アファナシエフのモーツァルト ピアノ・ソナタ第8番イ短調(K.310)の第2楽章のテンポについて

最近知人とアファナシエフのCDを巡って議論があり、それで色々調べたことが私にはかなり興味深いものだったので紹介します。
発端は私がアファナシエフの”Ich bin Mozart”(ドイツ語で、「私はモーツァルト」。ちなみにアファナシエフには別に”Je sui Beethoven”(フランス語で「私はベートーヴェン」)というCDもあります)を買ったことです。最近発売されたCDではありませんが、TVの「題名のない音楽会」で紹介されたらしく、e-onkyoというオンキヨーがやっているハイレゾ音源配信サイトがプッシュ広告を出して来てそれで知ったものです。それでハイレゾ音源ではなく国内盤CDを買いました。(SACD)私はこのCDのアファナシエフの演奏も録音も非常に気に入ったので、ある年上の知人(以前勤めていた会社での当時の上司で、オーディオマニア、クラシックファン)にこのCDの海外盤(国内盤はDVDが付いていて高価なので)を贈呈しました。
しかし、このアファナシエフの演奏はそのお方にはお気に召さなかった(後で知りましたが元々アファナシエフが好きでなかったようです)みたいで、特に第2楽章が遅く、リズム感に乏しい、という評価をこちらにメールで送って来ました。それでその時に他の演奏者の第2楽章の演奏時間との比較が付いていました。それが次のものです。(録音の新しい順に並べ替え、リパッティ2種・ブレンデル・グールド・クラウスの新録・ラローチャ・ピリスのライブ・内田光子・ケンプ・ペライア・ハイドシェク・ギレリス・リヒテル・エッシェンバッハ・サイ・ヘブラーの新全集版・バレンボイム・シフ・ギレリス・タッキーノ・メジューエワ・グルダ(旧・新)のデータ追加)
(例)K. 310 イ短調、第2楽章 andante cantabile con espressione
ヴァレリー・アファナシェフ     12:19(2016)
ファジル・サイ            8:05(2014)
イリーナ・メジューエワ        7:24(2014)
アルフレッド・ブレンデル       9:40(2002)
エリック・ハイドシェク        8:25(1992)
マレイ・ペライア           9:35(1991)
ダニエル・バレンボイム       10:40(1991)
マリア・ジョアン・ピレシュ      9:09(1989)
アリシア・デ・ラローチャ       8:30(1989)
スヴャトスラフ・リヒテル       8:01(1989)
イングリッド・ヘブラー        9:34(1986)(新全集)
クラウディオ・アラウ        10:11(1984)
内田光子              10:42(1983)
フリードリヒ・グルダ         9:00(1982)(第2回目)
アンドラーシュ・シフ         7:52(1980)
マリア・ジョアン・ピレシュ      6:30(1974)(東京ライブ)
エミール・ギレリス         10:58(1970)(モスクワライブ)
グレン・グールド           6:18(1969)
リリー・クラウス           8:23(1968)(ステレオ再録)
クリストフ・エッシェンバッハ     8:36(1968)
ワルター・クリーン          7:27(1964)
イングリッド・ヘブラー        8:51(1963)(旧全集)
ヴィルヘルム・ケンプ         6:17(1962)
ガブリエル・タッキーノ        6:59(1961)
ヴラド・ペルルミュテール       6:34(1956)
リリー・クラウス           9:40(1954)
フリードリヒ・グルダ         7:47(1953)(第1回目)
ワルター・ギーゼキング        6:44(1953)
ディヌ・リパッティ          5:58(1950)(ブザンソン告別音楽会)
ディヌ・リパッティ          6:24(1950)(スタジオ録音)

このリストを見た時にすぐに感じたのが、1950年代の録音4つ(リパッティ2種・ギーゼキング・ペルルミューテル)の逆に異常な(Andante指定を無視した)録音時間の短さです。私はすぐにこれはSPレコードの一枚当たりの録音時間が関係しているのでないかと思いました。SPレコード一枚の片面の収録時間は4分ちょっとぐらいしかありません。また、1980年代以降は、ラローチャ・リヒテル・ヘブラー・サイ以外は8分40秒~12分20秒のandanteの範囲にきちんと収まっています。その4人も8分台であり、6分台で弾く人はもはや存在しません。

この第2楽章の演奏時間について色々調べました。結論としては、アファナシエフの演奏はモーツァルトのAndante(歩く速さで)という指定を無視した速すぎる演奏がスタンダード視されていたのを本来のモーツァルトが意図していた速度に戻そうとした画期的な演奏である、ということです。また、アファナシエフの師であるエミール・ギレリスはアファナシエフを除くとこれまでで一番遅い演奏であり、アファナシエフは師のその方向性をより徹底させたのではないかと思います。(このCDはギレリスに献呈されています。)

