ホン・ミンピョ他の「人工知能は碁盤の夢を見るか? アルファ碁 VS 李世ドル」

「人工知能は碁盤の夢を見るか? アルファ碁 VS 李世ドル」を読了。アルファ碁と李世ドルの対戦については、これまで棋譜をじっくり眺めておらず、今回初めて全局の棋譜を見ました。碁盤に一手一手並べた訳ではないのですが、アルファ碁が決して完全なソフトではないことはわかりました。多くの人は、コンピューターは部分の読みで人間に優り、人間は全体の構想力でコンピューターに優ると思われると思いますが、5局の棋譜を眺めた限りでは、実際は逆です。コンピューターは決していつも部分的に正しい手を打っている訳ではなく、李世ドルの読みや他の棋士が後から発見した手の方が良かったケースが何度もありました。また第4局で李世ドルの「勝着」となった白78の「神の手」も正しくコンピューターが応じていれば成立していませんでした。むしろコンピューターが優れているのは数手のセットで、人間が考えつかないような構想を見せてくれた所で、囲碁というゲームの奥深さがいっそう明らかになったように思います。また、第1局から第3局までは李世ドルはほとんどいいところがなく、コンピューターにやられっぱなしでしたが、第4局で初勝利し、第5局も惜しい戦いでした。このことは、李世ドルがアルファ碁との戦いに慣れてきて学習効果が出てきたことを意味します。もし、5局で終わりでなく、さらに対局が続けば李世ドルがもっと勝つ場面があったように思います。また、持ち時間が2時間というのも人間にとって不利です。アルファ碁の打ち方は、間違いなく人間が打った碁をベースにして学習したものですし、第4局で見せた明らかにバグであるような2手もあって、まだまだこれからという風に思いました。オセロも今は人間はとても勝てないですが、森田オセロが出てきた頃は最初の頃は人間に連勝していても、やがて研究されて人間の勝率が良くなった、ということもありました。コンピューター囲碁もまだこの段階で、完全に人間がコンピューターに負けたという段階までにはまだ来ていないように思います。

白井喬二の「北條時宗・忽必烈」

白井喬二の「北條時宗・忽必烈」(東亜英傑伝2)を読了。言うまでもなく、元寇(蒙古襲来)の話が中心です。この蒙古襲来も調べて見ると、今まで思い込んでいたのと色々違います。特にいわゆる「神風」ですが、最初の襲来である文永の役では、日本の勝利の原因は神風ではなく、既に鎌倉武士の奮戦で蒙古・高句麗連合軍を撃退することに成功しており、蒙古・高句麗軍が撤退を決めて引き上げている途中で嵐が来たのであり、この嵐が日本勝利の直接の原因ではありません。実は、歴史の教科書で「神風」による勝利が書かれるようになったのは昭和18年の国定教科書からなんだそうです。2回目の襲来である弘安の役でも、蒙古・高句麗軍は5月から7月まで実に3ヵ月近く博多湾に居続けたのであり、これだけの長い期間いればこの間に台風の1つや2つ来ても何の不思議もないということです。この白井の本は昭和17年の出版ですが、「神風」という表現はそれなりに強調されて出ています。
しかし、結局の所、蒙古軍が海戦に慣れていなかったということが大きいのであり、海に囲まれた日本が幸運であった、といわざるを得ません。当時の大モンゴル帝国の大きさを見るとぞっとします。

白井喬二の「小村寿太郎・汪精衛」

白井喬二の「小村寿太郎・汪精衛」を読了。何故か巻数が書いてありませんが、これも「東亜英傑伝」の中の一巻です。小村寿太郎は言わずと知れた名外交官で、日露戦争の時のポーツマス条約の締結者として有名です。この本が書かれたのは昭和18年ですが、それを差し置いても、小村寿太郎は今でも賞賛されるべき外交官であると思います。亡くなったのがわずか57歳の時というのを初めて知りました。アメリカのハリマンが満州鉄道の共同経営を日本に持ちかけますが、小村の反対でこの仮契約は破棄されます。このことは、よく日本の権益をアメリカから守ったというプラスの評価と、後の日米対立の原因になったというマイナスの評価があるようです。
汪精衛は、通常日本で知られている名前では汪兆銘です。でも中華圏でも汪精衛の方が一般的みたいです。日中戦争のさなかに、南京国民政府を作り、日本との和平路線を推進します。そのため、現在の中国ではいわゆる「漢奸」、日本に寝返った最悪の裏切り者とされています。逆に言えば、昭和18年当時では日本から見たらもっとも信頼できる中国人な訳で、それでこの「東亜英傑伝」の中に入っています。

