白井喬二の「富士に立つ影」読み直し、主人公篇

白井喬二の「富士に立つ影」の読み直し、第三篇の主人公篇を読了しました。第二巻の江戸篇からいきなり二十数年が飛んでおり、読者は小里が伯典の妻としてどのような暮らしをしたのか、また主人公である熊木公太郎の幼少時代がどうだったのか、などということは断片的にしか知ることが出来ません。そしてその主人公の公太郎の登場の前にいきなり出て来るのが「ばくち猿」で、猿回しの助一が連れている賢い猿で、ばくちの真似をして壺を振ってみせるだけでなく、丁半の目を正確に当てることが出来るという猿で、千葉一帯で大評判になります。しかしその評判が災いになり、ある土地の親分の所で芸を見せて、その親分の部下に博打でこの猿が四回も続けて勝ってしまったため、親分から猿を取り上げられてしまいます。まったく、この「ばくち猿」だけで短篇が書けてしまう程の見事な脇役設定です。助一は取り上げられたさばくち猿の代償に別の猿をあてがわれますが、途方に暮れている所に登場するのが公太郎です。公太郎は即座にばくち猿を取り戻してやる、と言い、親分のところに乗り込むと、さっさとばくち猿を捕らえてスタコラ逃げ出します。子分も親分も追いかけて来ますが、公太郎の剣の腕はなかなかで、全員倒してしまいます。公太郎の特長は、
(1)弱き者に対し味方するという正義感
(2)深く考えず突飛なほどすぐに実行に移すという行動力
(3)細かなことを気にしない大らかさ
(4)人を信じやすく騙されやすい
といった感じになります。実際、あの悪の権化というか権謀術数そのものの熊木伯典からどうしてこのような天真爛漫な青年が生まれて育つのかが不思議ですが、江戸篇で述べたように小里の息子というのが重要な要素となっているように思います。
また今回気がついたのはこの小説で既に「万能児・万能人間」というコンセプトが登場しているとうことです。例の伯典の出生の秘密を書いた書き付けですが、江戸篇の最後で伯典はようやく本物の書き付けを手に入れます。それには伯典または伯典の息子がいくつかの一定の技芸を修めて名乗り出れば、それなりの重要な官職に付けてやる、ということが書いてありました。伯典自身は色々悪行をやっていてもう名乗り出るのは無理だったので、息子に期待をかけ、諸芸を身につけさせようとします。実はこのことが、白井の作品のいくつかにある「万能児・万能人間」育成という話と似ているということです。この「万能児・万能人間」の話としては「陽出づる艸紙」、「豹麿あばれ暦」などがありますが、その先駆は既に「富士に立つ影」にありました。
しかしながら、公太郎の場合は「影法師」という謎の人間がつきまとい、公太郎が何かを修行して最後に免許皆伝になるといった場面でことごとく邪魔をされ、結局公太郎は何も最後まで身につけることが出来ないことになります。で、この影法師の動機をある程度解き明かしたのが、猿回しの助一で、彼は驚くべき設定ですが、裾野篇で牛曳き競争の時に佐藤菊太郎側に加担した常太の息子でした。助一は公太郎に伯典が多くの人に憎まれていることを告げ、影法師もその一人だと言います。しかし公太郎はそれを信じず、二人は喧嘩別れに終わります。
公太郎は、結局軍学の入門にも失敗し、実家に戻りますが、そこで鼠小僧次郎吉に押し入られ、公太郎の妹が機転を利かせてその次郎吉を座敷に閉じ込めたにも関わらず、次郎吉の言葉に騙されてまんまと次郎吉を取り逃がしてしまいます。次郎吉は千両もの金を伯典の屋敷から盗み、さしもの一代の栄華を誇った熊木伯典もここから没落が始まります。
しかし、兎にも角にも、白井喬二はまだ大衆小説がほんの黎明期の時に、それまでなかった公太郎というきわめてユニークなキャラクターを作り出しました。「富士に立つ影」の最大の魅力は公太郎であり、日本人がきわめて好きな人間類型です。

