塩野七生の「ローマ人の物語」の「すべての道はローマに通ず」[上][下]を読了。この巻は、ローマの特定の時代を描いたものではなく、ローマが作り上げたインフラストラクチャーをハードとソフトの両面で概観したもの。感心したのはローマの水道のレベルの高さ。消毒剤というものが無かった時代にどうやって水道の衛生さを保っていたのかと前から不思議に思っていましたが、水源を川から直接取水したりせず、山の中の湧き水などの元がきれいな水を利用していたのと、後は常に流しっぱなしを保ち、それによって水が痛むのを防いでいたようです。この流しっぱなしというのは、料金が基本無料(自分の家まで延長してもらった場合は有料)だからこそのシステムと思います。また先ごろローマのコンクリートが現代のものより寿命が長い理由が解明されていましたが、おそらくローマ人は科学的に解明したのではなく、経験的に知っていたことだと思いますが、そういう「実践知」の素晴らしさがローマの魅力です。
後半の教育の所でいわゆる「弁論術」の話が出て来ますが、この分野について塩野七生が何も知らないのだということが分りました。結局レトリックは世界で共通して「起承転結」だみたいな、トンデモ論を書いています。論文とかプレゼンテーションを準備するのに何でもかんでも「起承転結」で済まそうとする上司達と戦って来た私にはほとんど噴飯ものです。
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E.M.フォースターの「モーリス」
E.M.フォースターの「モーリス」を読了しました。この本を買ったのは出たばかりの1988年で、実に36年間積ん読状態でした。私は元々フォースターのファンですが、1988年になってこの本はようやく出版され、その理由は男性の同性愛を扱っているからということのようです。しかしフォースター自身の説明によると、男性の同性愛を扱ったこと自体が出版出来なかった理由ではなく、結末がハッピーエンドだったから、ということだったようです。要は主人公のモーリスがその性的嗜好の「罰」を受けて不幸になる、という話だったらOKだったみたいです。しかしこの話は要するにモーリスがダーラムという大学での友人と同性愛関係になるけど、二人が社会人になってからダーラムが「普通の」女性愛に目覚めて結婚して、モーリスは振られた形になり、その腹いせではないのでしょうが、ダーラムの家の召使いだった若い男と関係を結んで、結末では二人が一緒に暮しはじめる所で終ります。しかし私はちっともハッピーエンドとは思えず、そもそも地位も違う二人で、当時同性愛は犯罪でした。この二人の将来が明るいものとはとても思えませんでした。全体に読んでみたらどうということはなく、大体フォースターもメンバーの一人であるケンブリッジ大学出身者のブルームズベリーグループは「ホモグループ」としても有名で、ケインズもその一人です。まあ36年経っていまやLGBTQは普通のこととされ、時代も変わりました。この小説の映画もあり、Blu-ray持ってますので観てみるつもりです。
塩野七生の「ローマ人の物語」「賢帝の世紀」[上]、[中]、[下]
塩野七生の「ローマ人の物語」「賢帝の世紀」[上]、[中]、[下]を読了。2世紀のローマの黄金時代、五賢帝といわれる、ネルヴァ、トライアヌス、ハドリアヌス、ピウス、マルクス・アウレリウスの内、トライアヌスからピウスまでをこの巻は扱っています。しかし、残念ながら、これまでの所に比べるとつまらないのですね。理由は塩野七生が言い訳を書いていますが、タキトゥスがもはやトライアヌス以降は歴史を書き残しておらず、また他の人による記録も少なく、情報が非常に少ないからです。また、トライアヌス、ハドリアヌスの二人はあまりに出来過ぎで、読んでいて、何か劣等感を感じてしまいます。ピウスは軍人としてはまったく才能も経験も無かったですが、前の二人があまりに完璧に防衛体制を確立してしまったため、内政に特化してそれできっちり仕事をしています。それでもこの2世紀の重要事項としては、ローマに対して2度も反乱を起したユダヤが、ついにハドリアヌスによってエルサレムから完全追放されるディアスポラに処され、その後20世紀にイスラエルが建国されるまで、世界中に離散して生活することになります。大体この全盛期のローマに対して反乱を起して勝てる訳がないと思うのが普通ですが、神を狂信的に信じると理性が眠る、という日本でもつい80年前にあったのと同じことが起きています。今旧約聖書の本編を読み終わっていま続編(外典)を読んでいますが、ユダヤ教というのは例えばソロモン王の時のような全盛期には単なる昔からある古い宗教(日本で言えば明治以前の神道)みたいなもので、本当にユダヤ教が確立するのはいわゆるバビロン捕囚の苦難の時代になってからと言われます。要は自分達がこんな惨めな境遇に陥ったのは代々のユダヤの王と民がヤーウェを信じずないがしろにしたから、というのが旧約聖書だと思います。
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塩野七生の「ローマ人の物語」の「危機と克服」上・中・下
塩野七生の「ローマ人の物語」の「危機と克服」上・中・下を読了。この3巻で何と言っても驚くのは、わずか50年ちょっとで8人もの皇帝が登場すること。ネロが軍団に叛旗を翻されて自死に追い込まれた後、ガルバ(在位約7ヵ月)、オト-(在位3ヵ月)、ヴィテリウス(在位8ヵ月)の3人は特に異常で、わずか1年半で3人の皇帝、しかもローマの軍団同士が凄惨な内戦をイタリア半島の中で繰り広げます。その後を収拾したのがヴェスパシアヌスでこちらは10年の在位で寿命を全うします。その息子がティトゥスで名皇帝と言われましたが、在任中にヴェスヴィオ火山の噴火(ポンペイ最後の日)、ローマの大火、疫病と次々とトラブルが襲いその心労なのか在位期間2年で41歳の若さで病死します。そしてティトゥスの弟のドミティアヌススが跡を継ぎますが、15年間の在位の後、暗殺され、元老院に厳しかったためその業績が抹殺されます。そして五賢帝の時代になり70歳のネルヴァが1年半治めた後、トライアヌスが新皇帝になります。ということで目まぐるしい変化の時代ですが、アウグストゥスの血を引く皇帝は途絶え、その後軍閥の争いになり、その混乱を属州出身のヴェスパシアヌスが解消するという流れになります。以前「タイムトンネル」でネロの亡霊がガルバが自分の死の原因だということでその子孫に復讐するという話がありましたが、やっとガルバが誰なのかわかりました。また今訳しているヴェーバーの「ローマ土地制度史」に丁度皇帝ヴェスパシアヌスが出て来て、その形容に”divus”(神聖な、神の)が付いていますが、その理由がローマの皇帝は死んで神となる、というのがこの3巻に出て来て容易に理解出来ました。(ヴェスパシアヌスの最期の言葉が「やれやれ、可哀想な俺、神にされてしまいつつある。」だそうです。)
それから塩野七生のこのローマ史は、歴史の専門家からは不正確だという批判が多いみたいですが、私も一つ見つけました。「ソキエタース」(塩野七生はイタリア風にソチエタスと表記)を株式会社みたいなもの、と書いてますが、それは断じて違います。また「ソキエタースの社長」とも書いていますが、通常ソキエタースは対等の仲間が作る組合で「社長」的な人はいません。
その他この期間にはガリアでゲルマン民族が大反乱を起したり、ユダヤ戦争でエルサレムがティトゥスの手によって陥落し、ユダヤ人がついに自分達の神殿と故郷を失います。
ウーラントの「聖なる春 Ver sacrum」の日本語訳
先日、古代ローマの「聖なる春」(Ver sacrum)について書きました。
