English Journal 2018年3月号

English Journalの2018年3月号について。この号で買い始めてから丁度丸4年になります。
しかしながら、この号はこの雑誌の悪い所が出ていると思います。
(1)収録CDが今号は60分弱くらいしかない。ちなみに先月は80分近くありました。私は、まず一回通して流し聞きし、次に30分ずつ2回に分けてテキストを見ながら聴くというのを2回やります。時間が毎月大幅にぶれるとこうした計画的な学習がやりにくくなります。
(2)特集記事の意味の無さ。今号の特集は、「TOEICテストが劇的にアップする「コスパ最高の」英単語」ですが、挙げられているのが、「上級語49」となっているので、delivery(配送、配達)、material(素材)、production(生産)、application(申込書)などで、どこが「上級」なのか理解に苦しみます。上級じゃないのは、interview(インタビュー)、busy(忙しい)、position(位置)、market(市場)とかではっきり言って中学生レベル。そりゃこのレベルの単語を知らない人がこれらを覚えればTOEICの点数はアップするでしょうが、この雑誌を買って読むような人はそんなレベルじゃないと思います。(そうじゃないと英語の生インタビューなんか聴いてもまったく理解できず役に立たないでしょう。)

要はこの記事は、TOEICの問題を集めて、その中から頻出する単語を抜き出したんでしょうが、大半の人がそのレベルは知っているので無意味です。むしろ出現頻度は低くても、例えばproduceに「生産する」という動詞だけではなくて、「農産物」という名詞の意味があるといったそういうことを覚えるのが必要だと思います。実際にこの意味で出題されたことがあります。

吉川英治の「宮本武蔵」(戦前版)(二天の巻)

吉川英治の「宮本武蔵」の「二天の巻(全六巻中の第五巻)」を読了。この巻でも特に武蔵に愛国的な発言がある訳ではなく、多少目立つのは、小手指の古戦場で足利尊氏と新田義貞の戦いを振り返って、尊氏を明らかに逆賊として描写していること。足利尊氏が逆賊とされるようになったのは、水戸光圀が「大日本史」を表してからで、この武蔵の頃にそんな考え方はまだ存在しません。また、武蔵の弟子の伊織が朝日を見て「天照大神」と叫ぶこと。いずれの点もGHQに検閲される程のものではありません。
ちなみにこの巻では、佐々木小次郎が主人公が強くなるのに合わせてこちらも強くなり、ついには小野派一刀流の始祖であり、柳生家と並んで将軍の師範であった小野次郎右衛門忠明まで破ります。もちろん史実にそんなことはないと思います。ちょっとこの小次郎の描写で思うのは「巨人の星」に出てきた速水譲次の性格設定と良く似ていることです。これまでの日本の大衆小説では、机龍之助のようなニヒルで冷酷な剣士か、あるいは富士に立つ影の熊木公太郎のような明朗快活な剣士かでしたが、それに比べると新しいキャラクター設定のように思います。
後一巻になりましたが、Wikipediaに書いてある、「武蔵が愛国心を語る場面」は最後まで出てこないように思います。削除されたのは、残酷さが行き過ぎている描写とかそういう所ではないかと思います。

吉川英治の「宮本武蔵」(戦前版)(空の巻)

吉川英治の「宮本武蔵 空の巻」(戦前版)、全6巻の内の第4巻を読了。この巻になって、ようやく戦前的な描写が出てきました。それは、伊達政宗の臣下で、武蔵をスカウトしようとする石母田外記という侍が、武蔵に対し伊達政宗の人柄を紹介するのに、正宗が皇室を何より重んじ、肚から勤王家である、という説明をします。一応調べてみましたが、歴史的な事実として正宗が勤王家であったなどというのはどこにも出てこず、これは吉川英治による脚色だと思います。ただ、青空文庫で「戦後版」を見てみましたが、この部分は削除されずにそのままです。そうすると、吉川英治が戦前版を書き直して一部削除したのは、1949年~1950年出版の六興出版版だけで、その後の版はまた戦前版に戻したのかもしれません。この辺りを確かめるため、六興出版版の一部を取り寄せ中です。
この巻の最後の「跋」には、しかしながら、本当に時代に迎合していた吉川英治がよくわかる文章が入っています。以下引用します。「征戦の皇軍中には、現代の生ける宮本武蔵が、無数にいるのである。すでにかなり盡(つく)した古人武蔵の史料をなお机に漁らんよりは、生ける武蔵に親炙して、親しく学ぼうと思うのである。涼秋八月、長江の血河に筆を洗って、次の構想を、腹いっぱい、大陸の銀河から吸いこんで来ようと思うのである。」

