遠藤周作の「沈黙」

遠藤周作の「沈黙」を読了。マーティン・スコセッシの映画が1月後半に封切られるので観ようと思い、その前に原作を読もうと思って読んだものです。感想はネタバレさせないと不可能ですので、以下はこれから原作読むか、映画で初めてストーリーに触れる人は読まない方がいいです。
まず、戦国時代から江戸時代にかけて日本に来たポルトガル人宣教師の中で、幕府による迫害に負けて棄教して日本人になったという人が複数いたことは、今回初めて知りました。遠藤周作はこの歴史的事実を元にして、その棄教に至るまでの事情を追っていきます。物語はまずフェレイラという司祭が日本で棄教したという事情がローマ教会に伝えられる所から始まり、フェレイラにかつて教えを受けた3人の若い司祭が日本に渡ろうとし、2人がそれに成功します。それでロドリゴという司祭の方が、最終的にフェレイラの勧めもあってキリスト教を捨てるのですが、その理由は直接的には彼がキリスト教を捨てないと、日本人信徒が拷問で殺されるからですが、もう一つは幕府のキリシタンへの弾圧に対し、神が「沈黙」を続けることに対して、疑問の心が起きたからです。ここの所、私は非常に引っかかります。本当のキリスト教では、旧約聖書のヨブ記に見られるように、どのような苦しみを神から与えられようと、決して神を疑ってはいけないとされているのが、まず第一点です。さらには、キリスト教は現世利益を求める宗教ではなく、むしろ苦難を与えられることこそ神に選ばれたということという考え方があります。(マックス・ウェーバーはこれを「苦難の神義論」と呼びました。キリスト教というより元々迫害され続けた流浪の民であるユダヤ人の宗教であったユダヤ教の考え方ですが。)この作品に出てくるカトリックの司祭は、何度もこれだけ信者が苦しんでいるのに、何故神が奇跡を起こして信者を救わないのか、と疑問に持ち続けます。この考え方自体がまったくキリスト教の本来の考え方から見ると相容れないものに思えます。この本は最初に出た時に九州のカトリック教会から「禁書」に指定されたそうですが、なんとなくわからないでもありません。そういう訳で非常に違和感のある作品ですが、ただロドリゴが「転ぶ」所で、この場にもしイエス・キリストがいたならば、彼もまた(苦しんでいる信徒を救うため)「転んだ」であろう、という議論は重いです。
後、本筋とは関係ありませんが、フランシスコ・ザビエルが最初にキリスト教(カトリック)を日本に伝え、わずかな間に最盛期では40万人もの信徒を獲得した、ということに驚きました。今の日本でのカトリック教徒の数もせいぜい50万人なんで、ほとんど変わりません。
映画については、スコセッシが最初に映画化するのではなく、1971年に既に篠田正浩監督によって映画化されています。(最初に棄教するフェレイラを演じたのはなんと丹波哲郎。)ともかく、スコセッシの映画が楽しみです。

韓国国家代表チームの「新手/新型 定石の解析」

韓国国家代表チーム(囲碁の)著の「新手/新型 定石の解析」を読了。私が囲碁を覚えたのは大学の時で、もう35年くらい経っています。当然定石もその頃覚えたのですが、今や定石は大幅に進化し、昔はまったくあり得なかったような手が登場していて、NHK杯の囲碁とかを観ていてもついていけないことがあります。そういう訳で、この本を買ったのですが、かなりの種類の最先端の定石が載っていて有用でした。しかしながら、その変化はかなり高度で、私の棋力ではついていくのが大変でしたが…また、日本の定石の本だと、一つの隅の図しか出てきませんが、この本は常に碁盤全体が示されていて、常に回りの配石との関係で、定石の結果の優劣が判定されています。考えてみればこれは当たり前のことなのですが、日本では古くからの慣習に左右されて、これができていません。そういう意味で、この本は単に定石の本と言うだけでなく、布石、序盤の戦いを兼ねた本になっています。序盤の戦いも、昔だったら、割り打ちを打って、それから開いてとじっくり行く所を、今の碁は相手の囲んでいる石にいきなり横付けしたりしますので、どこから戦いが始まるかがまったく読めません。そういう最新の打ち方に触れるのにいい本です。高段者向けです。