白井喬二の「国民文学論」

白井喬二の「国民文学論」を読了。「文藝」の昭和31年4月の臨時増刊の「中里介山 大菩薩峠読本」に収録されたもの。
白井喬二は、中里介山の「大菩薩峠」を大衆文藝の先駆者として高く評価しており、山梨県と長野県にある大菩薩峠の記念碑の設立のどちらにも白井喬二が関わっています。(白骨温泉の記念碑は今年の4月見てきたばかりです。)
白井は日本には国民文学と呼べるものが昔からあり、「南総里見八犬伝」と井原西鶴の作品を挙げています。このどちらについても白井は現代語訳を行っています。先日読んだ座談会で、小林秀雄が日本の純文学の西洋かぶれぶりを挙げていましたが、それに比べると中里介山も白井喬二も、日本における馬琴や西鶴らの伝統をきちんと受け継ぎ、それに負けないものを作っていこうとした気概を感じます。大衆小説家の中でもこの二人は別格だと思います。それに比べると、今は作家の中でそういう気概を持った人は皆無かと思います。ちょっと寂しいですね。また介山にしても白井にしても、そのどちらにも太い漱石の言うモラルバックボーンがあると思います。一度しかない人生でこういう作家二人の作品を読むことが出来たのは幸せだと思います。

「大衆文学はどうなるだろうか」(「新潮」1933年4月号の座談会)

「新潮」の昭和8年(1933年)4月号に載っている「大衆文学はどうなるだろうか」という座談会を読了。多分この前の号で純文学についての座談会があり、その続きのように見えます。このタイトルで白井喬二が呼ばれない筈はなく、座談会の中での発言も多いです。しかし、タイトルからも想像出来るように、この時期は大衆文学にとっても白井喬二自身にとっても曲がり角の時代でした。この座談会の前の年に、白井の平凡社の全集が出ていますが、その全集の目玉であった筈の「祖国は何処へ」は、私としては決して低くは評価していませんが、ある意味多くの読者の期待を裏切った失敗作でした。その一方でこの座談会にも出ていますが、吉川英治が人気を集め、2年後には「宮本武蔵」の連載を開始します。
時局的にはこの年の2月に国際連盟を脱退しており、満州事変から始まって日中戦争へと突入していく時期であり、雑誌などでも大衆小説に変って軍事小説のようなものの比率が増えて来た時期です。
白井の主張していることは「10年評論するなかれ」など、他の評論でも言っていることが多くそれほど目新しさはありません。しかしながら、最初大衆小説に対して付けられた「新講談」という名前は、作家にとってはとても苦痛であったと告白しています。しかし白井の「新撰組」がサンデー毎日に連載されて人気を博して1年も経つと、作家の存在感が上がって自然と「新講談」という名前は消えて行き、そのうち「大衆文藝・大衆小説」という名前に変っていったとしています。
後、この座談会で面白いのは川端康成が純文学代表という感じで、結構大衆文学に批判的であることです。また小林秀雄が純文学というのは要するに西洋かぶれなのだ、と喝破しているのもなかなか慧眼だと思いました。

白井喬二の「鳳雀日記」「天路歴程」(エッセイ)(雑誌「騒友」掲載)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

白井喬二が雑誌「騒友」に寄稿したエッセイと日記(「鳳雀日記」)をいくつか入手。「騒友」は元左翼で後に転向して三上於菟吉の弟子の大衆小説家となった小山寛二の雑誌で、昭和39年(1964年)の8月頃創刊し、数年間続いた雑誌です。でもページ数は16~24ページ程度のとても薄い雑誌です。しかしながら保田与重郎とか安岡正篤のような一流の人が寄稿しており、また掲載されている広告もそれなりに良い会社が多く、どういうコネがあるのかは分かりませんが、それなりに格式があります。載っているのはほとんどが随筆で「随筆雑誌」と称しています。今回古書店で昭和39年から44年まで「騒友」を十数号入手しました。その中に白井喬二が「天路歴程」に関するエッセイを一篇、また「鳳雀日記」という日記を5回くらい載せています。この「鳳雀日記」については学藝書林の全集の第二期で収録される筈のものだったので名前は知っていましたが、掲載誌が分かりませんでした。しかし今回学藝書林の全集第1期の月報をすべて入手し、その中で小山寛二が自分の雑誌「騒友」に白井喬二が日記を載せていると書いていたので、掲載誌が判明しました。
「天路歴程」のエッセイは、白井が一番ちゃんと読んだ宗教に関する本がバニヤンの「天路歴程」だとして、戦後の日本での宗教の必要性を説いています。また学生時代に代用教員をやっていた時にペスタロッチに心酔していたことも書いています。どちらもとても白井らしいと思います。
「鳳雀日記」については、白井の実際の日記から何かの感想について書いたものを順不同で連載したものです。内容は雑多ですが、その中にビートルズの来日の騒ぎに触れたものがあります。白井とビートルズはほとんど結びつかないのですが、確かにその来日の時、白井はまだ元気に活動していました。また、「一人の悪人もなくする運動」をやったらどうかと提案していて、これもまた実に白井らしい話です。本当に阿地川盤嶽は白井喬二の分身だなと思います。
後、白井喬二の年始のいわゆる賀詞広告も載っていて珍しいです。世田谷区奥沢に住んでいたようです。
なお、著作権的に読めるように写真を載せるのは問題かと思いますが、誰でも簡単に入手できるというものではないため、あえてそのまま写真を載せます。