アンソニー・ホープの「ヘンツォ伯爵」

アンソニー・ホープの「ヘンツォ伯爵」を読了。「ゼンダ城の虜」の続篇です。本篇で、王様をゼンダ城に捕囚していた悪党のうち一人のヘンツォ伯ルバートが死なないで逃亡してしまっていましたが、そいつが悪巧みをたくらんで、フラビオ王女のラッセンディルへの手紙を手に入れ、それをネタに自分の地位の回復を図ります。それに対して、ラッセンディルが再びルリタニア王国へやってきて、愛する王女のために手紙を取り戻そうとします。そうする中で本物の王様がルバートに殺されてしまいます。今や本物の入れ替わりではなく、本物そのものとして行動しなければならなくなったラッセンディルですが、彼が最後に下した決断とは…ホープはこれしかないという結末をこの物語に与えます。それはいわゆるハッピーエンドとは少し違いますが、非常にすがすがしい最後です。

白井喬二の「西郷と勝安芳・孫文」

白井喬二の「西郷と勝安芳・孫文」(東亜英傑伝8)を読了。「西郷と勝安芳」は当然江戸無血開城の両立役者の西郷隆盛と勝海舟の伝記ですが、西郷隆盛が薩摩藩によって三度も島流しにされていたとは知りませんでした。それも一度目の島流しの理由がひどくて、禁漁の山で猟をして猪を捕り、そればかりか明かり代わりに立木に火を付けたらそれが山火事になってしまったからというもの。西郷どんとは思えないようなドジな理由です。(今Webで調べて見たらこの時流されたのは台湾で、そこに子孫を残したという伝説もあるみたいです。出典は入江晩風の「西郷南洲翁、基隆、蘇澳を偵察し、『寛永4年南方澳に子孫残せし物語』」みたいです。)しかしそうはいっても、明治維新という大革命が、江戸での戦争という最悪の事態を免れたのは、何といっても両雄のお陰です。
「孫文」は何と言おうか、時局迎合的です。この東亜英傑伝の8巻の中に、孫文、汪兆銘、袁世凱の3人が登場しますが、どれを取ってもたぶん日本から見た都合のよい視点で描かれていると思います。

アンソニー・ホープの「ゼンダ城の虜」(白井喬二の「珊瑚重太郎」との比較)

アンソニー・ホープの「ゼンダ城の虜」を読了。
この作品を読んだのは、この所日本の大衆小説ばかりを読んでいたので、たまには翻訳ものを、という動機ではありません。
白井喬二の「珊瑚重太郎」がこの作品のパクリではないか、ということを書いている評論家がいるので、その真偽を確かめるためです。
結論として、「容貌がそっくりで身分が違う者が入れ替わる」という点以外に、「珊瑚重太郎」が「ゼンダ城の虜」の設定を借りている所はまったくなく、白井はまったくの「白」でした。大体、この「容貌がそっくりで身分が違う者が入れ替わる」というのは、マーク・トウェインが1881年に「王子と乞食」で最初に使ったもので、Wikipediaによれば「待遇は異なるが容姿が似ている登場人物が入れ替わって周囲から誤認されたままとなるストーリーについては、ストーリー類型のひとつとして成立し、その後も様々な作者の手によって同様の形式を持つ作品がよって作られている。」なのであり、ホープの作品も白井の作品もその一つに過ぎません。この「王子と乞食」は明治時代から翻訳が出ており、1927年に村岡花子によって新しく日本語訳されたものが出ているので、白井が影響を受けたとすれば、「王子と乞食」であると考える方が自然です。ちなみに「ゼンダ城の虜」は1894年で、珊瑚重太郎は1930年です。
「ゼンダ城の虜」は後半の本当の国王をゼンダ城に救いに行く話が面白いですが、全体としては白井の「珊瑚重太郎」の方がはるかに面白いと思います。特に「ゼンダ城の虜」は国王に入れ替わった後、ラッセンディルはうまくその役をこなして、特にはらはらする場面はありませんが、「珊瑚重太郎」では、ある大名屋敷の若殿様に入れ替わった主人公に次から次に難題が降りかかり、それが非常に面白いです。特に大名屋敷とある貧民長屋の争いで、主人公が裁判の両方の当事者になってしまって、一人二役をお奉行所で演じる様は爆笑ものです。
ここに改めて書きますが、「珊瑚重太郎」は「ゼンダ城の虜」のぱくりなどではなく、日本版「王子と乞食」とでもいうべきもので、白井の傑作の一つです!