今村俊也の「世界一厚い碁の考え方」

今村俊也九段の「世界一厚い碁の考え方」を読了。今村九段は、タイトルの通り「世界一厚い碁」を打つと言われている棋士です。碁の最終目的は相手より多く地を取る、ことです。「厚い碁」というのは、どちらかというとその正反対で、相手に地を与え、自分は外回りの勢力と好形を得る打ち方です。現在の囲碁は、足早に展開していく打ち方や、地を先行して取っていく打ち方が主流です。というのは「厚い碁」というのはなかなか勝ちにくいからです。「厚い碁」は相手にまず地合でリードを与え、後半で盛り返して逆転する勝ち方をする必要があり、これが簡単そうでなかなかできません。そういう訳で今村九段のような打ち方はプロでは少数派ですが、「厚い碁」を打ってなおかつ勝っているというのがすごいです。今村九段はタイトルこそ取っていませんが、7大タイトルで2回挑戦者になっていますし、NHK杯の囲碁でも2回準優勝しています。この本はそんな今村九段のノウハウを書いた本ですが、内容はどちらかというと初級者~中級者向けです。もう少し実戦例を多く載せて欲しかったです。

井山裕太、黄翊祖の「井山、黄の定石研究 進化する流行定石」

井山裕太、黄翊祖の「井山、黄の定石研究 進化する流行定石」を読了。私の囲碁は典型的な本で覚えた碁で、理屈には詳しいけど、実戦経験が不足しているのでなかなか強くならなかったのですが、コンピューター囲碁が進化して私の棋力を追い越して、ようやく稽古相手として不足がなくなって、対局の数をこなして多少強くなることができました。しかし、最近伸び悩みを感じているので、また少し棋書に戻ってみようと思います。最近の囲碁でついて行けないのは、定石がどんどん変わっていることです。この本の表紙に出ているのなんかいい例で、昔はこんな打ち方をする人は皆無でした。定石は、隅での黒白の攻防を、ある程度机上で研究して、または実戦で試されて、黒白互角とされる攻防をまとめた手順ですが、碁は隅で完結している訳ではなく、他の箇所との関連があるので、その部分だけ見た最善手が全局的に見た最善手とは限りません。そういった関係で、プロの実戦では定石はどんどん変わっています。そういうのにちょっと追いつくにはいい本でした。かなりレベルの高い本で、アマ高段者向け。

古書山たかしの「怪書探訪」

古書山たかしの「怪書探訪」を読了。元は東洋経済オンラインで連載されていたWebコラムです。作者は上場企業の役員をやっている人だそうですが、筋金入りの古書マニア。なんせ1日に3冊のペースで古書を買っているそうです。このペースで買い続けると、10年で1万冊を超します。私は中途半端なおたく、は好きになれませんが、マニアは尊敬します。本物のマニアがその趣味に関して書いたことは大体面白いと思います。この本も外していません。あの吉川英治が映画のキング・コングを観て、それをぱくって「恋山彦」を書いたとか、マーク・トウェインがハックルベリーフィンの冒険のシリーズの最後の作品で、なんとハックがコレラ菌になってしまうという話を書いたとかは初めて知りました。「恋山彦」はAmazonでポチってしまいました。また日本のSF史上もっとも怪しい作品として有名な(これは知っていました)、栗田信の「醗酵人間」もこれもポチりました。(復刻版が出ているのです。)他にも、尾崎紅葉の鬼桃太郎、とか興味の尽きない作品がたくさん紹介されていて、お勧めです。

南條範夫の「駿河城御前試合」

南條範夫の「駿河城御前試合」を読了。白井喬二を全部読んでしまったので、次に読む本を模索していて、Amazonのお勧めで出てきたので買ってみたもの。講談の「寛永御前試合」の元になっているという「駿河城御前試合」の、11組の剣士の真剣による斬り合いの対決を描いた作品です。白井喬二を白魔術とすると、これはまごう事なき黒魔術的世界で、さわやかさはかけらもありません。出てくる試合がどれもどろどろした因縁に基づく陰惨な試合で、出場した二十二名は次々に倒れていき、最後まで無傷で生き残ったのはわずか四名に過ぎません。その四名も後日談が最後についていて、全員死んでしまいます。この試合を主催したのは、徳川忠直で、三代将軍家光の弟です。三代将軍争いで、家光に敗れ、幕府に対して謀反をたくらみ、全国から腕の立つ者を集めていたというのが背景になっています。漫画家の山口貴由(「覚悟のススメ」の)がこの中の一篇を原作にして「シグルイ」という漫画を描いており、それで最近また有名になった本のようです。ともかく私の好みではないですね。

国枝史郎の「蔦葛木曽桟」(下)

