白井喬二の「大衆文学の論業 此峰録」

jpeg000-88白井喬二の「大衆文学の論業 此峰録」を読了、といっても斜め読み。白井喬二自身の文学に関する論考と、色々な評者の白井作品や白井自身についての論考を集めた本です。白井に関する研究書はほとんどというか皆無に近いので貴重です。この本を読んで、白井が始めたと言って良い「大衆文学」が、今やまったく堕落した別物に変わり果てたことを嘆かざるを得ない気持ちです。白井が一番活躍した大正末期から昭和初年の頃というのは、「エログロナンセンス」の時代ですが、白井は「ナンセンス」に関しては人後に落ちませんが、「エログロ」に関してはまったく痕跡も白井の作品には見ることができません。(戦後の作品は除く)同じく「大衆文芸」の同人であった国枝史郎がしばしば「グロ」に走っているのとは対照的です。
後は白井がいわゆる「歴史小説」に否定的なのも面白いです。どんなに考証をしっかりやろうと、所詮「歴史」はその時々の為政者によって都合良く作られたもので、真実ではない、という認識です。
また収録された白井の作品の中で、「大衆文学百首(短歌)」が白井の本音が透けて見えてちょっと面白いです。いくつか引用します。
・読む者が多ければよしと そは然り だが大衆文学はそこが落とし穴
・真善美の 真を事実のことと思うか べったらやたら歴史小説栄ゆ
・圭三の「私の秘密」に出でたるに 元気おどろくの便り殺到 よぼよぼと思いおりしか
・机龍之助 武蔵は 歌舞伎に適すれど わが公太郎は適せず そこを見てくれ
・映画 テレビの 富士に立つ影の不できさに 愚鈍のわれも怫然としぬ
・戦死せし山中貞雄をしのぶかな 盤嶽の一生 あの巧さ 良心 映画のふるさと
・一生に一度の豪語いわしめよ われ一人書きおらば 形相はもっと変わっていたろうと
・振りむけば ノコギリ山の春霞 思い出の山 その独楽勝負
・若かりき 富士は愛鷹裾野原 この裾野原に立ちし日のユメ

白井喬二の「孔雀屋敷」

jpeg000-86白井喬二の「孔雀屋敷」を読了。最初に出版されたのは1955年なのですが、実際は初出は戦前のものではないかと思います。というのは、1937年の「珊瑚重太郎」に話の展開が非常に良く似ているからです。主人公の山中児太郎は、ふとしたことから孔雀屋敷と呼ばれる武家屋敷に奉公することになりました。孔雀屋敷と呼ばれるのはそこの奥方が孔雀のように美しいからですが、でもその奥方と主人は不和で家庭内別居をしています。その理由は以前その屋敷に敵方の間者が入り込み、こともあろうに奥方がその間者と恋仲になったという疑いがあったからです。その間者はその屋敷の座敷牢に捕らわれていましたが、児太郎はその間者が本当に奥方と恋仲だったのかどうかという証拠を求めて、敵方の屋敷に乗り込みます。その時に屋敷に入り込むため、色々と話をでっちあげ、結局自分の姉を御姫様に仕立てて、その屋敷に結婚の相手を世話させるということになります。もちろん嘘の話ですから本当に結婚する訳にはいかないのですが、次から次に色々な縁談が持ち込まれて、児太郎がその度に窮地に陥ります。この次から次への窮地という展開が「珊瑚重太郎」にそっくりです。ただ、「珊瑚重太郎」の場合は、主人公は常に正義感に基づいて行動しますが、「孔雀屋敷」の場合は、自分の都合で、罪もない敵方屋敷の家来を斬り捨てたりしますので、さわやかさ、という意味ではちょっと劣ります。とはいえとても面白い作品で、最後も白井らしくうまくまとめて大団円です。

