テレビジョンエイジ 1975年8月号

「原子力潜水艦シービュー号」の資料としてヤフオクで落とした1975年の雑誌。そっちの情報は大したことなかったですが、1960年代のアメリカではSFドラマだけではなく、妖怪・怪物・魔女ドラマも全盛だったことを知りました。もちろん「奥様は魔女」は知っていましたがが。(ちなみに「魔法使いサリー」は「奥様は魔女」の影響で生まれています。)
例えば、

マンスターズ
https://youtu.be/vgmiBjJFOSA

アダムスのお化け一家
https://www.nicovideo.jp/watch/sm32593891

水木しげるの作品はオリジナルでしょうが、日本の他の怪物ものは海外の影響が強いのだと思います。

スタージョンの「原子力潜水艦シービュー号」

ここ2週間くらいで、Wikipediaの「原子力潜水艦シービュー号」の項を大幅に書き直した関係で、以前買ったスタージョンのこのノベライズ版も一応読んどかないと無責任かな、と思って読みました。結果、何というか非常につまらなかったです。スタージョンも何でこんな仕事を受けたのかは不明ですが、ほぼやっつけ仕事と言われても仕方がない出来でした。これは映画版のノベライズ版で、あの映画は色々ごちゃごちゃと詰め込みすぎで出来は良くありませんが、この小説に比べればまだマシと言わざるを得ません。ちょっとだけ面白いのが、テレビ版では副長のチップ・モートンは沈着冷静な副官で良くネルソン提督とクレーン艦長をサポートしていますが、この小説ではクレーン艦長と兵学校で同期だったけど、クレーンがいつも1番でモートンが2番目だったという設定になっています。それでモートンはいつも一言多い、頭の回転があまり速くない人物としてして描かれています。ヴァン・アレン帯の火災(?)を核ミサイルで吹っ飛ばすのに、色んな邪魔が入る展開も、このノベライズ版は何か淡々と描写されていてあまり緊迫感がありません。★★。

シオドア・スタージョンの「深海の宇宙怪獣」(原子力潜水艦シービュー号のもう一つのノベライズ版)

「原子力潜水艦シービュー号」のもう一つのノベライゼーションである「深海の宇宙怪獣」を読了しました。作者はシオドア・スタージョンで、日本語訳が福島正実です。偕成社から出ていたSF名作シリーズ全28巻の13番目です。このシリーズはバローズが3作、ウェルズが2作、そして宇宙家族ロビンソンのノベライズ版もあり、比較的分かりやすいSFを集めているように思います。子供の時家にこのシリーズの「超能力作戦」がありました。
読んでみるとこのノベライズ版はTV版の第2シーズンの第4エピソードと第3シーズンの第1エピソードの話ほぼそのままです。(宇宙からやってきた巨大な脳が科学者やクレーン艦長を操ってシービュー号の乗っ取りを企む話と、あるマッドサイエンティストがネルソン提督にそっくりなサイボーグを作ってシービュー号に送り込み、世界を自分のものにしようとする話)確かにこの2つの話はシリーズ全体の中では良く出来た方の話なのでこれを選んだのはまあいいとして、スタージョンほどの作家が書いているにもかかわらず、ストーリーはほぼTV版のままです。にも関わらずどこにも元の脚本家の著作権表示がありません。本の中にはK. Yanoという人が著作権の交渉をしたようなことが書いてありますが、これは翻訳家兼著作権エージェントであった、故矢野浩三郎氏のことだと思います。
実はこのノベライズ版はご本家のスタージョンのビブリオグラフィーを見ると、日本語版だけしか出版されていないようでかなり奇妙です。もしかするとスタージョンの名前だけ借りて、実際は福島正実氏が書いたのではないかと勘ぐりたくなります。(この福島氏の翻訳?もちょっと変で、チーフ・シャーキーが「ようがす」といった太鼓持ちみたいなセリフを吐いています。)しかし、チップ・モートンのキャラクターは、スタージョンの映画版ノベライズのそれに近く(TVではモートンは沈着冷静な副官ですが、スタージョンの小説では一言多い、頭の回転が悪い人間に書かれています)、そういう意味ではやはりスタージョンが書いたのかなとも思います。ただ、映画のノベライズではかなりスタージョンの独自色が出ていましたが、こちらはほとんど脚本のままで、違うのは2つのエピソードをつなぐため、ネルソン提督がノーベル生物学賞を受賞するという話が出てくる所だけです。やはり福島氏の代作ではないかというのが私の仮説。あの人ならやりかねません。
ちなみに第2シーズンと第3シーズンの話であるのに、表紙のシービュー号は観測窓が上下に分かれている第1シーズンバージョンです。(もっともこの頃日本で売られていたシービュー号のプラモデルはすべてこの第1シーズンバージョンでした。)