私の聖書コレクション

私の聖書コレクションです。
そんじょそこらの牧師さんあたりにはまず負けないと思います。大学生の時、勧誘に来たエホバの証人の人を聖書に関する議論で負かしたことがあります。

日本語
新約聖書 詩篇附 文語訳
聖書 口語訳
旧約聖書 口語訳
新約聖書 共同訳・全注
新約聖書 詩編つき 新共同訳
聖書 新共同訳
新約聖書 詩篇付 新改訳
新約聖書 フランシスコ会聖書研究所訳注
新約聖書 福音書 塚本虎二訳
The Study Bible New Testament 新約聖書 わかりやすい解説つき聖書 新共同訳
THE STUDY BIBLE 聖書 スタディ版 新共同訳
アポクリファ 旧約聖書外典
関根正雄編 旧約聖書外典 上
トマスによる福音書 荒井献(グノーシス派の福音書)

英語
新約聖書(高校時代にギデオン協会からもらった日英対訳)
HOLY BIBLE(NRSV)(アメリカで一番標準的な聖書)
HOLY Bible(King James Version)
THE NEW JERUSALEM BIBLE(一番学術的と評される英語聖書)

ドイツ語
Das Neue Testament(ルターによる新約聖書、レクラム文庫で2巻)
DIE BIBEL(ルター訳聖書)
Die Gute Nachricht(現代ドイツ語訳新約聖書)
DIE BIBEL(ドイツ語新共同訳)

ラテン語
NOVUM TESTAMENTUM LATINE (NESTLE-ALAND)

ギリシア語
NOVUM TESTAMENTUM GRAECE(NESTLE-ALAND)

Max Weber im Kontext

“Max Weber im Kontext”という、マックス・ヴェーバーの主要著作が入ったCD-ROMを購入しました。
(詳細な情報はここにあります。)

ただ、インストールに色々苦労しました。
(1)インストールが途中で止まってしまう。→これはカスペルスキーを一時的に止めて再度やってみたらOKになりました。
(2)ギリシア語が文字化け→これはCD-ROMの中にあった、フォントが入ったZIPフォルダーを本体にコピーして解凍し、その中にあったギリシア語フォントを手動でインストールしたらOKになりました。
Amazonのドイツで買いました。本体が€86、送料が€15.5で合計が€101.5、日本円で13,702円くらいです。安くはないですが、これでWeberの著作のかなりの部分が参照できるのは有り難いです。結構ヴェーバーの政治的な発言までカバーされているように思います。(ちなみにダウンロード版だと€80で多少安いです。但し、かなりの容量があるので、ダウンロードにかなり時間がかかりそうです。)

