Festivals (Senteisai in Shimonoseki city)

The following essay is what I wrote as an assignment for a writing course at an English school AEON:

Topic: Festivals
Style: Casual

I would like to introduce a famous festival held during the so-called golden week in Shimonoseki city, my birthplace. The name of the festival is Senteisai (a festival for the passed emperor) held from May 2 to May 4. The purpose of the festival is to pacify the spirit of the emperor Antoku who died young in 1185.
In late 12th century Japan, two dominant samurai families, Genji and Heike fought each other trying to get the governance of Japan. The battle of Dannoura was the last one where Genji defeated Heike completely on the Kanmon channel. It was a naval battle where many ships of the both sides fought on a very narrow channel called Kanmon channel between Honshu and Kyushu. In the first stage of the battle, Heike had superiority, but because of the change of tide, Genji finally destroyed most ships of Heike. The emperor Antoku, who was a grandson of Kiyomori Taira of the Heikes and was just 6 years old at the battle, was getting on a ship with some female retainers. Most remaining samurai and retainers drowned themselves. The young emperor asked to a female retainer where they would go. She replied that they would go to the paradise and there was another metropolis at the bottom of the sea. Then, she brought him into the sea.
Some menials were drawn up from the sea and survived. Many of them were forced to do prostitution to make a living. Later they started to hold a festival to comfort the spirit of the late emperor. That was the start of Senteisai. The most spectacle attraction on the festival is a parade of beautifully attired geisha girls called “joro dochu”. (Joro is another name of geisha in Japanese.)
It is alleged and also believed that it surely rains on at least one day among the three. We call it the tears of Heike people.
Lafcadio Hearn, aka Yakumo Koizumi in Japan, wrote a story of Miminashi Hoichi (Hoichi the earless). Hoichi was blind and was a story teller of the battels between Genji and Heike, accompanied by the biwa, a Japanese lute. He was favored by some ghosts of Heike. Whenever he told the story to them, all the ghosts cried harshly at the scene of the death of the young emperor. A famous priest tried to save his life and wrote holy scripts of Buddhism on all parts of his body. But because the priest failed to write them on Hoichi’s ears, his ears were found and taken by the ghosts. He survived, but later he was called Miminashi Hoichi, Hoichi the earless.

ディープな徳島弁

ちょっと思う所あって、以前1996年から2005年まで9年間勤務した会社(本社は徳島市)での業務ノート(9年間で実に70冊)を見ていたら、まだ徳島で働き始めて1ヶ月くらいの時に、その業務ノートに何故か以下のようなディープな徳島弁が書いてありました。

あばさかる、あるでないで、行っきょった、いけるで、いっちょも、えっとこと、おじゅっさん、おっきょい、おもっしょい、かんまん、きぶい、くわる、ごじゃ、しにいる、しらこい、じるい、たっすい、ちっか、つくなむ、つまえる、どちらいか、とろくそだま、へちる、まけまけいっぱい、むつこい、やりこい

この中でまあ分かるのは、

あるでないで→あるでしょう
行っきょった→行ったんだよ
いっちょも→少しも、一つも
おじゅっさん→お住職、お坊さん
おっきょい→大きい
かんまん→構わない
ごじゃ→いい加減なこと、出鱈目なこと
ちっか→竹輪
まけまけいっぱい→おちょこやコップに液体を注ぐ時にギリギリいっぱいまで

ぐらいです。
疑問なのは徳島で暮らし始めて一ヵ月くらいの段階で、こんなディープな徳島弁をどこで集めたのかということです。
後、このノートには書いていませんでしたが、「すっぺらこっぺら」も中々衝撃的な徳島弁でした。「ああ言えばこう言う」みたいな屁理屈をあれこれこねる、といった感じでしょうか。

「令和」は元号のキラキラネーム

「令和」ですけど、私は元号のキラキラネーム化じゃないかと思います。まず出典が万葉集の梅花の歌とされていますが、正しくなく、実際には32首の梅花の歌がどういう時に詠まれたかを説明した漢文で書かれた前文に過ぎません。しかも元号にはそれなりに意味があって「平成」の時は「地平らかに天成る」(書経)から取ったと説明されていました。しかし今回のはまず「令」が単なる次に来る名詞を美化する接頭辞に過ぎず、それ自体の意味が希薄です。「初春の令月にして、気淑く風和ぎ」の文から2つの漢字を抜き出しただけで、こんなのが出典とそもそも言えるのでしょうか。要するに2つの漢字で見た目と響きが良いのを組み合わせたというだけで、そういう意味ではキラキラネームとほとんど変わりません。そして今回の選定のメンバーが林真理子とか山中教授とか、漢字の知識に乏しい人が多数混じっています。その場合に、意味とかを深く考えないで語感優先に傾いたのだと思います。