Wikipediaの「原子力潜水艦シービュー号」の項を大幅加筆

Wikipediaの「原子力潜水艦シービュー号」の項を、この2週間で大幅に加筆しました。6月1日時点の記事の総文字数が3,275だったのが、6月14日23時現在で19,060文字と、約6倍の量になっています。「原子力潜水艦シービュー号」の記事は7カ国語でページがありますが、現在日本語版が圧倒的1位で、本家の英語版をしのぎます。(もっとも英語版は、ドラマのページとは別にシービュー号だけのページがありますが。)110話全部の英語タイトル、日本語タイトル、脚本家、監督をリスト化しています。
ついでに、国会図書館で検索して、このドラマのノベライゼーションをもう一種類(これまで知っていたのはスタージョンの「原子力潜水艦シービュー号」とフェアマンの「シービュー号と海底都市」の2つです。)発見しました。著者は映画のノベライズ版と同じく、シオドア・スタージョンです。偕成社のSF名作シリーズで、このシリーズは「超能力作戦」が家にあったので懐かしいです。「日本の古本屋」サイトで無事に見つけることが出来、ポチりました。

「空想科学画報」(原子力潜水艦シービュー号の資料)

「空想科学画報Vol.1」「空想科学画報Vol.2」を購入しました。何かと言うと、Wikipediaの「原子力潜水艦シービュー号」の項目に大幅に加筆したのですが、「出典が書いていない」タグが鬱陶しくてそれを消すための「出典」として買ったものです。内容は、撮影に使われたモデルの写真が主ですが、全話リストもありそれなりに詳しい情報があって有用でした。
ちなみにWikipediaの古いTV番組などの項目にやたらと「出典がない」タグを付けるのは止めて欲しいと思います。その番組のDVDやブルーレイが出ていれば、それが出典としては十分だと思います。昔のTV番組の研究書なんて、ほとんどの場合出ていませんから。

E.M.フォースターの”Aspects of the Novel”(小説の諸相)