以下が収録内容です。
(日本語訳名は、既出の日本での翻訳の題を借りているのが大部分ですが、翻訳が無いものは私が訳している場合があり、必ずしも正確ではない可能性があります。また出版年順に並べ替えました。)
Zur Geschichte der Handelsgesellschaften im Mittelalter (1889)「中世合名会社史」
Die römische Agrargeschichte  in ihrer Bedeutung für das Staats- und Privatrecht (1891)「ローマ農業史 国法と私法への意味付けにおいて」
Die ländliche Arbeitsverfassung (1893)「農業の労働状態」
Entwickelungstendenzen in der Lage der ostelbischen Landarbeiter (1894)「東エルベの農業労働者の境遇における発展諸傾向」
Die Börse (1894/96)「取引所」
Der Nationalstaat und die Volkswirtschaftspolitik (1895)「国民国家と経済政策」
Die sozialen Gründe des Untergangs der antiken Kultur (1896)「古代文化没落の社会的諸原因」
Roscher und Knies und die logischen Probleme der historischen Nationalökonomie (1903-1906)「ロッシャーとクニース」
Agrarstatistische u. sozialpolitische Betrachtungen zur Fideikommißfrage in Preußen (1904)「プロイセンにおける『信託遺贈地問題』の農業統計的、社会政策的考察」
Die »Objektivität« sozialwissenschaftlicher u. sozialpolitischer Erkenntnis (1904)「社会科学と社会政策にかかわる認識の『客観性』」
Der Streit um den Charakter der altgermanischen Sozialverfassung in der deutschen Literatur des letzten Jahrzehnts (1904)「古ゲルマンの社会組織」
Diskussionsreden auf den Tagungen des Vereins für Sozialpolitik (1905, 1907, 1909, 1911)「社会政策学会の大会における討議演説集」
Zur Lage der bürgerlichen Demokratie in Rußland (1906)「ロシアにおける市民的民主主義の状態」
Rußlands Übergang zum Scheinkonstitutionalismus (1906)「ロシアの外見的立憲制への移行」
Kritische Studien auf dem Gebiet der kulturwissenschaftlichen Logik (1906)「歴史学の方法」
R. Stammlers »Überwindung« der materialistischen Geschichtsauffassung (1907)「R・シュタムラーにおける唯物史観の『克服』」
Die Grenznutzlehre und das »psychophysische Grundgesetz« (1908)「限界効用学説と『心理物理的基本法則』」
Die sogenannte »Lehrfreiheit« an den deutschen Universitäten (1908)「ドイツの大学における所謂『教授の自由』」
Methodologische Einleitung für die Erhebungen des Vereins für Sozialpolitik über Auslese und Anpassung (Berufswahlen und Berufsschicksal) der Arbeiterschaft der geschlossenen Großindustrie (1908)「封鎖的大工業労働者の淘汰と適応(職業選択と職業運命)に関する社会政策学会の調査のための方法的序説」
Zur Psychophysik der industriellen Arbeit (1908/9)「産業労働の精神物理学について」
»Energetische« Kulturtheorien (1909)「『エネルギー論的』文化理論」
Die Aufgaben der Volkswirtschaftslehre als Wissenschaft (1909)「国民経済学の科学としての課題」
Zur Methodik sozialpsychologischer Enquêten und ihrer Bearbeitung (1909)「社会心理学調査の手法とその処理について」
Agrarverhältnisse im Altertum (1909) 「古代社会経済史 古代農業事情」
Geschäftsbericht u. Diskussionsreden auf den dt. soziolog. Tagungen (1910, 1912)「ドイツ社会学会の討議についての報告」