白井喬二の「後の月形半平太」

jpeg000-85白井喬二の「後の月形半平太」(別題:「生きている半平太」)を読了。「月形半平太」は新国劇の行友李風が作り出した架空の幕末の人物です。「春雨じゃ、濡れていこう」の名台詞で有名です。タイトル横に、「この篇を行友李風氏に贈る」とありますから、原作者に仁義は切っています。内容は斬られて死んだと思われていた月形半平太が生きていて再び皆の前に現れる、というだけの話で、ごく短いものです。

白井喬二の「釈迦・日蓮」

jpeg000-84白井喬二の「釈迦・日蓮」を読了。昭和18年の太平洋戦争中の出版です。活字がかなり大きいのですが、文章が易しくしてあるわけではなく、特に子供用という訳ではないようです。日蓮と釈迦の伝記ですが、「日蓮」の方で、日蓮が「八紘一宇」とか「大日本帝国」とかの単語を用いるのが、時局に合わせたんでしょうが、無茶苦茶です。ちなみに、「八紘一宇」という単語を使い出したのは、確かに日蓮主義者の田中智学なんですが、いくらなんでも日蓮の時代に「八紘一宇」という言い方はありません。(日本書紀に「掩八紘而爲宇」という表現で出てきますが、「八紘一宇」という言い方は田中智学が使い始めたものです。)白井喬二は確か浄土宗だった筈で、何故に日蓮の伝記を書いたのかの動機は不明です。「釈迦」の伝記については、特にどうということはなく普通です。

白井喬二の「薩英戦争」

jpeg000-82白井喬二の「薩英戦争」を読了。改造社の維新歴史小説全集全12巻のうちの1巻で昭和10年(1935年)に発行されています。
幕末の1862年に、薩摩藩の大名行列が、横浜と川崎の間の生麦村で、行列を横切ろうとしたイギリス商人を斬り捨てたという、いわゆる生麦事件が起きます。これに対してイギリスは賠償金を要求しますが、幕府は10万両を支払いましたが、薩摩藩は自藩の支払いを拒否します。そこでイギリスは1863年8月に実力で賠償金を取り立てるため、7隻の軍艦で艦隊を仕立てて、鹿児島の錦江湾に侵入します。イギリス艦隊は砲撃で鹿児島の市街を焼き払いますが、薩摩藩側も各所に据え付けられた砲台から艦船を砲撃し、イギリス艦隊の旗艦ユーライアスの艦長が戦死、レースホースは大きな損害を受け自力航行が不可能になりました。それに対して薩摩藩側の死者は数名に留まっています。しかし薩摩藩側の砲台などの被害も甚大で、戦闘がそれ以上長引けばどうなるかわかりませんでしたが、イギリス艦隊は目的を果たさず引き上げていきました。この時代、既に薩摩藩は電気ワイヤで点火する水雷を備えていましたが、イギリス艦隊が引き上げるときに針路を変えたため、この水雷が威力を発揮することはありませんでした。その後イギリス艦隊は再来することなく、結局イギリスと薩摩藩の間で話し合いが行われ、遺族の養育料として薩摩藩が7万両払うことで合意し、ここに戦争は終結しました。この戦争の結果は列強にとって驚きであり「日本侮り難し」というイメージを与えたそうです。この本には白井の文以外に関係者の証言みたいな資料もたくさんついていて、創作というより歴史ドキュメンタリーです。

白井喬二の「古典の小咄」

jpeg000-79白井喬二の「古典の小咄」を読了。1975年に出版されたもの。主に江戸時代の古典文献を元に、普通の歴史書には出てこないような、有名人から市井の人までの色々なエピソードを集めた本です。おそらくは、「国史挿話全集」からの抜粋だと思います。白井は学生時代から江戸時代の西鶴や近松などの現代語訳を手がけていて、江戸時代の文献には非常に通じていました。

白井喬二の「至仏峠夜話」

jpeg000-78白井喬二の「至仏峠夜話」を入手。収録作品は、「兵学大講義」と「傀儡大難脈」で、残念ながら既にどちらも読了済みのものでした。ただ白井喬二の序文は読めて、それによると「兵学大講義」の方は最初玄文社より出版されたのが、その出版社が廃業し、白井自身が紙型を買い取って、改めて南宋書院より出たものです。
「傀儡大難脈」の方は、既に紹介済みで、ユダヤ人が日本の伝統芸能の各家に伝わる秘伝書を奪い取って日本文化の衰退を図る、という荒唐無稽の極地のような内容ですが、白井によると「猶太禍捕物帳」の中の一篇として、続篇も書かれる予定があったようです。結局続篇は書かれずに終わりました。(2019年9月3日注:と思ったら、昭和6年から7年にかけて大日本雄弁会講談社の「現代」で連載された「江戸から倫敦へ」が、まさに猶太禍捕物帳第2騨でした!)