国枝史郎の「蔦葛木曽桟」(下)を読了。未完なのかと思ったら、かなり強引ながら一応決着が付けられていました。これは雑誌「講談雑誌」に連載された時は、未完で終わってしまったのを、作品が平凡社の現代大衆文学全集(例の白井喬二が企画に関わって、第一巻が「新撰組」だったあの全集です)に入る時に、最後の四章分が削除されて、新たに結末が書き加えられたということです。しかし、この結末はかなり取って付けたもので、父の敵を取ろうとしている鳰鳥は百々地三太夫に幻術の奥義を習ってそれを身につけるのですが、折角身につけたその技術は敵討ちにはまったく使われることなく、敵は別の人間が討ってしまいます。また、本筋とはまったく関係ない、麗人族と獣人族の対立の話がまるで階級闘争のようにどんどん膨らんでいきます。この作品が事実上の国枝のデビュー作みたいですが、デビュー作から国枝の長篇の構成力の欠如が如実に現れています。この文庫本には雑誌連載の時の最終回も付属していて読み比べできます。

国枝史郎の「蔦葛木曽桟」(上)

国枝史郎の「蔦葛木曽桟」(つたかずらきそのかけはし)上巻を読了。国枝史郎については、白井喬二以上に読み込んでいて、2012年末から2013年初めにかけて、青空文庫に入っているものをKindleで全部で67作ほど読了しています。その時、「蔦葛木曽桟」については、まだ青空文庫に入っておらず未読のままでした。2016年の4月に青空文庫に入ったようですが、今回は文庫本を求めて読みました。国枝史郎と白井喬二を比べると、一つ一つの文章の詞藻の素晴らしさ、美文という意味では国枝の方が優れています。ただ、国枝は白井喬二に比べると長篇の構成力という意味では大きく劣ります。国枝の作品は長くなってくると途中でストーリーが破綻してきて、そのまま未完となってしまっているものも多くあります。というかこの「蔦葛木曽桟」も、結局「前篇」止まりで終わってしまい、その後続きが書かれることがなかったもののようです。イスパニアのキリスト教の司僧が日本に布教のためにやってきて、木曽の領主の義明のために斬殺されるが、残された娘は遊女となって義明に近づき、また息子は御嶽冠者と名乗って、それぞれ父の敵を討とうとするのですが、途中で敵討ちはどこかにいって、どんどん話が明後日の方に膨らんで行く所で、上巻は終わります。

森見登美彦の「夜行」

白井喬二の本で手持ちのもので読んでいないのは「国史挿話全集」全10巻だけになりました。これは全部文語で読みにくいのと、内容が必ずしも面白いものではないので、ぼちぼち読み進めていくつもりで、取り敢えず白井喬二については一応打ち止めです。
そういう訳で、今度は、森見登美彦の「夜行」を読了。森見登美彦も私はファンで、その作品はほとんど読んでいます。森見登美彦の作品の傾向はいくつかに分類できますが、この作品は短篇集「きつねのはなし」と傾向が似ている、ミステリアスで幻想的な話です。若くして亡くなった銅版画家の岸田道生の「夜行」と呼ばれる連作作品を中心にして話が進みます。十年前、鞍馬の火祭を見に行った、語学学校で知り合った男女の内、一人がその夜に失踪します。そして10年経って再び鞍馬の火祭を見に行こうと集まった仲間が、それぞれの旅行先での不思議な体験を語ります。その場所が何故か岸田道生の「夜行」が舞台にした場所、つまり尾道、奥飛騨、津軽、天竜峡になります。岸田道生には実は「燭光」と呼ばれる朝を描いた別の連作もあると噂されていましたが、誰もその作品を見た人はいませんでした。別々の話だった筈のそれぞれの話はいつの間にか関連を持ち始め、版画にまつわる表と裏が交錯し、やがて…という話です。こういう作品も悪くないですが、私は「有頂天家族」とか四畳半ものの方が好きですね。

白井喬二の「伊藤博文・袁世凱」

白井喬二の「伊藤博文・袁世凱」(東亜英傑伝)を読了。この歳になって伊藤博文の伝記をまさか読むとは思いませんでしたが、なかなか面白かったです。松下村塾で吉田松陰の教えを受け、松陰からその政治の才能を見抜かれています。長州の5人組でイギリスに渡ろうとしますが、上海で何を学びに行くのか聞かれて、「海軍 Navy」と答えるべきを「Navigation 航海法」と答えたために、帆船に放り込まれて、水夫としこきつかわれて大変苦労する所など、なかなか面白いです。明治憲法を作り、日清戦争を勝利に導き、初代韓国統監となり、最後はハルビンで安重根に暗殺されてその生涯を終えます。
もう一篇は「袁世凱」ですが、袁世凱が「東亜英傑」なのか大いに疑問があります。決して褒めて書いている訳ではないですが。この「東亜英傑伝」シリーズは大体日本人が前半2/3くらいを占めていて、残りの1/3がアジアの人物という構成になっています。これでこのシリーズを6冊読みましたが、後2冊は現在入手できていないです。総じて言えるのは、やはり白井の時局迎合的な仕事だということで、決して白井の本領は発揮していないです。