Über einige Kategorien der verstehenden Soziologie (1913)「理解社会学のカテゴリー」
Bismarcks Außenpolitik und die Gegenwart (1915)「ビスマルクの外交政策と現代」
Zur Frage des Friedenschließens (1915/16)「平和の終焉という問題について」
Zwischen zwei Gesetzen (1916)「二つの律法のはざま」
Der verschärfte U-Bootkrieg (1916)「潜水艦作戦の強化」
Der Sinn der »Wertfreiheit« der soziologischen und ökonomischen Wissenschaften (1917)「社会学および経済学の『価値自由』の意味」
Deutschland unter den europäischen Weltmächten (1917)「ヨーロッパ列強とドイツ」
Deutschlands äußere und Preußens innere Politik (1917)「ドイツの対外政策とプロイセンの国内政策」
Ein Wahlrechtsnotgesetz des Reichs (1917)「選挙権にかんする帝国の緊急法」
Rußlands Übergang zur Scheindemokratie (1917)「ロシアの外見的民主主義への移行」
Die Lehren der deutschen Kanzlerkrisis (1917)「ドイツの宰相危機の教訓」
Die Abänderung des Artikels 9 der Reichsverfassung (1917)「帝国憲法第九条の改正」
Die siebente deutsche Kriegsanleihe (1917)「第七次のドイツの戦時公債」
Vaterland und Vaterlandspartei (1917)「祖国と祖国党」
Bayern und die Parlamentarisierung im Reich (1917)「バイエルンと帝国の議会主義化」
Bismarcks Erbe in der Reichsverfassung (1917)「ビスマルクの外交政策と現代」
Wahlrecht und Demokratie in Deutschland (1917)「ドイツにおける選挙法と民主主義」
Der Sozialismus (1918)「社会主義」(Rede zur allgemeinen Orientierung von österreichischen Offizieren in Wien (1918)「ウィーンにおけるオーストリア将校への一般講話」)
Innere Lage und Außenpolitik (1918)「国内情勢と対外政治」
Parlament und Regierung im neugeordneten Deutschland (1918)「新秩序ドイツの議会と政府」
Die nächste innerpolitische Aufgabe (1918)「次の内政的課題」
Waffenstillstand und Frieden (1918)「停戦と平和」
Das neue Deutschland (1918)「新生ドイツ」
Deutschlands künftige Staatsform (1919e)「ドイツ将来の国家形態」
Zum Thema der »Kriegsschuld« (1919)「戦争責任の問題について」
Der Reichspräsident (1919)「帝国大統領」
Zur Untersuchung der Schuldfrage (1919) 「戦争責任問題の研究」
Wissenschaft als Beruf (1919)「職業としての学問」
Politik als Beruf (1919)「職業としての政治」
Die protestantische Ethik und der Geist des Kapitalismus (1920e)「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」
Die protestantischen Sekten und der Geist des Kapitalismus (1920e)「プロテスタンティズムの諸信団(ゼクテ)と資本主義の精神」
DIE WIRTSCHAFTSETHIK DER WELTRELIGIONEN: 「世界宗教の経済倫理」
I. Konfuzianismus und Taoismus (1920e)「儒教と道教」
II. Hinduismus und Buddhismus (1921e)「ヒンドゥー教と仏教」
III. Das antike Judentum (1921e)「古代ユダヤ教」
Nachtrag. Die Pharisäer. (1921e) 「パリサイ人」
Methodische Grundlagen der Soziologie (1921e)「社会学の基礎概念」
Die drei reinen Typen der legitimen Herrschaft (1922e)「正統的支配の三つの純粋型」
WIRTSCHAFT UND GESELLSCHAFT 1922E 「経済と社会」
Die rationalen und soziologischen Grundlagen der Musik (1925e) 「音楽社会学」