この儀式がドイツで有名になったのは、まずはウーラントがこのタイトルの詩を書いて、それから前の記事で書いたようにグスタフ・クリムトらのヴィーン分離派が自分達の機関誌の名前に使ったからですが、その元になったウーラントの詩とその日本語訳(ChatGPT4による)を日本マックス・ヴェーバー研究ポータルの方で公開しました。ご興味のある方はご覧ください。おそらく日本語訳の書籍は出ていないと思います。
古代ローマの「聖なる春」の真の意味
今訳しているヴェーバーの「ローマ土地制度史」の中に、以前紹介した「聖なる春」が出て来ます。
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――部分的に植民地開拓政策の意味を持っていたローマ古代の ver sacrum ≪聖なる春。古代ローマで凶作の秋の翌年春に生まれた新生児を神への捧げ物とし、その新生児が成長して一定年齢になると新植民市の開発のため未開の地に送り出された故事。≫は、それが故郷のゲマインデの中で余分な人間とされ、扶養家族の埒外にされていた者達の中から選ばれた者が、つまりはその理由のため新生児の時に神に捧げられその者が成長した若者を意味する限りにおいて、次のことは正しい。またこのやり方が神々への捧げ物という神聖な儀式として行われているということも、同様に次のことを正しいと思わせる。それはつまり、この ver sacrum が行われたのより更に古い時代の人口政策、つまり神への生け贄が、どちらもその目的は同じだったのであると。それは諸民族において、限られた食料自給体制の中で、対外的な拡張でそれを解決するのが不可能だった場合(例えばインドのドラヴィダ人≪インドでのアーリア人が優勢になる前の先住民族≫の例)に[口減らしのために]利用されていたのが、より後の時代になってもなお ver sacrum という形で[新植民地開拓という建て前で]まだ利用されていた、ということである。
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これについては以前、グスタフ・クリムトの記事で、クリムトらが「ウィーン分離派」を結成した時のその機関誌の名前がこの ver sacrum でした。クリムト達は既存の画壇とは一線を画した新しい画家集団を目指してこの名前を使っています。しかし、その本質はヴェーバーが書いているように、間引き、口減らしなのですね。上記の文章にはドラヴィダ人の場合が言及されていますが、私はそれよりもパレスチナの地でバアル神がヤーウェの再三の怒りにも関わらず信仰されており、その一つの儀式として幼児・子供を火の中に生け贄として投げ込むというのがあり、旧約聖書でヤーウェがこの行為についても非常な怒りを示しています。これも口減らしだったのかもしれません。バアルは元々農耕神です。
塩野七生の「ローマ人の物語 悪名高き皇帝たち」の[三]と[四]
塩野七生の「ローマ人の物語 悪名高き皇帝たち」の[三]と[四]を読了。この二巻で取上げられている皇帝はクラウディウスとネロです。やはりこの二巻でも塩野七生は単純に「悪帝」「暴帝」とはせず、それぞれの良い所はきちんと認めようとします。特にクラウディウスは「悪帝」の一人として一まとめにされるのが可哀想なくらいで、体格にはまったく恵まれない貧相で貧弱な肉体の持ち主の学者(歴史家)皇帝でしたが、やるべきことはきちんとやり、ガリア人達の元老院議員を認めた演説は「寛容」の精神の頂点を示すものとして、今でも名演説とされています。ただ晩年に解放奴隷を側近に使ったのが元老院議員に恨まれたとか、配偶者には恵まれず最後は悪妻アグリッピーナに毒殺されてしまいます。
