まがりなりにも、Laravel/PHPを使ったWebアプリの開発が最低レベルながら出来るようになり、次はインタラクティブ性向上のためJavaScriptのコードを書くという段階で、一応こんな本をポチってみました。今作っているレベルのものにはフレームワークは不要と思いますが、何かの時に役立つかもしれないと思って。
まあ生成AIが全部コード書いてくれる時代に、この手の自学自習は時代遅れなのかもしれませんが、最低限ボケ防止ぐらいにはなると思います。
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塩野七生の「ローマ人の物語」の「危機と克服」上・中・下
塩野七生の「ローマ人の物語」の「危機と克服」上・中・下を読了。この3巻で何と言っても驚くのは、わずか50年ちょっとで8人もの皇帝が登場すること。ネロが軍団に叛旗を翻されて自死に追い込まれた後、ガルバ(在位約7ヵ月)、オト-(在位3ヵ月)、ヴィテリウス(在位8ヵ月)の3人は特に異常で、わずか1年半で3人の皇帝、しかもローマの軍団同士が凄惨な内戦をイタリア半島の中で繰り広げます。その後を収拾したのがヴェスパシアヌスでこちらは10年の在位で寿命を全うします。その息子がティトゥスで名皇帝と言われましたが、在任中にヴェスヴィオ火山の噴火(ポンペイ最後の日)、ローマの大火、疫病と次々とトラブルが襲いその心労なのか在位期間2年で41歳の若さで病死します。そしてティトゥスの弟のドミティアヌススが跡を継ぎますが、15年間の在位の後、暗殺され、元老院に厳しかったためその業績が抹殺されます。そして五賢帝の時代になり70歳のネルヴァが1年半治めた後、トライアヌスが新皇帝になります。ということで目まぐるしい変化の時代ですが、アウグストゥスの血を引く皇帝は途絶え、その後軍閥の争いになり、その混乱を属州出身のヴェスパシアヌスが解消するという流れになります。以前「タイムトンネル」でネロの亡霊がガルバが自分の死の原因だということでその子孫に復讐するという話がありましたが、やっとガルバが誰なのかわかりました。また今訳しているヴェーバーの「ローマ土地制度史」に丁度皇帝ヴェスパシアヌスが出て来て、その形容に”divus”(神聖な、神の)が付いていますが、その理由がローマの皇帝は死んで神となる、というのがこの3巻に出て来て容易に理解出来ました。(ヴェスパシアヌスの最期の言葉が「やれやれ、可哀想な俺、神にされてしまいつつある。」だそうです。)
それから塩野七生のこのローマ史は、歴史の専門家からは不正確だという批判が多いみたいですが、私も一つ見つけました。「ソキエタース」(塩野七生はイタリア風にソチエタスと表記)を株式会社みたいなもの、と書いてますが、それは断じて違います。また「ソキエタースの社長」とも書いていますが、通常ソキエタースは対等の仲間が作る組合で「社長」的な人はいません。
その他この期間にはガリアでゲルマン民族が大反乱を起したり、ユダヤ戦争でエルサレムがティトゥスの手によって陥落し、ユダヤ人がついに自分達の神殿と故郷を失います。
ウーラントの「聖なる春 Ver sacrum」の日本語訳
先日、古代ローマの「聖なる春」(Ver sacrum)について書きました。
この儀式がドイツで有名になったのは、まずはウーラントがこのタイトルの詩を書いて、それから前の記事で書いたようにグスタフ・クリムトらのヴィーン分離派が自分達の機関誌の名前に使ったからですが、その元になったウーラントの詩とその日本語訳(ChatGPT4による)を日本マックス・ヴェーバー研究ポータルの方で公開しました。ご興味のある方はご覧ください。おそらく日本語訳の書籍は出ていないと思います。
古代ローマの「聖なる春」の真の意味
今訳しているヴェーバーの「ローマ土地制度史」の中に、以前紹介した「聖なる春」が出て来ます。