グリムのドイツ語大辞典のルターの発言の原典、その解釈

さて、グリムのドイツ語大辞典の”Ruf”の項での、ルターの用例の出典(原典)が判明しましたので、今度はその解釈です。まず、原典であるワイマール版ルター全集の方の正確なテキストを普通のアルファベットで記すと以下のようになります。

Und ist zu wissen, das dis wörtlin ‘Ruff’ hie nicht heysse den Stand, darinnen yemand beruffen wirt, wie man sagt: Der ehestand ist deyn ruff, der priester stand ist deyn ruff, und so fort an eyn iglicher hatt seynen ruff von Gott. Von solchem ruff redet hie S. Paulus nicht, Sondern er redet von dem Evangelischen ruff, das also viel sey gesagt: Bleybe ynn dem ruff, darinnen du beruffen bist, das ist, wie dich das Evangelion trifft, und wie dich seyn ruffen findet, so bleybe. Rufft dyrs ym ehestand, so bleybe ynn dem selben ruffen, darinnen dichs findet. Rufft dyrs ynn der knechtschafft, so bleyb ynn der knechtschaft, darynnen du beruffen wirst.

(以下拙訳)
そして知っておくべきことは、ここで使われている”Ruff”という小さな単語が、つまりよく言われるような「結婚している状態はあなたの”ruff”だ」とか、「聖職者である身分はあなたの”ruff”だ」などという意味での、各自がそこに召された「状態や身分(”Stand”)」を意味するのではないということです。すべての人はその状態や身分を神から与えられています。そのような”ruff”についてパウロはここで語っているのではありません。そうではなくて、パウロは福音的な召命(”ruff”)について語っています。それは多くの人がそう命じられているように、そこに召されたことになったその召命(”ruff”)の中に留まりなさいという命令で、つまり、あなたがどのように福音に出会ったのか、そしてどのようにその福音の召命(”ruffen”)を見出したのか、そういう風に(考えながら)その中に留まりなさいということです。その福音が結婚状態へと召すのであれば、その中に福音はあなたを見出したのだから、そこに留まっていなさい。福音があなたを奴隷の状態に召すのであれば、その中に召された、奴隷の状態に留まっていなさい。

ここで、グリムのドイツ語大辞典に引用されている、””und ist zu wissen, das dis wörtlin, ruff, hie (1 Cor. 7, 20) nicht heisze den stand, darinnen jemand beruffen wird, wie man sagt, der ehestand ist dein ruff, der priesterstand ist dein ruff.”(ちなみにこの引用ではprister standが一語に変えられています)だけを見ると、ルターは元のギリシア語の”κληδις “を、「状態や身分」の意味ではないとしているように見えます。しかし、この引用の仕方は問題で、実際はルターはここを「状態や身分」ではない例えば「世俗的職業」とはまったく解していません。ここで言っているのは「単なる状態や身分」そのもののことよりも、そこへと召された「福音的召命」のことだと言っています。ヴェーバーもこの部分について次のように「倫理」論文の注の中で言及しています。「二〇節については、ルッターは一五二三年にこの章の釈義で、まだ古いドイツ語釈にならってκληδιςを≫Ruf≪と翻訳し、さらに≫Stand≪の意味に解している。」(In v. 20 hatte Luther im Anschluß an die älteren deutschen Übertragungen noch 1523 in seiner Exegese dieses Kapitels κληδις mit ≫Ruf≪ übersetzt (Erl. Ausgabe, Bd. 51 S.51) und damals mit ≫Stand≪ interpretiert.)
しかし、上記の通り、ここをルターが”Stand”の意味に解しているという説明も、正確ではないように思います。(「世俗的職業」として解していない、という意味では正しいですが。)

さらには、Johann Georg Walchがこの文を彼の時代のドイツ語に直した時に、”Bleybe ynn dem ruff”を”Bleibe in dem Beruf”に変えてしまったのも、”ruff”がルターの死後”Beruf”に変わったことの傍証としての価値はありますが、ルターの元の意味を変えてしまうので、全集の編集者としては問題があると思います。

ルターがここで言っていることは、私には非常にわかりにくく感じます。元々のパウロの書簡文では、その対象は異教徒からキリスト教に回心したコリント人(ギリシア人)ですから、「福音的召命」の瞬間ははっきりしていますので、その瞬間を常に思い起こしながら、自分の今の身分や状態を振り返りなさいという命令は説得力があります。しかし、このルターの説教が対象にしているであろう当時のドイツの一般の信徒にとって、幼児洗礼でキリスト教徒になっている人がほとんどだと言うことを考えると、ここのルターの説明はあまり響かないように思います。

それから、ルターが言っているように、”ruff”という言葉が、その当時一般的には状態や身分を想起させる言葉であるならば、ルターが込めている意味をいつも想起するのはかなり困難なように思います。ルターは結局1545年の生前ルターが関わった最後の版の新約聖書まで”ruff”という最初の訳語にこだわり続けます。もしかすると、ルターの死後”ruff”が”Beruf”に変わったのは、そういう意味の曖昧性を持つ語が後の編集者によって避けられたのではないか、という気がします。もちろん”Beruf”を世俗的職業も含めた意味で使う場合には、ルターのここでの「福音的召命」という解釈からさらにもう一歩飛躍が必要ですが。