また、「令和」の出典になった「令月」が国語辞書に載っているので今でも使われていると判断している人がいますが、少なくとも私は今まで「令月」が使われている明治以降の文学作品を見たことがありません。Googleのサイト指定検索で青空文庫の全体を検索しても、一件もヒットしません。また、国語辞書の「令月」の説明は各社横並びでほとんど同じであり、これはおそらくある最初に載せた辞書の記述を他の辞書がぱくっているということです。辞書の意味記述は、普通用例を集めてその使われ方を分析するのですが、青空文庫でも一件も用例がないのであればその作業が出来ません。なので他の辞書に書いてあるのをパクるということになります。

それから、令室、令息のような「令」の使い方は、本来良くも悪くもなるものに付くのであり、その意味で「令月」は問題ありませんが、「令和」のように、本来いい意味しかない言葉に付くのは違和感大です。「令善」とか「令美」がないのと同じです。2つの漢字の熟語としてはほぼ成立しえない組み合わせです。そういう意味でも子供の名前を付ける感覚に近いです。

新元号について

令和って要するに昭和Ver.2なんでしょうか。「昭」は「てりかがやいて明らかなこと」で、令和の「令」も「令室」とかの「令」で「美しい」といった意味でしょうから、ほとんど変わらないように思います。そのうち、「令和」ではなくて「後昭和」とか呼ばれるんじゃ。

英語の同語反復を避けるルールについて

例の英語の「同じ単語を一つの文章の中で繰り返さない」という暗黙のルールですが、ネットで調べた限りでは、このルールは元々フランス語のもののようです。ご承知の通り、中世ではイギリスとフランスは同じ王によって治められ、多数のフランス語の語彙が英語に流入している訳ですが、当然上流階級が話す言葉がフランス語であれば、英語にもフランス語の慣習が持ち込まれても何の不思議もありません。
つまりこのルールには最初から一種の鼻持ちならない階級意識みたいなものが随伴していると言えそうです。
他のイタリア語やドイツ語などでは、相手の疑問文中に出てくる単語を、答えの中では代名詞で置き換えるというのは非常によくあります。ですが、英語みたいに名詞を同じ意味の名詞で置き換えるなんてことは、私の知る限りほとんど出てこないですし、ドイツ語で卒論を書いた時にもドイツ人教師(複数)からそういう指導は一切ありませんでした。またドイツ語やイタリア語では名詞に性があり、代名詞もその性に合わせて語形が決まり、どの単語を指しているかの判定が比較的容易です。しかし英語の場合は人間を指している場合を除いて、名詞の性は明確ではないので、代名詞による判定は簡単ではありません。(例外的に、例えば船については女性扱いでsheで受けるとかありますが。原子力潜水艦シービュー号でも、シービュー号は常にshe/herと女性扱いで参照されています。例えばTake her up!は潜水艦を浮上させろ、という意味です。)
Eigoxの先生に聞いた所によると、通常の生活で使う語彙は高校までに習得するもので十分で、TimeやNewsweekやNew York Timesで使われる日常ではまず見ない奇妙な語彙は、基本的に大学に入る上でマスターしないといけないということみたいです。なのでネイティブも私が買ったような語彙増強本を買って必死に勉強して、やっとこれらの雑誌や新聞の語彙が理解出来るようになる訳です。私が何度も経験したのは、この手の雑誌や新聞に出てくる聞いたこともないような単語を辞書で調べてみると、多くは単純な意味に過ぎず他の単語で表現することが可能です。にも関わらずそういう語彙を使う一つの大きな理由として、この「同一単語の繰り返しを嫌う」慣習から来ているケースが多いということです。これらの語彙を知っているのは「大学で学んだインテリの証拠」ということになり、ここにもまたある種の特権意識が見られます。
私は「同じ単語を繰り返さない」というルールについては、メリットとしては、微妙な意味合いを持つ概念を複数の言葉で描写して、その意味を分かりやすくさせる、小説などで読者を退屈させないようにする、ぐらいしか見つけられません。逆にデメリットは沢山あり、まず契約書や技術的文書のような曖昧さを嫌う文書ではまず適用出来ないというのが挙げられます。また言うまでもなく、文章の意味を曖昧にしかつ意味が明確に伝わるのを邪魔します。更には文章を書くのに余計な時間がかかります。(英語のシソーラスはほとんどこの目的で使われていると言っても言い過ぎではないと思います。)私はウィリアム・ストランク・Jrの”The Elements of Style”を持っていますが、このライティングの古典的教科書が言っていることは、「簡潔で、明確で、力強い文章を書きなさい」ということで、同単語反復禁止ルールはまさにその反対のことをやることだと思います。