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――部分的に植民地開拓政策の意味を持っていたローマ古代の ver sacrum ≪聖なる春。古代ローマで凶作の秋の翌年春に生まれた新生児を神への捧げ物とし、その新生児が成長して一定年齢になると新植民市の開発のため未開の地に送り出された故事。≫は、それが故郷のゲマインデの中で余分な人間とされ、扶養家族の埒外にされていた者達の中から選ばれた者が、つまりはその理由のため新生児の時に神に捧げられその者が成長した若者を意味する限りにおいて、次のことは正しい。またこのやり方が神々への捧げ物という神聖な儀式として行われているということも、同様に次のことを正しいと思わせる。それはつまり、この ver sacrum が行われたのより更に古い時代の人口政策、つまり神への生け贄が、どちらもその目的は同じだったのであると。それは諸民族において、限られた食料自給体制の中で、対外的な拡張でそれを解決するのが不可能だった場合(例えばインドのドラヴィダ人≪インドでのアーリア人が優勢になる前の先住民族≫の例)に[口減らしのために]利用されていたのが、より後の時代になってもなお ver sacrum という形で[新植民地開拓という建て前で]まだ利用されていた、ということである。
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これについては以前、グスタフ・クリムトの記事で、クリムトらが「ウィーン分離派」を結成した時のその機関誌の名前がこの ver sacrum でした。クリムト達は既存の画壇とは一線を画した新しい画家集団を目指してこの名前を使っています。しかし、その本質はヴェーバーが書いているように、間引き、口減らしなのですね。上記の文章にはドラヴィダ人の場合が言及されていますが、私はそれよりもパレスチナの地でバアル神がヤーウェの再三の怒りにも関わらず信仰されており、その一つの儀式として幼児・子供を火の中に生け贄として投げ込むというのがあり、旧約聖書でヤーウェがこの行為についても非常な怒りを示しています。これも口減らしだったのかもしれません。バアルは元々農耕神です。
塩野七生の「ローマ人の物語 悪名高き皇帝たち」の[三]と[四]
塩野七生の「ローマ人の物語 悪名高き皇帝たち」の[三]と[四]を読了。この二巻で取上げられている皇帝はクラウディウスとネロです。やはりこの二巻でも塩野七生は単純に「悪帝」「暴帝」とはせず、それぞれの良い所はきちんと認めようとします。特にクラウディウスは「悪帝」の一人として一まとめにされるのが可哀想なくらいで、体格にはまったく恵まれない貧相で貧弱な肉体の持ち主の学者(歴史家)皇帝でしたが、やるべきことはきちんとやり、ガリア人達の元老院議員を認めた演説は「寛容」の精神の頂点を示すものとして、今でも名演説とされています。ただ晩年に解放奴隷を側近に使ったのが元老院議員に恨まれたとか、配偶者には恵まれず最後は悪妻アグリッピーナに毒殺されてしまいます。
そのアグリッピーナの息子がネロで、言うまでもなく古代ローマで悪帝というのはまずはネロのこととされます。しかしそれもキリスト教徒を最初に弾圧した皇帝ということから、キリスト教徒から「反キリスト」として毛嫌いされたという面が大きいようです。実際にローマに大火が起きた時の対応は、現代の日本の政治家が見習うべきであるように迅速に被災者のテント村を作ったり、食料である小麦の価格を引き下げたりと精力的に活躍しています。しかしその大火が結局ネロが私邸を作るために放火させたのだという噂が立ち、その噂を消すためにキリスト教徒を放火犯に仕立てて殺害したということのようです。ただネロの最大の過ちは、軍団が自分にクーデターを起そうとしているという猜疑心に囚われ、ローマの有能で功績も非常に大きい軍団長3人を処刑したことでしょう。この結果、ローマの軍団の支持が離れ、最後は反乱を起され自死を強制されます。
結局、ティベリウス-カリグラ-クラウディウス-ネロとまとめて悪帝とされていますが、注目すべきはローマの国家そのものはこの間多少の危機はあったともびくともしなかったということであり、帝政(元首政)を取る限り、カエサルやアウグストゥスのレベルの人が続くはずがない、ということだと思います。
宮島未奈の「成瀬は天下を取りにいく」「成瀬は信じた道をいく」