モーツァルトのこの曲の速度・曲想の指定は上記したように”andante cantabile con espressione”です。速度としてはandante=歩くような速度で、cantabile=歌うように、con expressione=表情ゆたかに、です。(このソナタはモーツァルトが22歳の時にお母さんが亡くなった直後に作曲されたもので、「表情ゆたかに」という指定は重いです。)
モーツァルトの時代にはまだメトロノームは発明されていません。(メトロノームの特許が成立したのが1816年。)現在のメトロノームではAndanteは四分音符=63~76とされています。(なお、従来型の速度指定をピンポイントでメトロノームの一つのテンポに換算することは出来ませんが、それでもmoderato > andante > adagioといった相対的な速度の順位は厳然としてありますので、この例のように範囲をもって当てはめることは十分可能と考えられます。)スマホのメトロノームアプリを用いて、手持ちのリパッティの1950年のスタジオ録音とアファナシエフの実際のテンポを測ってみました。結果は、
リパッティ     6分24秒 テンポ:四分音符=82(Moderato)
アファナシエフ 12分19秒 テンポ:四分音符=63(Andante)
となり、モーツァルトの指定に忠実なのはアファナシエフの方という結果になりました。
なお、Andante=70くらいで演奏した場合の演奏時間は丁度10分になります。(ピティナ・ピアノ音楽事典というサイトによる。)
実際に、https://mikiki.tokyo.jp/articles/-/12417 に下記の説明があります。
「(前略)アファナシエフは楽譜に記されたテンポには極めて忠実な姿勢を貫いた上に創造的な自由を加えている。それは1993年録音のモーツァルト・アルバムにおいても同じことを言うことができる。確かに他の演奏家より速度は遅いものの正確なテンポの裏打ちがあるので決して鈍重ではなく、今なお色褪せることのない名演である。」
私はこの説明に完全に同意します。また国内盤のライナーの中でアファナシエフはモーツァルトの言葉を引用しており、それは自分の曲を速いテンポで弾き飛ばす演奏者に対する苦言で「速く演奏する方が簡単なのだ」と言っています。
従来このK.310のテンポが速めだった理由ですが、おそらSP時代のSPの収録時間の制限からやむを得ず採用された速いテンポが長くそれがまるで標準であるかのように考えられ、そうした演奏を聴いて育ったピアニストにも影響を与えた結果として速いテンポが定着したのではないかと思います。
SP時代の収録の仕方として、上記のリパッティのスタジオ録音の実例を挙げます。
オリジナルのSP
https://www.straight-records.jp/?pid=143182976
上記をDSD音源にした時のデータ
https://shinshuu.com/dsda/jckt/3551.jpg
SPレコードは2枚4面で、
一面:第1楽章 4:07
二面:第2楽章(1) 3:49
三面:第2楽章(2) 2:31
四面:第3楽章 2:57
何と第2楽章は6分24秒で弾いても片面に収まらないで2面に分割されています。2楽章を楽譜の指定通り10分で弾くと、もう片面必要になり三枚組になってしまい、しかも片面が残るので別の曲とカップリングする必要が出てきます。売価も上がります。(1950年頃のSP一枚の値段は調べていませんが、昭和初期だと今の感覚では一枚2万円ぐらいだったと聴いています。多少安くなっていたとしても一枚=1万円ぐらいでしょうか。)
この時代のSPはやはりピアニストがかなり協力してテンポを変えてでもSPの枚数を減らして売価アップを抑えるということが行われていたんだと思います。少なくとも1950年代の録音が3例も6分台で弾いている(しかも現在=1980年以降では誰も6分台では弾いていない)という事実からはそれ以外は考えにくいです。たとえばゲルハルト・ヒュッシュの「冬の旅」の第一曲「おやすみ」で、ヒュッシュは4番まである歌詞の内、2番を歌っていません。これもSPの片面の録音時間の制限からだと思います。また、私が高校生の時に購入したフルトヴェングラーのいわゆるバイロイトの第9は、LP一枚に無理矢理収録したもので、第三楽章が途中で切れていました。正直な所、こういう風に楽章の途中で中断が入るのはとても嫌でした。SPの時代でも楽章の途中で切れてレコードを裏返すあるいは次のレコードをセットすることによる音楽の中断はやむを得ないとはいえ歓迎されなかったと思います。

補足:
議論の中で、当時のピアノフォルテはまだ初期の段階で音があまり伸びずぶつ切りみたいになるので速く弾かないといけなかった、みたいなのが出ました。これについても検証しました。アレクセイ・リュビモフという人が、モーツァルトも使っていたというアントン・ヴァルターのピアノフォルテでこの曲を演奏しています。演奏時間は9:00でテンポは四分音符で74でandanteでした。(Andanteに入る演奏時間は8分40秒~12分20秒ということになります。)また多少今のピアノに比べると確かに音の減衰が速めですが、それでもぶつ切りという感じにはまったく聞えず、速く弾くことの理由になるとは思えません。

アファナシエフのモーツァルト ピアノ・ソナタ第8番イ短調(K.310)の第2楽章のテンポについて」への1件のフィードバック

  1. ピンバック: ヴァレリー・アファナシエフの「ピアニストは語る」 | 知鳥楽/ Chichoraku

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA