河村哲夫の「神功皇后の謎を解く ≪伝承地探訪録≫」を読了。作者は福岡県生まれ・育ちの歴史作家。神功皇后と応神天皇については、私自身縁があって、私が生まれた亡母の実家である下関市吉母(よしも)町(豊浦町と合併する前の下関市の北西の端の漁村、遠浅の海水浴場で有名)の名前の由来は、神功皇后がここで応神天皇を産んで、その時に体を温める目的で海岸に打ち寄せられて乾燥していた「藻」を「寄せた」ことから「よせも→よしも」となったという伝承があります。亡母の実家から数十Mの所には「胞(えな)塚」という、神功皇后が応神天皇が生まれた後の胞衣を埋めたとされる塚もあります。更には10Kmぐらいの半径の中に、若宮神社、乳母屋神社、杜屋神社という所縁の神社もあり、この内若宮神社の方は長門一宮である住吉神宮の本宮であるということです。まあ、応神天皇が産まれたのは通常は福岡県の宇美ということになっていますが、おそらくは吉母の地にも母子が立ち寄ったのは事実ではないかと思います。
戦前は記紀の内容がすべて歴史として、いわゆる「皇国史観」として学校で教えられ、戦後はそれが180度逆転し、またマルクス主義的な史観の影響もあり、神功皇后不在説が主流になるという変わり方です。しかしこの本の作者が丹念に九州・山口周辺に残る神功皇后所縁の地を訪ね歩いて分かったように、記紀に出てくる神功皇后の足跡は、軍を率いて移動するという観点からは非常に合理的なルートを取っているとか、あるいは所縁の地の数の非常な多さから言っても、神功皇后が実在しなかったなどという説はあり得ないと思っています。任那の日本府もその存在が戦後は否定されて来ましたが、実は伽耶の地に日本由来の前方後円墳が最近多数見つかっており、植民地統括府とまで行かなくとも、日本から行った多くの者が定住していて軍事的・政治的に影響力を持っていたというのが新たに分かっています。
そもそも仲哀天皇と神功皇后が3年間も穴門の地、つまり下関市に留まり続けたのは何故なのかを考えると、当時大和朝廷の影響力はまだまだ限定的であり、九州にはその対抗勢力が多数おり、それらが新羅などの朝鮮半島の勢力と結託し、その一部は逆に九州地方にも襲来していたのではないか、と考えるは無理はないと思います。熊襲の征伐の前に朝鮮半島の勢力との戦いを優先した、という物語を私はそう解釈します。考古学資料を今後参照していかなければならないのはもちろんのことですが、その際に気を付けるべきは現時点で見つかっている遺跡は、全体の数の多くとも数パーセント程度だろう、ということです。全ての遺跡を発掘調査することは不可能ですが、ある特定の遺跡の発見をあまりにも短絡的に総合化するのは厳に避けるべきだと思います。(悪しき例は邪馬台国論争における纒向遺跡の扱い方)
その他、応神天皇が産まれるまでがきっちり10月10日で逆に不自然で、応神天皇は仲哀天皇の子ではなく実は武内宿禰と神功皇后の不倫の子ではないか、とかは説としては面白いですが、何の証拠もなくそんなものを詮索しても仕方が無いと思います。