そのアグリッピーナの息子がネロで、言うまでもなく古代ローマで悪帝というのはまずはネロのこととされます。しかしそれもキリスト教徒を最初に弾圧した皇帝ということから、キリスト教徒から「反キリスト」として毛嫌いされたという面が大きいようです。実際にローマに大火が起きた時の対応は、現代の日本の政治家が見習うべきであるように迅速に被災者のテント村を作ったり、食料である小麦の価格を引き下げたりと精力的に活躍しています。しかしその大火が結局ネロが私邸を作るために放火させたのだという噂が立ち、その噂を消すためにキリスト教徒を放火犯に仕立てて殺害したということのようです。ただネロの最大の過ちは、軍団が自分にクーデターを起そうとしているという猜疑心に囚われ、ローマの有能で功績も非常に大きい軍団長3人を処刑したことでしょう。この結果、ローマの軍団の支持が離れ、最後は反乱を起され自死を強制されます。
結局、ティベリウス-カリグラ-クラウディウス-ネロとまとめて悪帝とされていますが、注目すべきはローマの国家そのものはこの間多少の危機はあったともびくともしなかったということであり、帝政(元首政)を取る限り、カエサルやアウグストゥスのレベルの人が続くはずがない、ということだと思います。
宮島未奈の「成瀬は天下を取りにいく」「成瀬は信じた道をいく」
宮島未奈の「成瀬は天下を取りにいく」「成瀬は信じた道をいく」を読了しました。この二冊は前から書店で見かけていましたが、買ってみるまでには至らず、今回「天下を取りにいく」の方が本屋大賞を受賞したので、読んでみたもの。うーん、タイトルと中身にギャップがあり、「天下を取りにいく」という割りには、主人公成瀬のやっていることが、閉店予定の西武デパートにライオンズのユニフォーム着て通うとか、大津観光大使になるとか地味すぎ。全体に成瀬より作者の地元愛(といっても生まれは静岡の人で、大津在住になったのは30歳過ぎてからのようですが)の方が微笑ましく感じます。またWikipediaによると、三浦しをんの「風が強く吹いている」(箱根駅伝もの)を読んで自分には才能が無いと思って作家を諦めたのが、森見登美彦の「夜行」を読んで刺激を受け再度作家を目差したというのが、私の読書傾向ともかなり重なっていて少し親近感を覚えました。また作者は京大文学部出身で(森見登美彦も京大ですが)、成瀬のキャラクターや経歴の半分くらいは作者のものの投影でしょうね。大体成瀬のとても頭はいいけどかなりマイペースで周囲から浮いてて、時々突飛なことをやる、という人はまあ高校(進学校)とか大学の時にそれなりに知っているので、私には珍しいキャラではなかったです。全体には佳作という感じで、本屋大賞?にはそこまでかな、とは思いました。まあ日頃本をあまり読まない人には読みやすいでしょう。
塩野七生の「ローマ人の物語」の「悪名高き皇帝たち]の[一]と[二]
塩野七生の「ローマ人の物語」の「悪名高き皇帝たち]の[一]と[二]を読了。皇帝としては2代のティベリウスと3代のカリグラです。この「物語」については、第1巻から「パクス・ロマーナ」までつまりアウグストゥスまで読んでいて、それ以降はまあいいかと保留にしていたものですが、最近ヴェーバーの「ローマ土地制度史」を訳していて、古代ローマに関する基礎知識の不足を感じるので、また読み始めたものです。ティベリウスについては「悪名高き」とされているのが可哀想なほど、名君として描かれています。ティベリウスの名誉復権が塩野七生の秘かな狙いだったようです。またティベリウスを再評価した最初の人がモムゼンだったというのも興味深かったです。ティベリウスは、クンクタートス=愚図、のろまと罵られてもローマの守りを優先してハンニバルを苦しめたファビウスの系譜に連なる人であり、ポピュリストの正反対です。しかし当時民主主義で選挙でプリンケプス(第一人者)が選ばれていたとしたら、ティベリウスはあっという間に消えていたでしょう。そのまったく反対でポピュリストそのものだっただけではなく、自分を神と称したカリグラが対照的に描かれています、というか事実そうだったんですが。カリグラの治世が4年にも満たず、最後は自身の近衛兵に殺されたのは知りませんでした。なんせ日本では(というか世界でも)映画カリギュラ(ポルノ映画)のイメージが強いですから。しかし国家でも会社でも、大体3代目にダメになることが多いですね。例外は徳川幕府ぐらいでしょうか。