白井喬二の「富士に立つ影」読み直し 江戸篇

白井喬二の「富士に立つ影」の読み直し、江戸篇を読了。この篇は裾野篇における佐藤菊太郎と熊木伯典の手に汗を握る戦いもなく、また第三篇の主人公篇のような主人公=熊木公太郎の登場もまだで、いわばつなぎの地味な篇です。しかしながら、裾野篇でキャラがかぶると書いたお染とお雪こと小里がそれぞれ佐藤菊太郎と熊木伯典の妻になる経緯を書いた重要な篇です。最初に読んだ時は、小里は熊木伯典のことを蛇蝎のように嫌っていた筈なのに、何故それが伯典の妻に収まったのかがよく理解出来ませんでした。なので今回はその辺りを慎重に読もうとしました。伯典の出生の関する秘密を書いたお墨付きの書を、裾野篇の最後でお染が偽の文書にすり替えたのですが、この篇ではその内容に翻弄される伯典が描かれます。しかし、伯典が結局幕府の行事に関する公文書を見る機会を得、偽のお墨付きに書かれているようなことは事実ではないことに気がつき、結局お染の企みが伯典にばれて、伯典がお染に迫り、お染は持っていた匕首で自害しようとします。そのギリギリの瞬間に小里が駆けつけて、お染の身代わりになり、お染を逃がします。そこまではいいのですが、その後小里がどうして伯典の妻になったのかは白井喬二はまったく説明していません。
(1)おそらく暗黙の了解としては、小里は伯典に無理矢理肉体を自由にされています。(この篇の最後の方では小里は伯典の子を身籠もっています。)
(2)小里は佐藤菊太郎が好きで江戸に出てきて菊太郎を探すのに便利だからと芸者になったのですが、この篇でお染の菊太郎への思いを知り、菊太郎のことは諦めます。ある意味無意識の菊太郎への当てつけ的な気持ちで伯典の妻になることを承諾したのでは、と思います。
(3)この小説の主人公で無垢で純真な熊木公太郎が、伯典だけの遺伝ではキャラクター設定に無理がありすぎます。しかし小里の子であるならば、ある程度理解出来ます。公太郎というキャラを作るためには小里が必要だったのです。
まあしかし伯典自身も、お墨付きによればある高貴なお方の落とし胤である訳で、その息子に公太郎みたいなのが生まれても、伯典の性格は後天的なものとも考えられ、ある程度説明は出来ます。
(4)モラリストの白井喬二としては、いかに小説のキャラとはいえ、伯典のような悪漢がそのまま生きていくというのは許しがたい部分があり、小里の善によって伯典の悪を浄化することを狙ったのではないかと。実際に小里が庭に観音堂を据え付けて伯典の罪が許されるのを願うという話があります。またその悪の浄化の結果が公太郎といえます。
(5)後の展開で、佐藤菊太郎の息子と熊木伯典の娘が愛し合うようになります。二人とも美男・美女ではないと面白くなく、その意味でも伯典の妻は美人である必要があります。

それにしても、この小里に関する謎は、ある意味省略の美学であり、読者に色々理由を考えさせてくれる上手い筋立てだと思います。筋立てといえば、この篇に面彫り師の甲賀の円蔵という人が登場します。この円蔵は単なる狂言回しで重要なキャラクターではありませんが、この円蔵が美人の満足した面を彫ることを目標にしてそのモデルを小里にします。しかしその内小里の美しさに夢中になり、結果として円蔵の奥さんが自害してしまいます。サブキャラクターにしてこれだけ深い筋を付ける喬二の腕に感嘆します。また面彫り師の説明の中で、烟取下衛門(けむりとりくだりえもん)という名人が出てきますが、これは「忍術己来也」の主人公です。こういう細かいネタも1回目は当然気付いていませんが、2回目になると分かります。円蔵以外にも、小里に入れあげる八幡万次郎とその息子の文吾や太田蜀山人に至るまで、サブキャラの密度の高さは素晴らしいです。