What are your thoughts about the Japanese youth culture?/ About otaku culture in Japan

The following is my essay that I wrote as an assignment for an English school AEON:

Topic: What are your thoughts about the Japanese youth culture?
Style: Formal

Regarding the Japanese youth culture, the most important buzzword to describe it might be “otaku”. The Japanese word “otaku” is usually translated into English as “geek” or “nerd”. It is often alleged, however, each of them does not exactly reflect the true meaning of the original Japanese jargon.
The word “otaku” appeared first in some print media in the early 1980’s. It was almost the same time when many sub cultures became viral, especially comics and animations. Otaku, in the first place, was used to describe young people who are too enthusiastic about comics or animations. The original meaning of otaku in Japanese is a vocative expression of second person. The word is used for those who often try to talk to others starting with ”hey, otaku”.
Comics were popular even before World War II and the first TV animation started in Japan in 1963. After the tremendous success of an animation movie Space Battleship Yamato in 1977, the number of young fans of comics and animation skyrocketed and both genres became big industries. The word otaku appeared around this time.
At the first stage, the expression contained a rather negative connotation as they have interests only in virtual things and do not have much contact with the real world. This negative image was exacerbated when the Tsutomu Miyazaki incident happed in 1988 and in 1989. The criminal was 26 – 27 years old at that time and killed four female children aged from 4 to 7. By the investigation of the Japanese police, it was revealed that he was holding more than 5,000 video tapes of animation or drama. Most people related the image of otaku to him.
The image of otaku was gradually improved during the 1990’s and in some case the expression was used to describe somebody who has some sophisticated knowledge for something. The areas of interest did not stay only at comics or animation, but they spread to many genres such as computer, train, military, movie, Sci-Fi novels, camera, audio, and almost all sub cultures.
Currently, it is argued that otaku culture in Japan declined a lot while the Japanese government is bubbling over promoting otaku culture to foreign countries with a disgraceful copy “cool Japan”. (Who dares to say “I’m cool!”?) The main reason might be bad economical status of the younger generation.

ワーグナーのタンホイザーの話の矛盾点

昨日の新国立劇場でのタンホイザー公演は非常に良かったですが、その感想は別途アップします。
公演中に思っていたのは、ワーグナーが作ったお話の矛盾点です。このオペラの中に「ヴァルトブルク城の歌合戦」というのが出てきて、これは史的事実で、またヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデという、ドイツの吟遊詩人(ミンネゼンガー)でもっとも有名な詩人がこの歌合戦に参加したのも事実です。
問題は、フォーゲルヴァイデの立ち位置で、オペラではハインリヒ(タンホイザー)が肉体的愛(エロス)を精神的愛(アガペー)よりも上にしたのに対し、フォーゲルヴァイデは精神的な愛を最上位とする詩人としてハインリッヒを非難する側として登場します。これは、ワーグナーのフェイク歴史といってしまえばそれまでですが、事実とはまるで逆です。フォーゲルヴァイデこそ、ハインリヒと同じ肉体的愛を訴えた詩人でした。
フォーゲルヴァイデの代表的な詩は、ドイツ人ならおそらく誰でも知っている「ウンダー・デア・リンデン(菩提樹の樹の下で)」です。この詩の内容は、どこにでもいる庶民の若い娘が、彼との性愛の楽しみ(菩提樹の樹の下で彼とエッチした)を歌っているものです。ついでに言うと、この詩の中に「彼と1000回もキスしたの」というのが出てきます。これは、明らかに古代ローマの詩人カトゥルスの有名な詩(「カルミナ」第5)のもじり(本歌取り)です。このカトゥルスの詩は、愛人レスビア(当時の高級娼婦だったと言われています)に対するある種の赤裸々な愛を歌ったもので、これも精神的な愛より肉体的愛の要素が強いものです。当時のミンネザングと呼ばれた吟遊詩人の詩は、「高いミンネ」(hohe Minne)と呼ばれた、高貴な婦人への献身的な愛(ミンネは「愛」の意味です)を歌うものが主流でした。それに対して、フォーゲルヴァイデは「低いミンネ (niedere Minne)」というものを提唱し、貴婦人ではなく庶民の娘を登場させ、精神的な愛ではなく、直接的な性愛の喜びを歌っています。
つまり、タンホイザーにおけるハインリヒの主張はほとんどそのままフォーゲルヴァイデの主張であり、それがハインリヒの反対派に回っているのはきわめて変だということです。