宮島未奈の「成瀬は天下を取りにいく」「成瀬は信じた道をいく」を読了しました。この二冊は前から書店で見かけていましたが、買ってみるまでには至らず、今回「天下を取りにいく」の方が本屋大賞を受賞したので、読んでみたもの。うーん、タイトルと中身にギャップがあり、「天下を取りにいく」という割りには、主人公成瀬のやっていることが、閉店予定の西武デパートにライオンズのユニフォーム着て通うとか、大津観光大使になるとか地味すぎ。全体に成瀬より作者の地元愛(といっても生まれは静岡の人で、大津在住になったのは30歳過ぎてからのようですが)の方が微笑ましく感じます。またWikipediaによると、三浦しをんの「風が強く吹いている」(箱根駅伝もの)を読んで自分には才能が無いと思って作家を諦めたのが、森見登美彦の「夜行」を読んで刺激を受け再度作家を目差したというのが、私の読書傾向ともかなり重なっていて少し親近感を覚えました。また作者は京大文学部出身で(森見登美彦も京大ですが)、成瀬のキャラクターや経歴の半分くらいは作者のものの投影でしょうね。大体成瀬のとても頭はいいけどかなりマイペースで周囲から浮いてて、時々突飛なことをやる、という人はまあ高校(進学校)とか大学の時にそれなりに知っているので、私には珍しいキャラではなかったです。全体には佳作という感じで、本屋大賞?にはそこまでかな、とは思いました。まあ日頃本をあまり読まない人には読みやすいでしょう。
塩野七生の「ローマ人の物語」の「悪名高き皇帝たち]の[一]と[二]
塩野七生の「ローマ人の物語」の「悪名高き皇帝たち]の[一]と[二]を読了。皇帝としては2代のティベリウスと3代のカリグラです。この「物語」については、第1巻から「パクス・ロマーナ」までつまりアウグストゥスまで読んでいて、それ以降はまあいいかと保留にしていたものですが、最近ヴェーバーの「ローマ土地制度史」を訳していて、古代ローマに関する基礎知識の不足を感じるので、また読み始めたものです。ティベリウスについては「悪名高き」とされているのが可哀想なほど、名君として描かれています。ティベリウスの名誉復権が塩野七生の秘かな狙いだったようです。またティベリウスを再評価した最初の人がモムゼンだったというのも興味深かったです。ティベリウスは、クンクタートス=愚図、のろまと罵られてもローマの守りを優先してハンニバルを苦しめたファビウスの系譜に連なる人であり、ポピュリストの正反対です。しかし当時民主主義で選挙でプリンケプス(第一人者)が選ばれていたとしたら、ティベリウスはあっという間に消えていたでしょう。そのまったく反対でポピュリストそのものだっただけではなく、自分を神と称したカリグラが対照的に描かれています、というか事実そうだったんですが。カリグラの治世が4年にも満たず、最後は自身の近衛兵に殺されたのは知りませんでした。なんせ日本では(というか世界でも)映画カリギュラ(ポルノ映画)のイメージが強いですから。しかし国家でも会社でも、大体3代目にダメになることが多いですね。例外は徳川幕府ぐらいでしょうか。
クリス・チェインバーズの「心理学7つの大罪」
クリス・チェインバーズの「心理学7つの大罪」を読了。買ったのは実に2019年なんですが、ちょっとだけ読んでかなり長期間そのままだったのを、例の20冊同時読書方式で1年前くらいから読み始めてようやく読了したもの。最初に買った動機は、私は心理学というものに偏見を持っていて(特に最近流行りのアドラー心理学とか)そういう意味で、心理学の実態がどんなにひどいかが書いてある本かと思って買いました。しかし中身はかなりまっとうで、心理学を本当の意味の科学にしようと、問題点の指摘と提言をしているもので、かなり参考になりました。心理学における実験と仮説検定は、医学と同じで統計学を用いた推論に過ぎないのですが、その実験データや統計処理がかなり恣意的に細工されているとか、ある人がやった実験を再現しようとすることが色々な意味で出来ないとか、心理学の査読付きの雑誌が「~がダメだった」みたいな論文はほとんど掲載せず、「一般には○○と思われているけど実はこうだったことが判明した」的な耳目を引くような論文を優先すること、ある人が実験に使ったデータが他の人にはほとんど提供されないこと、等々の問題点の指摘は非常に勉強になりました。そして科学雑誌にまず研究の計画を登録してオープンな批判を受けるなどの提案と実践は、私も「オープン翻訳」というのを提案して実践しているので、そちらも参考になりました。しかし、心理学は社会科学に比べるとはるかにまともだと思いました。社会科学・人文科学の研究は私に言わせると、趣味の世界であり、共同研究とか相互検証・批判がほとんど行われていません。そういう意味で心理学以外の方も読む価値のある本です。
