白井喬二の「富士に立つ影」の読み直し、神曲篇を読了。この巻では、日光の霊城の建築を巡っての勝負で赤針流の熊木公太郎に完勝し、順風満帆かと思われた佐藤兵之助の人生に、ある意味暗い影が忍び寄ってくるというか、あるいは隠されていた兵之助の悪の地が出て来るというかそういう内容になっています。熊木伯典の娘お園が、一敗地に塗れた兄公太郎に変わり、佐藤家の賛四流と交渉をしようとし、それはうまく行かず、それどころか兵之助と恋仲になり、ついには肉体関係まで持つようになってしまいます。考えてみればお園の母親の小里は、元々兵之助の父親の菊太郎に恋していたのであり、小里の娘のお園が、菊太郎に似て更に美少年で、また才覚も菊太郎以上の兵之助を愛するようになっても確かに不思議はないのかもしれません。しかし二人の恋愛は、ただでさえもつれ合っている両家の関係を更にややこしいものにしてしまいます。その一方で公太郎は、兵之助が神経痛の療養に泊まっていた那須の温泉宿のすぐ近くに掘っ立て小屋を建て、樵と川漁師の手伝いをして生計を立てています。その隣に住んでいるが音楽師の錦将晩霞とその妹の貢です。公太郎と貢は、兵之助とお園の人目を避けざるを得ない秘密の関係とは違い、実にあっけらかんとお互いの好意を告白しあって夫婦になります。築城勝負では負けた公太郎ですが、その後の人生では、その負けを取り戻しつつある感じです。
なお、この巻で熊木伯典は、佐藤兵之助と共に山賊狩りの指揮を執ることになり、そのドサクサの中で二人は斬り合いをし、伯典は足をすべらせ崖から落ちて大怪我をし、その時に兵之助に昔の富士の調練城の時の陰謀を白状させられ、念書を取られてしまいます。そして病床での回想で、何故伯典が赤針流の跡目を継ぐことになったかが明らかにされます。裾野篇で賛四流の武士二人が何か伯典の旧悪の証拠をつかんでやってきたのですが、結局伯典に殺されてその旧悪が何だったのかは分からないままになります。しかしこの巻での回想によれば、それは赤針流の本来の跡取りが罪を犯したのを、保釈のお金を払えば釈放されたのを、伯典がそれを父親には告げずに握りつぶしてしまった、そのことではないかと思います。伯典の陰謀の人生はそこから始まっている訳ですが、こういう告白を聞くと、伯典のことを100%の悪役とは思えなくなってきます。この「富士に立つ影」全篇を通じて、公太郎が徹頭徹尾善の人であるのを除けば、他のどの登場人物も完全に善、または完全に悪とは言えないと思います。
ピンバック: 白井喬二作品についてのエントリー、リンク集 | 知鳥楽/ Chichoraku