年末の書籍の整理

本を積んでいる箇所が、ついこの間整理したばかりだと思ったら、もう天井近くなってきていつ崩れるかわからない状態になっていたため、年末の大掃除的に英語雑誌、語学テキスト等を捨てて、積み直しました。結果、かなり余裕ができました。捨てる本をゴミ袋に詰めて運んだのですが、これが重くて、かなり体に応えます。

グリムのドイツ語大辞典でのルターの言葉の原典(1月28日追記)

私は、2006年11月23日にアップした「羽入式疑似文献学の解剖」(ナカニシヤ出版の「日本マックス・ウェーバー論争」にも収録)の注釈の中で以下のように書きました。
http://www.shochian.com/hanyu-hihan-fc107.pdf
「グリムのドイツ語大辞典(CD-ROM版)で、”Beruf”と”Ruf”を調べてみた。このドイツ語大辞典が最終的に完成したのは、本文中に記述した通り1961年のことであるが、”Beruf”の項は1853年にJ. Grimm、”Ruf”の項は1891年にM. Heyneにより編集されており、ヴェーバーが倫理論文を書く前の編集である。ヴェーバーがグリム大辞典(の当時出版されていた分冊)を参照したかどうかは倫理論文中には記載されていないが、OEDの前身のNEDをあれだけ参照しているヴェーバーがグリム大辞典を参照しなかったということは想定しにくい。

“Beruf”の項では、2つの語義が書かれている。1つめはラテン語のfamaにあたる、「名声・評判」という意味である。2番目の語義が、ラテン語のvocatioに相当し(ドイツ語ではさらに新たな意味が付与された)、いわゆる「天職」である。ここでグリム大辞典は、この意味での語源の一つを、”bleibe in gottes wort und übe dich drinnen und beharre in deinem beruf. Sir. 11, 21; vertraue du gott und bleibe in deinem beruf. 11, 23” 、つまりヴェーバーと一致して「ベン・シラの書(集会の書)」としている。

これに対し、”Ruf”の項では、「過渡的な用法」として、「(内面的な使命としての)職業」を挙げている。また、「外面的な意味での職業」、つまり召命的な意味を含まない職業の意味ではほとんど用いられたことがなかったと説明されている。さらにはルター自身の用例が挙げられている:” und ist zu wissen, das dis wörtlin, ruff, hie (1 Cor. 7, 20) nicht heisze den stand, darinnen jemand beruffen wird, wie man sagt, der ehestand ist dein ruff, der priesterstand ist dein ruff. LUTHER 2, 314a” このルターの章句がどのような文脈で使われたものなのか、残念ながらまだ突き止められていない。しかしながら、ルター自身が、コリントI 7.20のこの部分を、今日のほぼすべての学術的聖書が採用する「状態」(Stand)の意味ではない、と明言しているのは非常に興味深い。(以下略)」

このグリムのドイツ語大辞典のルターの用例の原典を、実に11年2ヵ月の期間をかけて、ようやく突き止めることが出来ました。
それはJohann Georg Walchというルター派の神学者が1740年から1753年にかけて出した24巻のルター全集(ルターの著作にはドイツ語だけではなくラテン語のものも多く含まれますが、この全集はラテン語のものをすべてドイツ語に翻訳しています)の中のルター全集の第8巻の中に含まれていました。( Dr. Martin Luthers Sämmtliche schriften, Achter Theil, Auslegung Johannes 7-20, ApG 15 und 16 und 1 Kor 7 und 15, kürzere Auslegung der Epistel an die Galate)
ルターがこの部分の説教を行ったのは1523年8月となっています。ヴァルトブルク城で新約聖書のドイツ語訳を完成させた約1年後です。