E.M.フォースターの”Aspects of the Novel”(小説の諸相)を読了。1927年に発表されたもので、フォースター流の「小説の読み方」「小説ガイド」的なものです。元は何かの教養講座みたいなものではないかと思います。最初邦訳を探したのですが、見つからず、原語で読みました。普段TimeやNewsWeekといった雑誌を読んでいてもほとんど出てこないような単語が沢山出てきて、語彙のいいお勉強になりました。この本を知ったきっかけは、小林信彦が評論家に何かの氏の小説について「登場人物が類型的過ぎる」といった批判を受け、それに対する反論として「それはフラットキャラクターである。知らないのであればフォースターの『小説の諸相』を読め。」と反論していたことです。
全体の構成は、
1.序論 2.ストーリー 3.登場人物 4.登場人物(続き) 5.プロット 6.ファンタジー 7.予言 8.パターンとリズム 9.結論
という風になっています。「フラットキャラクター」「ラウンドキャラクター」は4.の「登場人物(続き)」で出てきて、まあこの本の白眉と言っていいと思います。
フラットキャラクター(平面的なキャラクター)とは、フォースターによれば、類型的に描写されていて、しばしばカリカチュア的に描かれ、常にといっていいほど同じように行動し、同じようにしゃべる、というキャラクターです。これに対し、ラウンドキャラクター(立体的なキャラクター)とは、性格がある程度複雑で、ストーリーの進行に従って変化していき(多くは成長していき)、そのストーリーの中心を成すような人物(つまりは主人公)のことを言います。
ディケンズの「デイヴィッド・カッパーフィールド」の例で言うと、主人公のカッパーフィールドは、これはディケンズ自身の投影ですから当然ラウンドキャラクターで、また最後に主人公と結婚するアグニス・ウィックフィールドも多分ラウンドキャラクターと言っていいでしょう。しかしその他の登場人物はほとんどがフラットキャラクターであり、たとえば貧乏で次々に不幸に襲われながら、楽天的な気質を失わないウィルキンズ・ミコーバー(英語ではミコーバーは楽天家の代名詞になっています)や典型的な悪役で汗でぬめった両生類のような手をしていると初登場時に描写されるユライア・ヒープはフラットキャラクターの代表例です。
その他、同じディケンズの作品の「クリスマスキャロル」のスクルージ爺さんも、少なくとも3人のクリスマスの精霊によって改心する前はこれ以上ないフラットキャラクターであり、「強欲」の代名詞です。
これに対して例えばジェーン・オースティンの「プライドと偏見」について言えば、登場人物のほとんどがラウンドキャラクターとして描かれています。
どちらの手法にも一長一短があると思いますが、フラットキャラクターの多用は、
(1)作者の労力の緩和
(2)読者も登場人物の違いを1回覚えれば済む
(3)主人公をより強調して描くことが出来る
といったメリットがあると考えられます。
これは以前書いたことがあるのですが、マックス・ヴェーバーの社会科学での方法論である「理念型」(Idealtypus)も、おそらくは文学におけるこうしたフラットキャラクターの例を社会科学で応用したのではないかと思います。もちろんフォースターのこの本が出た1927年にはヴェーバーはもう死んでいますので、直接的にフォースターの分類を借りた訳ではありません。しかし、フォースターはヴェーバーの15年後に生まれていて、おそらくそれぞれが読むことが出来た小説については、二人とも当時の典型的インテリということを考えれば、結構共通しているのではないかと思います。ヴェーバーはおそらく19世紀の小説における人物の類型的・カタログ的描写から、「理念型」(ある概念の純粋型で、実際には100%ぴたりと当てはまるものが現実には存在していなくとも良い)を考案したのではないか、というのが私の仮説です。ヴェーバーにおいては純粋型である理念型と実際の歴史上の諸事例を照らし合わして、その差を調べその差を説明するために理論を組み立てていく、というのが主要な方法論の一つです。(なお、昔「理想型」という訳がされたことがありますが、例えば「売春宿」の理念型も考えられ、必ずしもポジティブなものだけに限定されないため、「理念型」という訳に落ち着いています。元をたどればプラトンのイデアとも当然関係があります。)ヴェーバーが有名な「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」という論文の中で、それまではなかった「資本主義の精神」というものを体現する理念型としてベンジャミン・フランクリンを使います。しかし、そのフランクリンは実際のフランクリンの著作等をそのまま使ったのではなく、キュルンベルガーという作家が「アメリカにうんざりした男」という小説の中で「フラットキャラクター」として「時は金なり」といった功利的なことだけを唱える者として描写したフランクリンです。
この「フラットキャラクター」「ラウンドキャラクター」以外にも色々面白いことが書いてあるのですが、残念ながらフォースターが次々に引用する小説の内、私が読んだことがあるのは2割もないので、フォースターの言わんとすることが今一つ良く理解出来ない場合が多かったのは残念です。また、リズムの所でベートーヴェンの第5交響曲を小説との対比で例に出します。「ハワーズ・エンド」でも、この交響曲のコンサートの話が出てきました。フォースターのお気に入りだったのでしょう。

八球スーパーヘテロダイン組立図解(昭和4年)

Amazonを「スーパーヘテロダイン」で検索したら、国会図書館のオンデマンド出版で、「八球スーパーヘテロダイン組立図解」という本を売っていました。安かったので買ってみたのですが、昭和4年に大阪のラジオ研究会という所が発行しています。先日の日本ラジオ博物館での情報では、1924年のアメリカ製の6球スーパーが展示されていましたが、当時家一軒分の価格だったということで、ほとんど買う人はいなかったようです。そのわずか5年後に自分で八球スーパーを組み立てようとしていた人が日本にいたのは驚きです。ただ、この書籍かなり怪しくて、真空管は別に買え、と書いてあるだけで型番も書いてありません。まあ当時は三極管だけなので、そんなに種類は無かったのかもしれませんが、これ書いた人がちゃんとラジオとして機能するかを確認したかどうかは不明です。八球ですが、すべてがおそらくは増幅用ではなく、まず一つは検波用、残りの一つはスーパーヘテロダインに必要な混合用の周波数を作り出す発振用と思われ実質的には増幅段は6段ではないかと思いますが、私の知識では詳細は分かりません。
(写真はクリックで拡大します。)

