書籍の整理第三弾。辞書・事典類。全部で100冊ありました。国語辞書が12冊もあるけど、これは日本語変換ソフトの開発部署にいた名残です。今はほとんど引くことはありません。英語も英和と和英は普段はほとんど英辞郎とカシオの電子辞書で間に合っています。オックスフォードのラテン語大辞典2冊は、マックス・ヴェーバーの「ローマ土地制度史」の翻訳のため買いました。
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外国語関係の書籍の整理
ヴェーバー関係の書籍の整理
教養としてのデータサイエンス
最近、データサイエンティストの養成が急務!とかいった論をよく見るので、データサイエンスに関する入門書を読んでみました。しかし悪い意味で予想が当たり、流行のIT用語を浅く広く紹介し、それに若干の統計学の初歩を付け加えただけの本でした。例えば実験計画法は注で2行の説明だけ。マハラノビス距離についてはまったく出て来ません。私には先日のDatabricksのセミナーでの大企業でのビッグデータとの格闘の例の方がはるかに参考になりました。
また、こんなの読むくらいだったら昔の数理統計学の本を読んだ方がよっぽどマシだとも思いました。写真は元々亡父(元高専の数学教師)の本で、私が情報処理技術者試験の一種を受ける時に、待ち行列などの参考書として持ち出したものです。1950年代後半から1960年代にかけての本です。
宮本常一の「忘れられた日本人」
宮本常一の「忘れられた日本人」を読了。民俗学や文化人類学を大学の時に囓っていたので、この人の名前は当然知っていましたが、これまで読む機会がありませんでした。内容は多くが西日本の村落を宮本が精力的に訪ね、その土地土地での古老の話を聞き取ってまとめたものです。その内容は生きた本当の生活史という感じで、忘れられたなにかを思い出させてくれるものでした。その中には大田植えで、植えるのが遅いものを両隣のものが先行して植えていってしかもその間隔を狭めていってついには真ん中の者の行き場を塞いでしまうという、大学の時野村純一先生の授業で聞いた話も出てきて懐かしかったです。その一方で不満に思ったのが、西日本では伝承は村単位で継承されるのに、東日本ではそれがイエ単位になるという非常に興味深い指摘をしています。しかし宮本民俗学はそこで留まってしまい、さらに多くの事例を検討して理論として深めていくというのが非常に弱いです。それは逆に言えば、少ない事例から無理矢理もっともらしい理論化を急ぐ、西洋風の学問への反発かもしれません。実際に宮本は柳田國男の「方言周圏論」を否定的に捉えていたようです。とはいえ、これが「学」かと言われるとちょっと私には抵抗があります。むしろ文学的価値の方が高いように思います。
文字通り汗牛充棟
新居の本の整理、ようやく一段落しました。しかし本棚16台を使ってもまだ残っており、今日Amazonにまた本棚を発注しました。本棚1台あたり大体200冊くらいということですから、単純計算で17台で3,400冊あるということになります。写真は一部です。私の場合、読む本はもちろんありますが、資料で買ったのも多いです。例えば四字熟語の辞書は5冊くらいあります。これはATOKの四字熟語を強化する時に使ったものです。後は白井喬二関係も本棚2台分くらいあります。これはどこかの図書館に寄付してもいいんですが、最近どこの図書館も蔵書スペースが足らず、寄付はまったく歓迎されないようです。まあ白井喬二関係では、私の蔵書が日本で一番充実していると思いますが。
中村真一郎の「江戸漢詩」
中村真一郎の「江戸漢詩」を読了。あまり知られていませんが、日本で漢詩作りが一番盛んだったのは江戸時代の後半から明治の初めにかけてです。その証拠の一つは、明治時代の新聞には、必ずといっていいほど、読者投稿の漢詩の欄がありました。それほど漢詩作りが一般の人にまで広く行われていた訳です。乃木大将や大正天皇といった方はその最後のグループに属します。また私見ですが、現在日本にやってくる海外の観光客が称賛して止まない日本の文化というものは、ほとんどが江戸時代後期に熟成したものだと思います。例えば漫画やアニメの絵の元は江戸時代の絵師の絵で、手塚治虫の決して二度書きしない流れるような線は、浮世絵師の絵が元だと思います。
この本はそうした漢詩の全盛期の作品を、頼山陽みたいな有名な人だけでなく、かなり広い範囲で集め解説したものです。その題材も伝統的な風景を描写することに留まらず、生活の隅々までに及び、中には吉原の遊女についての粋なものも存在します。またこの時代女性の漢詩人が活躍したのも大きな特長で、例えば頼山陽の生涯を通じた愛人だった江馬細香が有名です。