該当部分の画像をアップします。そして、問題の箇所を含む部分をテキスト化(元はFraktur=ヒゲ文字のドイツ語)したのが以下です。
(全巻のテキストは、 https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=mdp.39015074631824;view=1up;seq=1 で見ることができます。)

Und ist zu wissen, daß dies Wörtlein “Ruf” hier nicht heiße den Stand, darinnen jemand berufen wird; wie man sagt: Der Ehestand ist dein Ruf; der Priesterstand ist dein Ruf; und so fortan. Ein jeglicher hat seinen Ruf von Gott. Von solchem Ruf redet hier St. Paulus nicht, sondern er redet von dem evangelischen Ruf, daß also viel sei gesagt: Bleibe in dem Beruf, darinnen du berufen bist, das ist: Wie dich das Evangelium trifft, und wie dich sein Rufen findet, so bleibe. Ruft dir’s im Ehestande, so bleibe in demselben Rufen, darinnen dich’s findet; ruft dir’s in der Knechtschaft, so bleibe in der Knechtschaft, darinnen du berufen wirst.
(一部小文字を大文字に変更)

やはり原典に当たってみるということは重要で色々と注意事項があります。

(1)元のルターの説教はラテン語だということです。つまりグリムのドイツ語大辞典に引用されているのは、ルターのラテン語テキストをWalchが(その当時の)ドイツ語に訳したもので、ルターが自分でこのようなドイツ語をしゃべったのではないということです。
(元のルターのラテン語は、別途探してみるつもりです。)
→1月28日追記:これは私の勘違いで、最初からドイツ語でした。ワイマール版ルター全集の第12巻のP.132にオリジナルがありました。
D. Martin Luthers Werke, Weimar 1883-1929
Weimarer Ausgabe – WA
12 Reihenpredigt über 1. Petrus 1522; Predigten 1522/23; Schriften 1523
Das siebente Kapitel S. Pauli zu den Corinthern. 1523.
P.132
興味深いのは、このルターのオリジナルでは、”Bleybe ynn dem ruff, darinnen du beruffen bist,”がWalch版では”Bleibe in dem Beruf, darinnen du berufen bist”になり、ruffがBerufに置き換えられていることです。Walch版はルターの死後約200年後(ヴェーバーの約150年前)ですが、この間にruffがBerufに置き換わったという文献的証拠の一つになります。(羽入はルター聖書ではBerufではなく、ruffだったということを世界的発見のように書きますが、要はruffが使われなくなりその後Berufに変わったということは、ヴェーバーの当時は公知の事実だったということです。)

尚、このワイマール版のが検索で見つからなかった理由ですが、Frakturのテキスト化が無茶苦茶だからです。おそらく普通の書体用のOCRでFrakturをテキスト化しています。PDF版からこの部分のテキストを取り出すと以下のようになります。これではヒットする訳がありません。

Unb ift au tüiffen, ba§ bi$ luortlin ‘ytuff’ Ijie nid^t Ijeljffe beu ftanb,
borljuueu Ijemaub beruffen tüirt, iDte mau fagt: Der cljeftanb ift belju ruff,
ber priefter ftanb ift belju ruff, unb fo fort au el)u iglic^er ^^att feljueu ruff 25
öon ©Ott. 3>ou foldjem ruff rebet l)ie 6. 5pautu’^ uidjt, Sonbern er rebet öon
bem Gnaugelifdjen ruff, ba§ alfo öiel fei) gefagt: ^leljbe ijnii bem ruff,
barl)nnen bu beruffen bift, ha§ ift, loie bic^ ba§ ©öangelion trifft, uub mie
bidj fel)u rüffeu finbet, fo bleljbe. ^Küfft bQrs ijui eljcftanb, fo bleljbe l)uu
bem fclben rüffeu, barljuncn bic^y finbet. Ütüfft bljrS l)un ber fnec^tfd^afft, 30
fo bleljb Ijun ber fnec^tft^aff t , barljunen bu beruffen luirft.