白骨温泉(大菩薩峠記念碑)

連休で信州の白骨温泉に行きました。ここはいわゆる山奥の秘湯で、昔は訪れるだけで大変だったと思われ、実際に遭難した人の慰霊碑もありました。ここを有名にしたのは言うまでもなく中里介山の「大菩薩峠」であり、机龍之介とお雪ちゃんが一冬をここで過ごします。写真がその記念碑で、題字は白井喬二によるものであり、それを確認出来ただけでもここまで来た甲斐がありました。一軒の宿で温泉にも入らせてもらいましたが、名前の通りの白濁した湯で(一時期入浴剤を使っていたということで騒がれましたが、今はもうしていないと思います)少し硫黄臭がしました。
白骨温泉全体はこんな↓感じです。(なお、県道白骨温泉線というのが完成したため、年中マイカーでアクセス可能です。駐車場は2箇所にあり、おそらく20台くらいは駐められます。無料でしたし、清潔な公共トイレもありました。)

原田治、平田雅樹、山下裕二ほか、による「意匠の天才 小村雪岱」

原田治、平田雅樹、山下裕二ほか、による「意匠の天才 小村雪岱」(新潮社、とんぼの本)を読了しました。おそらくこの記事を読まれている多くの方はこの人の名前はあまりなじみがないんじゃないかと思います。私も正直な所まったく知らなかったのですが、白井喬二の作品を探して昭和初期の雑誌を多数古書店サイトで買い、その中の白井喬二作品の挿絵画家としてこの人を知りました。(「若衆髷」、「斬るな剣」など)
で「意匠の天才 小村雪岱」という本を買いました。そのタイトル通り、通常の日本画家に留まらず、本の装丁、挿絵、また化粧品の瓶のデザイン、さらには演劇の舞台のデザインまでも手がけた多才な人です。
小村雪岱の才能を見出したのはあの泉鏡花であり、「雪岱」という名前も鏡花が命名したものです。当然のことながら両者が組んだ書籍が何組かあります。雪岱の装丁の特長は、斜めの線をきわめて印象的にうまく使うことと、色、特に青色の使い方のうまさで、特に隅田川を描いたいくつかの装丁にその特長が良く現れています。
一番有名な作品は、邦枝完二が新聞連載した「おせん」の挿絵です。「おせん」のヒロインは、笠森お仙で「江戸の三美人」の一人としてもてはやされて、浮世絵に多く描かれていて有名です。雪岱の描く女性は、ほぼすべてスレンダーで、あまり直接的過ぎない適度な色気が感じられます。

漱石と牡蠣

夏目漱石が「吾輩は猫である」の中で、主人公の猫が飼い主の苦沙弥先生のことを「牡蠣的主人」(寡黙であまり出歩かないという意味で)と呼んでいますね。ご承知の通り漱石は1900年5月から1902年12月までロンドンに留学しています。その当時は「牡蠣=寡黙、非社交的」のイメージは英語の中で確固としてあったのでしょうね。
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彼は性の悪い牡蠣のごとく書斎に吸い付いて、かつて外界に向って口を開いた事がない。

人間もこのくらい偏屈になれば申し分はない。そんなら早くから外出でもすればよいのにそれほどの勇気も無い。いよいよ牡蠣の根性をあらわしている。

主人のようなしなびかけた人間を求めて、わざわざこんな話しをしに来るのからして合点が行かぬが、あの牡蠣的主人がそんな談話を聞いて時々相槌を打つのはなお面白い。

そんな浮気な男が何故牡蠣的生涯を送っているかと云うのは吾輩猫などには到底分らない。

小説中の人間の名前をつけるに一日巴理を探険しなくてはならぬようでは随分手数のかかる話だ。贅沢もこのくらい出来れば結構なものだが吾輩のように牡蠣的主人を持つ身の上ではとてもそんな気は出ない。

「はあ賛成員にならん事もありませんが、どんな義務があるのですか」と牡蠣先生は掛念の体に見える。