飯田洋介の「ビスマルク」
飯田洋介の「ビスマルク」を読了。この稀代の政治家にして外交家についてもっと知りたいというのが動機でした。しかしこの本は最新の研究に基づいてはいるのでしょうが、単なる事実の羅列の印象が強く、もう少しビスマルクの人物についての突っ込んだ描写が欲しいと思いました。ビスマルクというと鉄血宰相ということで戦争で物事を解決して来た、というイメージが強く実際にデンマーク、オーストリア、フランスと3つの戦争に全て勝ち、オーストリアを除く小ドイツ主義に基づく、プロイセン主導のドイツ統一を成し遂げています。しかしその裏にはある意味天才的な外交努力があり、結局ドイツの悲劇というのはビスマルクの後に彼のような天才的な外交家である政治家を持てなかったことではないかと思います。またオーストリアとの戦争では初戦の勝利に更なる戦線拡大を図る軍部を押さえてわずか7週間で戦争を終わらせており、決して軍国主義一辺倒の人ではありませんでした。またカトリック教徒や社会主義者への弾圧で悪名高い一方で、その当時の欧州としてはもっとも進んだ普通選挙制度を導入し、更には健康保険、労災保険、年金という今日まで続く社会保障を世界で初めて導入したのもビスマルクのドイツでした。そういう意味で一時はドイツの軍神みたいな存在になるのですが、第2次世界大戦でのドイツの敗戦以降は今度は犯人捜しとして全ての責任を押しつけられ、と毀誉褒貶の激しい人物ですが、今の世界には見当たらないタイプの政治家です。
「ゴールデンカムイ」と「まつろわぬもの」
シクルシイ(和気市夫)の「まつろわぬもの」を古書で再購入。以前紹介していますが、引っ越しの時にどこかに行ってしまって買い直したもの。何故そうしたかというと、最近通勤中の暇つぶしに電子書籍で「ゴールデンカムイ」を4巻ぐらいまで読みました。この漫画、色んなアイヌの風俗を初めて漫画で紹介したという点では評価しますが、しかしある意味きれい事過ぎると感じました。シクルシイこと和気市夫は二つの名前が示すようにアイヌ(母親)と日本人(父親)の混血です。
まずは臭い。シクルシイが自分の生まれたアイヌのコタンの家でまず思い出すのが臭いだそうで、匂いではないのは、アイヌの家では湖の魚の干物、各種獣肉の生肉などが保管してあって、それらが混じり合ってなんとも言えない悪臭を発して、それが体臭にも染みこんで、当時の日本人からは「アイヌは臭い」と言われていたとこの本にあります。なのでゴールデンカムイの不死身の杉本が最初にコタンに行ってアシリパの家に入った時の反応は「く、臭え、何だこの臭い…」であるべきと思います。残念ながら現在のどんなバーチャルなメディアも臭いを的確に伝えることは出来ません。
またゴールデンカムイではアイヌが他民族との混血に寛容であったみたいなことが書いてありますが、これも本当でしょうか。元々和人はいなかった北海道(蝦夷地)に明治になって和人が大量に入って来て、土地の登記が出来ないアイヌを騙してその土地を奪い、ということで、当時のアイヌで日本人と結婚する人が多かったのはある意味自衛のためやむを得ずという要素があったのだと思います。それがゴールデンカムイでのアシリパと杉本の関係は、ある意味ディズニーの「ポカホンタス」だと思いました。ちなみに「まつろわぬもの」ではシクルシイの美人の姉と、和人の良家の男性が恋に落ちますが、男性の親戚一同が「アイヌの血をうちの家系に入れるとは!」と反対した結果、二人は心中します。
この「まつろわぬもの」はこの他にも当時のアイヌがどのように和人から扱われていたか多数のエピソードが出て来ますので、ゴールデンカムイに疑問を感じたら読んでみることをお勧めします。