SFの古典的名作について

SFの古典的名作を実はあまり読んでいなくて、アーサー・クラークの「幼年期の終わり」を読んだのは光文社から新訳が出たのがきっかけですし、フレドリック・ブラウンの「火星人ゴー・ホーム」と「発狂した宇宙」を読んだのはつい最近で、「デューン」に至っては先日です。それで思うんですけど、これらのSFの名作って、純粋SF的な科学的要素だけでなく、多くの場合何か別の要素がミックスされて作られているケースが多いような気がします。たとえば「幼年期の終わり」はイギリス人が大好きなオカルトとSFを混ぜ合わせたものです。(アーサー・クラークは超常現象大好き人間として知られています。)またフレドリック・ブラウンの「火星人ゴー・ホーム」は一見火星人というSF的な素材を使いながら、そこで論じられているのは哲学の唯我論(私が考える故に世界は存在する、という中二病的な考え方。)です。「デューン」もSFに色んな宗教的要素を混ぜ合わせたもののように思います。
別にそういうのが悪いとは言いませんが、私としてはジェームズ・パトリック・ホーガンの三部作の最初の作品である「星を継ぐもの」みたいな純SFが好きです。

尾崎秀樹の「大衆文芸地図 虚構の中にみる夢と真実」

尾崎秀樹の「大衆文芸地図 虚構の中にみる夢と真実」を読了。昭和44年に、数多くの大衆小説を復刊させた桃源社から出たもの。大衆小説作家19人を取り上げた作家論です。もちろん白井喬二は含まれていますが、何故か国枝史郎はありません。尾崎秀樹は白井喬二の葬儀の時に弔辞を述べていますが、その中で言及されている白井の戦後の作品は、短篇の「怪盗マノレスク」と「明治女学校図」だけです。私はこの選択にとても不満があります。白井の戦後の短篇の中でこの2作は大した作品ではありません。短篇の中から選ぶのなら、「坂田金時」「石川五右衛門」「助六」なんかの方が作品としてはずっと上です。それに「国を愛すされど女も」や「天海僧正」のような長篇作品もまったく無視されているのも不満です。そういう訳で私は尾崎秀樹が白井の戦後作品を短篇以外はほとんど読んでいなかったのではないかという疑いを持っていましたが、この本では「捕物にっぽん志」や「鳴滝日記」などの作品が紹介されていますから、まったく読んでいなかった訳ではないようです。
他には林不忘(長谷川海太郎、牧逸馬、谷譲次)についてはあまり情報を持っていなかったので、それを補足できて有用でした。

尾崎秀樹の「大衆文学」

尾崎秀樹(おざき・ほっき)の「大衆文学」を読了。1964年に紀伊國屋書店から出たもので、2007年の復刻版です。この人はゾルゲ事件の尾崎秀実の異母弟です。その関係の著作も複数あります。大衆文学の評論については、戦前は中谷博、戦後は尾崎秀樹がまず第一人者として挙げられると思います。この本では「大衆文学」が新講談→読物文芸→大衆文芸→大衆文学と次第に名前を変えていく過程が説明されていてなるほどと思いました。また、江戸時代の講談が明治での民権講談や社会講談へそして新講談から大衆文学へという説明もなるほどでした。また、巻末の文献表がかなり詳細で有用です。

フランク・ハーバートの「デューン 砂の惑星」(下)

フランク・ハーバートの「デューン 砂の惑星」(下)を読了。2/3くらいまで読んで、「後1/3でどんなことが起こるのだろう」とわくわくして待っていたら、実は物語は既に終わっていて、残りの1/3は用語集とかのオマケでした…残念ながらEigoxの先生が言っていた「どんでん返し」は私には不発でした。また、本文で十分に説明仕切れなかったことを、オマケで解説するのは小説としてのルールに反しているように思います。
この作品は作品世界の構築という点ではこの上もなく見事だと思いますが、ストーリーテリングに関しては結構課題の多い作品のように思います。白井喬二の「富士に立つ影」との対比で言うと、アトレイデス家とハルコンネン家が対立して、視点は常にアトレイデス家の方からで、一方的にハルコンネン家が悪役として書かれます。しかし(上)の終わりで、実はレベッカとポールがハルコンネン家の血を引いていることも描かれ、この先二つの家の対立が結局どう終結するのか興味をもって読み進めました。しかし残念ながら最後までハルコンネン家は悪役のままで、ハルコンネン男爵は自分の孫娘であるアリアにあっさり殺されます。アリアはその殺害に何の葛藤も持ちません。この点は「富士に立つ影」の方がはるかに優れていて、熊木家と佐藤家の両方の視点から物語が描かれ、初代での悪役と良役は二代目で逆転し、あまつさえ二代目で双方の息子と娘が恋仲になって子供を孕むという複雑な展開になります。
また、この「デューン」では色々な宗教、キリスト教、イスラム教、仏教、儒教までが登場するのですが、そのほとんどはキリスト教視点という感じがしました。後、エヴァンゲリオンの「人類補完計画」はこの作品でのベネ・ゲセリットの人類血統改良計画のパクリなのだなと思いました。各聖典を統一するという話がオマケに出てきますが、実際の所は、キリスト教の中で聖書の翻訳を統一しようとする試み(エキュメニズムというキリスト教統一運動の中から出てきたもの)ですらなかなかうまくいかなくて、強行にそれに反対する一派がいるくらいです。(昔J社で「キリスト教用語」の辞書を作ったことがありますが、その時に人名の固有名詞には新共同訳のを使ったんですが、それに対して文句を言ってきた福音主義派の牧師さんがいました。)
デューンは作者自身が書いたのは後5作あるんですが、続けて読むかどうかはちょっと考えます。

フランク・ハーバートの「デューン 砂の惑星」(中)

フランク・ハーバートの「デューン 砂の惑星」の中巻を読了。この巻では砂漠の中に逃げ込んだポールとレベッカの親子が砂漠の民のフレメンと合流して一緒に暮らし始めます。ポールがフレメンから名前を与えられたシーンで、「これでおまえは、イフワーン・ベドウィー --- われらの兄弟となった」というセリフが出てきます。鈍感な私も、ここでやっとフレメンのモデルが実在の砂漠の民ベドウィンであることに気がつきました。(「ベドウィー」はアラビア語で、「ベドウィン」の元になっている単語。「イフワーン」はアラビア語で「同胞」の意味。)またこの作品が出版されたのは1965年ですが、1962年に公開されたデイヴィッド・リーンのあまりにも有名な映画「アラビアのロレンス」の影響も感じました。ついでに言うと、ハルコンネン男爵の名前は「ウラジーミル」でこれにはソ連のイメージが若干投影されているのかも。Eigoxの先生によると、作者は作家になる前はジャーナリストで中東に興味を持って色々調べていたとのことです。しかし、「聖戦 ジハード」という言葉もそのまま登場するので、どうしてもISISとかを想像してしまいます。Wikipediaによると、この小説はすぐに読者に受け入れられた訳ではなく、いくつもの出版社に出版を断られた後にようやく陽の目を見た作品のようですが、もしこの作品が「今の」アメリカで出版されていたら、更に困難があったのではないかと想像します。中巻はポールとリエト・カインズの娘のチェイニーが愛し合うようになる場面で終わります。Eigoxの先生によれば最終巻でまた大きなどんでん返しがあるとのことですので、期待しながら続きを読みます。