漢詩は明治に入り、従来の漢籍の教養から西洋の科学へと人々の学習の重心が移っていくに従って衰えていきます。しかし漢詩もまた、日本人が外国の文化を自家薬籠中の物にするという典型の一つだということを、この本は教えてくれます。
白井喬二の「彦左一代 天馬の巻」
久しぶりに白井喬二作品で、「彦左一代 天馬の巻」を読了しました。2022年11月に、上巻の「地龍の巻」だけを読んでいて、下巻を探していましたが、古書店のTさんがわざわざ私のブログで入荷した旨をコメントで教えてくださり購入したものです。この場をお借りしてTさんに御礼申し上げます。
下巻はいわゆる「天下のご意見番」となった大久保彦左衛門の活躍が描かれますが、いわゆる講談での籠での出仕が禁じられたので桶に乗って登城したなどの通俗エピソードは紹介されておらず、白井作品の主人公らしく筋を通し、言説を駆使し、出世を拒み、主君家康に尽くす彦左衛門が描かれます。ただ出世を拒んだと言っても、歴史的事実は大久保彦左衛門はそれほどの戦勲を上げたというのは疑問で、関ヶ原の戦いの前哨戦及び本戦でも真田幸村に散々な目に遭わせられています。三河以来の直参だから二千石まで言ったのであり、それ以上の禄をもらう程の器量は無かったというのが正解でしょう。ただ清貧に甘んじ、浪々の身の侍を多く食客として抱えていたというのは事実みたいで、そういうのが誇張されたのが「天下のご意見番」なんでしょう。そうはいっても、この作品で彦左衛門が福島正則を何度も凹ませる活躍は痛快です。この作品が出版されたのは昭和17年10月でミッドウェー海戦以降の敗戦は国民には伝えられていなかったでしょうが、次第に戦況が悪化していっていた時で、このような作品は国民に少しでも慰撫を与えることが出来たのではないでしょうか。
古田博司の「旧約聖書の政治史 預言者たちの過酷なサバイバル」
古田博司の「旧約聖書の政治史 預言者たちの過酷なサバイバル」を読了。この本は元々Willに連載されていたもので、著者もどちらかというとそちら系の人です。ですがまあ面白かったです。またタイトルから想像されるような学問的なものではまったくなく、著者の直感や想像や他の国の歴史からの類推に基づく自由なものです。だからといってそういうアプローチが否定されるべきかというと、旧約聖書のような古い時代の「文献」については、精確な科学的なアプローチというのもほとんど不可能です。この本で何度も言及されているマックス・ヴェーバーの「古代ユダヤ教」だって、述べられていることの多くはヴェーバーの直感に基づくもので、聖書学者の田川健三なんかはぼろくそにけなしています。そういう本であっても、正直な所旧約聖書の世界には疎い私にとって、旧約の世界に多少なじむきっかけにはなったと思います。この本を読んで改めて感じたのは、旧約のヤーウェという神はひたすら偶像崇拝、異教の神の崇拝を禁じ、それを犯したユダヤ人に対してしばしば罰を与えていますが、ユダヤが亡国の民となるまでの間、ヤーウェだけが純粋に崇拝された時代はほとんどないということです。ユダヤ人の国の全盛期はソロモン王の時ですが、そのソロモンですら晩年は偶像崇拝にふけっています。最後の方で預言者達が「先祖が偶像崇拝の罪を犯したので、ヤーウェが怒ってユダヤの国を滅ぼした」といういわゆる「苦難の神義論」は、そう考えるしかなかったというきわめて屈折した神概念だと思います。
ラファエル・サバチニの「スカラムーシュ」
ラファエル・サバチニ(サバティーニ)の「スカラムーシュ」を読了しました。読んだ理由は、大佛次郎がこの小説を翻案して「照る日くもる日」を書いたというのを聞いてからです。大佛がこの本を翻案の対象として選んだのは大正解で、この小説には大衆小説の全ての要素が含まれていると言っても言い過ぎではないです。主人公のフィリップ・ルイ・モローは口が立ち、ちょっと皮肉屋で、元々剣の素養がありましたが、ひょんなことから剣を教える先生の助手を務めることになり、そこで剣に関する書を読んで練習し、師を超える腕になります。また主人公の出生に関してどんでん返しが二つあります。更にはベースは友人の敵討ちです。そこに二人の女性が絡み、主人公の宿敵もその二人の両方に絡んで来ます。たまたまディケンズの「二都物語」に続けて読んだのですが、どちらもフランス革命の時代の話です。
大佛次郎が翻案した時にはまだ日本語訳は出ておらず、小林信彦は当時の大衆小説家の外国語力について感心していますが、大佛次郎は東京帝大法学部卒で外務省で翻訳係をやっており、外国語が出来るのはある意味当り前です。
「照る日くもる日」も取り寄せ中です。菊池寛が「照る日くもる日」に大衆小説の全てが入っていると誉めたそうですが、それは元の「スカラムーシュ」の功績であり、大佛次郎の功績ではありません。