(ワイマール版ルター全集は、ここで参照できます。)

(2)確かにルターは、コリントⅠ7,20の”Ruf”を、「結婚している状態」の「状態」や、「聖職者としての身分」の「身分」の意味ではない、と言っていますが、上記の部分を読む限り、それが「世俗職業」の意味だとは一言も言っていません。テキストから読み取られるのは、そうした「結婚している状態」や「聖職者としての身分」にある時に「福音としての召命」を受け、その「福音としての召命」がからんだ「状態」や「身分」がRufだと言っているように思えます。これはパウロが元々言っていることと大きく隔たっていないように思います。グリム辞書が「召命的な意味を含まない職業の意味ではほとんど用いられたことがなかった」と書いているのはまさに正しいと思います。

ところで、今回テキストの原典を発見できた理由ですが、それはGoogleがこの本を電子テキスト版にしてネットにアップしてくれたからです。2008年当時は色々検索語を変えて検索してもまったくヒットしませんでしたが、今回”wie man sagt, der ehestand ist dein ruff,”のGoogle検索で1番目に出てきました。それまでに、「ルター全集」のソフトウェアを買ったり、ワイマール版ルター全集のテキストが参照できるページで必死に検索を繰り返していたのが馬鹿みたいです。テクノロジーの進化というのは恐ろしいもので、自称だけのインチキ文献学者とか、インターネット上の文献をぱくって論文を書くような学者は、もう完全に淘汰されていると言っていいと思います。

ちなみに、昨年の10月31日が、ルターが95ヶ条の論題を発表し、宗教改革が始まって丁度500年でした。そういう節目の年にルターの発言の原典が見つかって感無量です。

吉川英治の「宮本武蔵」(戦前版)(風の巻)

吉川英治の「宮本武蔵」(戦前版)(風の巻)を読了。全6巻の内の第3巻です。この巻でも戦後吉川英治がGHQの検閲を恐れてせっせと削除したくなるような箇所は出てきていません。もしかすると、削除ないし書き換えたのは、非常に細かい表現の部分なのかも、と思い始めました。この巻では吉岡一門との戦いが出てきて、吉岡清十郎、吉岡伝七郎の兄弟と続けて倒し、そのため吉岡一門全部とも戦うことになります。この吉岡一門との戦いは実在の武蔵が晩年良く語っていたということで、ある程度事実なんでしょうが、伝七郎との戦いは引き分けだったとか、この戦いの後も吉岡一門が存在していたという説があります。
またこの巻では武蔵のライバルである佐々木小次郎が登場します。実は朝日新聞に連載していた時は、この巻くらいまではまるで人気がなかったそうです。主な理由は話が暗いから。ところが小次郎が出てきてから人気に火が付いたみたいです。その小次郎は武蔵が求道者タイプに描かれているのに対し、とても生意気で成功欲の強い俗物に描かれています。一説に拠れば直木三十五をモデルにしているのだとか。元々吉川英治がこの小説を書き始めたのは、「武蔵が名人かそうでないか」という直木三十五との論争がきっかけです。

吉川英治の「宮本武蔵」(戦前版)(水火の巻)

吉川英治の「宮本武蔵」(水火の巻)(全六巻中の第二巻)を読了。この巻でも特に国粋主義的な武蔵の台詞は登場しません。この小説に違和感を感じるのは、武蔵がどうやって強くなったのかがほとんど書かれていないこと。最初の巻では関ヶ原の敗残兵として登場しますが、全国をさすらいだした頃は既に一廉の腕になっており、例えば柳生の高弟4人と1人で戦っても引けを取らなくなっています。元はと言えば、武蔵は父親に武道の手ほどきを受けたぐらいで、名のある師範に就いた訳でもありません。
後の展開はいかにも大衆小説というか、お通と朱美という二人の女性が武蔵に絡み、お通が朱美に嫉妬するなど、極めて通俗的な展開です。