白井喬二の「第二の巌窟」

jpeg000-77白井喬二の「第二の巌窟」を読了。短篇三作が入って昭和7年に春陽堂から文庫本として出たもの。「第二の巌窟」、「おぼろ侠談」、「明治の白影」を収録。「明治の白影」は、「沈鐘と佳人」の中にも入っていたのと同じ話です。「第二の巌窟」は、北上山方放牛場という牛の放し飼いの広大な牧場の中に、足枷をつけたままの牢破りの罪人が逃げ込んで、それを牛飼いの円次郎が捕まえにいく話です。円次郎は罪人を洞窟の中で見つけ、捕まえようとしますが、罪人は過って洞窟の中の更に窪みに落ちます。そこで円次郎が罪人から何故捕まったかの話を聴いて、その事情に同情して捕まえるのを止める話です。ちょっと尻すぼみの結末で今一つです。「おぼろ侠談」は、やくざ者のしにせの松五郎がある中年武士の妾になっている妹に、その武士が何故か持っている阿片を盗ませ、ある武家屋敷の武士に売っていましたが、実は妹の旦那の武士もその武家屋敷に阿片を売っていて、その目的はその家の跡取り息子を阿片狂いにさせて駄目人間に仕立て、その代わりに自分の息子を代わりの跡取りにさせようとしていたのですが、何のことはない、跡取り息子が中毒にならず、逆に自分の息子が中毒になってしまう、というかなり変わった話です。「明治の白影」は、はりねずみの虎吉という大泥棒とふとしたことから知り合った宿屋の主人の話です。

白井喬二の「隠密藤三道中記」

jpeg000-76白井喬二の「隠密藤三道中記」を読了。1970年に桃源社から出版されていますが、おそらく元は1937年にアトリエ社から出た「藤三行状記」が改題されたんだと思います。(「籐三行状記」は1934年に映画になっており、それの配役を見ると「隠密藤三道中記」と同じ内容のようです。)
大友藤三郎は土井大炊頭に仕える六十石取りの侍で、武芸の達人です。ある日、藤三郎が入浴している時に、藤三郎の屋敷に大金の入った財布を投げ入れた者がいます。慌てて藤三郎は外に出て追いかけて、財布を捨てた者を捕まえますが、そのやくざ者みたいなものは、単に受け取らず中を改めると言います。そして元は70両入っていたのに40両しかないと言いがかりをつけ、30両を藤三郎が盗んだと言い張ります。怒った藤三郎がその者を斬ろうとすると、そのやくざ者は言葉を翻して財布の中は贋金だったと言い出します。それを信じてやくざ者を釈放して、財布をお奉行所に届けますが、お奉行所で調べた所中に入っていたのは本物の小判でした。藤三郎の濡れ衣の罪は証明されずにそのまま残ってしまいます。こうしたいわゆる「巻き込まれ型」で話は始まります。濡れ衣をはらそうと色々調べている内に、藤三郎は行方不明のままとなっていた父が誰かに殺されたことを知ります。実は藤三郎の父を殺したのも、今回藤三郎を新たにはめたのも、土井大炊頭のライバルである青山大蔵の家来の倉瀧銀兵衛でした。土井大炊頭と青山大蔵はその頃謀反の噂があった越前の松平忠直(菊池寛の「忠直卿行状記」で有名です。大坂夏の陣で真田幸村を倒し、大阪城一番乗りの功績を立てた忠直卿は家康から100万石の領地を約束されますが、それが実行されず75万石のままだったことに不満を持っていました。)の処置を巡って対立し、土井は忠直を一旦江戸へ出府させてから処分することを主張しますが、青山は即時討伐軍を向かわせることを主張して、激論になります。この2人の争いに家来である倉瀧と藤三郎も遺恨を残した争いをします。土井は、藤三郎を町人に化けさせて越前に向かわせ、そこで「忠直卿が江戸に出府すれば、75万石は一旦取り上げられるけれど改めて100万石を賜る」という噂を城下で流させます。忠直卿はこの噂を真に受けて、とうとう江戸に出府し、そこで囚われます。こうして藤三郎は主君の命を見事に果たし、また一方で倉瀧銀兵衛の悪事についても証拠を集め、土井と青山の前でそれを暴露し、ついに倉瀧と仇討ちの一騎打ちをすることになります。この試合に見事に勝って父の仇も討って、白井流の大団円となります。まあ白井としてはある意味パターン化された話の展開ですが、藤三郎が武士から飴屋の町人に化けようとする苦労がちょっと面白いです。