白井喬二の「中江藤樹・孔子」

白井喬二の「中江藤樹・孔子」(東亜英傑伝6)を読了。全体の2/3が中江藤樹編です。中江藤樹は近江聖人と呼ばれた日本の陽明学の祖で、熊沢蕃山の先生です。戦前の修身の教科書には必ず登場していた人物です。喘息を患ってわずか40歳で死んでいます。大変な親孝行として知られた人で、子供の頃絵本でその逸話を読んだような記憶があります。ただ、全体としてはつまらないですね。中江藤樹の何が偉いのかがよくわかりませんでした。

白井喬二の「戦国武将軍談」

白井喬二の「戦国武将軍談」を読了。同じ作者の「国史挿話全集」の中のエピソードを現代語訳したもの。(「国史挿話全集」は原文のまま)戦国武将にまつわる色々な逸話を集めたものですが、正直な所、あまり面白くはないです。まあトリビアルというか…

中山典之の「昭和囲碁風雲録」(下)

中山典之の「昭和囲碁風雲録」(下)を読了。上巻を読んでの感想で、「読売新聞は今でも一番賞金の高い棋聖戦を主催していますが、そういう歴史的経緯がある訳です。」と書きましたが、これがとんでもない思い違いであることがこの巻を読んでわかりました。昭和36年に読売新聞で第1期名人戦が始まりますが、この時の賞金総額が2,500万円でした。しかし、10年経って昭和46年になっても、賞金総額は2,750万円で10年前とほとんど変わっていませんでした。しかし、この間に日本は高度成長を遂げ、物価はその10年で約2倍になっています。これに対してついに怒って重い腰を上げた日本棋院が昭和49年に読売新聞に対し、名人戦の契約の打ち切りを通告します。これによって日本棋院と読売新聞は一種の戦争状態に入り、結局裁判にまでなります。結果として名人戦は朝日新聞に移り、裁判の和解条件として読売新聞が序列1位の別の棋戦を主催することになり、こうして生まれたのが棋聖戦でした。さらに知らなかったのは、朝日新聞が棚ぼた?で囲碁の名人戦を手に入れた訳ですが、今度は将棋界が将棋の名人戦の賞金が囲碁に比べて低すぎると言い出し、将棋の名人戦は結局毎日新聞に移ります。この辺りの関連は知りませんでした。
登場する棋士は、呉清源は別格として、本因坊戦9連覇の高川秀格、その後に全盛時代を迎えた坂田栄男、その坂田の全盛時代を終わらせた林海峰、そしてその林海峰を「どこが強いんですか」といって、林相手に7割の勝率を誇った石田芳夫、と続き、更には大竹英雄、武宮正樹、加藤正夫の木谷一門全盛期となり、その後趙治勲、小林光一の時代へと移って行きます。
振り返ってみると、昭和は囲碁にとっていい時代だったと思います。いまやコンピューターの囲碁がプロ棋士を抜いてしまっていますが、今後も新聞社が囲碁に高いお金を出し続けるとは正直思えません。

中山典之の「昭和囲碁風雲録」(上)

中山典之の「昭和囲碁風雲録」(上)を読了。ここの所、ずっと白井喬二ばかりを読んできたので、ちょっと目先を変えました。文字通り昭和の囲碁史で、日本棋院が成立する直前から、戦後関西棋院が分離・独立するまでを描きます。筆者は囲碁ライターではなく、執筆当時6段の専門棋士です。(死後7段を贈られています。)大体は知っている話でしたが、知らないエピソードもたくさんありました。特に昭和20年の本因坊戦は「原爆下の対局」として有名で、当然知っていましたが、元々は広島市内で対局する予定で、当局に危険だと言われて五日市に場所を変えたということを知りました。わずか10Km移動しただけですが、それが明暗を分けました。本来の広島市内で対局が行われていたら、岩本薫も橋本宇太郎も原爆の犠牲になっていた訳です。
後は、新聞社にとって囲碁が今では考えられないくらい大事なコンテンツだったということで、読売新聞は、何回か囲碁のお陰で部数を大幅に伸ばしています。囲碁がなかったら、読売新聞は三流新聞のままでした。読売新聞は今でも一番賞金の高い棋聖戦を主催していますが、そういう歴史的経緯がある訳です。
後は何といっても呉清源の活躍で、昭和囲碁史の前半は間違いなく呉清源のためにあります。