関しては確かに立川文庫(たつかわぶんこ)などが出てきますが、中里介山も白井喬二も出てきません。もしこの筆者が「大菩薩峠」も「富士に立つ影」も読んだことないのであれば、そういう人に大衆小説がどうの、と言って欲しくないです。
私は「教養」学部「教養」学科という、ご丁寧に「教養」が2つも付く学科の出身なんで、「教養」の意義については、筆者に同意します。そういう意味で総論賛成ですが、各論ではいくつか異議があります。
一点目。マックス・ヴェーバーが「職業としての政治」で述べた内容がヒトラーの台頭につながったという主張。これはモムゼンという人が最初にそういう論旨でヴェーバーを批判して有名になったものですが、今ではヴェーバー学者でこの批判に賛同する人はほとんどいません。たとえて言えば、トランプみたいな大統領が出てきて無茶苦茶やっていますが、そのことについて大統領制というものを考えた人が責任を問われるべきでしょうか?それと同じだと思います。
二点目。イギリス人がバランス感覚に長けていて、EUからの離脱はその現れだという主張。まったくの噴飯ものと思います。私に言わせれば52:48の僅差でこのような大事なことが決まってしまうという事自体が、イギリス人が生み出した民主主義の欠陥だと思っています。多くの人が離脱に投票したことについて反省していて、今もう一度国民投票をやりなおせば残留派が6割くらいになると言われています。それを考えても離脱については多くの人が移民に対する嫌悪感などから衝動的な判断を行った結果であり、バランス感覚の現れだなどとはとても思えません。
批判ではありませんが、教養というより雑多な知識を得ることのメリットを私なりに挙げれば、それは「引き出し」を多く持つということで、何か新しいことを考え出したりするのは引き出しは多ければ多い程有利です。もう一つは今の学問の世界は細分化が行きすぎており、もう一度例えば社会科学だったら、法学・経済学・社会学などを統合した考え方が必要で(マックス・ヴェーバーなどはそれら全てをやっていました)、その基礎として教養が重要であるということです。

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