白井喬二の「地球に花あり」

jpeg000-75白井喬二の「地球に花あり」を読了。1939年(昭和14年)のサンデー毎日17号-59号に連載された作品。事前にWebで調べてみたら、「皇軍慰問」をテーマとした作品と紹介されていました。よって白井の時局迎合小説かと思ってちょっと偏見を持って読み始めました。しかし、実際はまったく違いました。ただ白井作品としては色々異色で、
(1)白井の中長編としては他に例がない「現代小説」です。といっても書かれたのが昭和14年であり、舞台となっているのは大正の終わりから昭和の初めです。
(2)女性が主人公で、それも非常に近代的・理性的な女性が主人公です。ただ女性が主人公というなら「露を厭う女」などもありますが、昭和の最先端を行っているような女性を描いているのが珍しいです。
(3)物語の前半は台湾が舞台になります。すなわち、植物学者の島崎博士の研究所が台湾の南投にあり、そこに博士の娘の貞子とその家庭教師の卯月早苗(主人公)が訪ねていく所から始まります。
それからもう一つ驚くのが、物語の半分くらいで、いきなり島崎博士の次男が国際スパイの容疑で取り調べを受けているという話が出てくることで、よくそんな際どい話が書けたなと感心しますが、白井喬二は軍当局にはある意味覚えがめでたい作家だったので、書けたのかもしれません。
後は、卯月早苗が、島崎博士の次男にかけられたスパイ容疑を、そのスパイ容疑を当局に訴えた国際スパイの研究家と堂々と論争して勝ち、容疑を晴らして一躍スターのようになるのですが、その後早苗が5歳年下の島崎博士の三男と結婚していることが明らかになると、今度はマスコミは手のひらを返したように早苗を非難し始めます。これも非常に現代的な設定です。
時局迎合といえば、早苗の夫となった島崎博士の三男が入営し、中国大陸に送られる所で終わっているのが、そんな感じです。
とても入手が難しく(古書検索のサイトで、たった1軒の古書店だけが扱っていました)、また白井の全集等でもまったく採用されていない作品なのですが、力作で現在でも価値を失っていないと思います。

参考:
http://www.shuppan.jp/shukihappyo/777-201512.html
に以下の記事あり。
『大毎』1939年5月25日付11面の自社広告から,白井喬二「地球に花あり」が「皇軍慰問」の文脈にあった特別な作品であったことがわかり,平均回数(12回)をはるかに超える連載回数となったといえる。白井喬二「地球に花あり」の最終回(同誌1939年11月26日号)に掲載された読者の声,8名の属性(白井喬二ファン,「文学建設」同人,文学の門外漢,文学関係者2名,「雄弁」編集部,台湾の読者,戦場の読者,挿絵の田村氏のファン)が,編集部が想定する読者像と考えられ,この2作は,読者層の拡大を目的に人気作家の連載小説を掲載するという新聞社出版の伝統的な編集戦略にのった作品と位置づけられる。)