下の写真は、そのヴァルトブルク城の中に飾ってある、歌合戦の絵です。(2004年にヴァルトブルク城に行っています。この城はルターが最初にドイツ語聖書を訳した場所としても有名です。)

神棚が完成


家の中に設置した簡易的な神棚ですが、あれから榊立て、神器(水やお酒を入れる容器やお米・塩を入れる皿など)、三宝、神鏡、小さなお社、しめ縄を追加して、かなり本格的な神棚になりました。家の中に神棚があると何か清浄な感じがしますし、また日々の無事を神様に感謝する習慣は良いものだと思います。

お札入れ

最近(ここ数年)、神社詣りが半分くらい趣味になってきていて、年間6~7回は行っていると思います。それで家に神棚を置こうかなと思いましたが、さすがに大げさなので、Amazonでお札入れがあったので、それを玄関の横の棚に置くことにしました。このお札入れは三種類のお札を入れるようになっていて、天照大御神と寒川神社の分は先日寒川神社にお参りした時にそこでいただいて来ました。残り一社は高校時代に奨学金をいただいていた福岡の宗像大社のにしたかったんですが、調べてみたら電話して頼んで、現金書留で代金を払うということで結構面倒でした。で他のを探したら鹿島神宮のがWebから簡単に申し込めたのでそれにしました。(代金は郵便振替)鹿島神宮の祭神の建御雷神は、地震避けの神様(大鯰を要石で抑えている)なので、丁度いいかなと思いました。
行きつけのスーパーで榊を売っていたので、取り敢えず略式ですがお供えです。一応Amazonでちゃんとした白い容器をポチっています。
(念のため。私はかなりの数の聖書のコレクションを持っています。イエス・キリストを「人生の教師」(ゲーテの表現)として尊敬していますが、旧約聖書に出てくる神様については、私はまるで信じる気になれません。私は別にまた神道イストという程のものではありませんが、自然と一体化するような神道の考え方が好きです。)

New Year’s traditions in Japan

The following is my essay that I wrote as an assignment for an English school AEON:

Topic: New Year’s traditions in Japan
Style: Casual

There were a bunch of rituals, ceremonies, and customs related to New Year’s holidays. Most of them are currently lost in many families, but there is one area where a long tradition is still vital: food. The most important special food for a new year is mochi, or rice cake. Mochi is made from a special type of rice that is stickier than the usual type. We steam that rice and put it in a stone bowl and hit it by wooden beetles for say, 10 to 15 minutes. The rice is crushed enough to become like a pudding. Then we pick some apart and make it round (the way in the western part of Japan) or cut it with a big knife (the way in the eastern part of Japan). While the form of mochi in the western part of Japan is round, it is rectangular in the eastern part. The round form was the original, but the eastern type rectangular form was introduced to cope with increased population in Edo (the former name of the Tokyo city) to save time. Since I was born in Yamaguchi prefecture that is located in the west end of Honshu island. I was surprised very much when I saw rectangular mochi in Tokyo for the first time.
There are several ways to cook and eat mochi, but the most typical and important dish to use mochi is zoni, special soup with mochi. Zoni is prerequisite for the first three days of the New Year for breakfast. I just mentioned the difference of the form of mochi, but there are tens of hundreds of ways to cook zoni. When a newly married couple, each coming from different areas in Japan, holds a New Year ceremony together for the first time, one of the most troublesome things is how to cook zoni. Each has a completely different image for zoni, and since zoni is a very special and important dish for a New Year, it may cause a lot of trouble between the couple. Not mentioning the form of mochi, there are also two ways to prepare mochi for zoni: to bake or to boil it. There are also several types of soup such as soy source based, soy bean paste (miso) based, and in some limited area they use ‘sweet’ soup using red bean paste.
When I was living in Tokushima, there was an exhibition in a local museum regarding the types of zoni in the Tokushima prefecture. Since Tokushima (Awa) was governed by Hachisuka family came from Aichi prefecture, there are some families that use rectangular mochi while round mochi is popular in Tokushima which locates in the western part of Japan. There were actually almost forty or fifty different types of zoni in the prefecture. One thing that surprised me was that there are some people living in deep mountain area who eat soba noodle instead of zoni since they cannot plant rice because of cold weather.
Now, I usually spend New Year holidays travelling. It is always interesting to try a new type of zoni in different areas.