外国語遍歴の跡ー本棚

ここの所ゴミの日になると、少しずつ完全に物置でゴミ屋敷化している部屋の片付けを行っています。そのお陰で今まで見ることが難しくなっていた本棚の中味がかなり見通せるようになってきました。この2つの写真は外国語関係の書籍です。良く見るとポーランド語とかフィンランド語、東南アジア諸語とかもあって、この間数えた少しでも手を出したことがる外国語の数は13よりさらに増えます。また、中国語はほとんどやったつもりはないのですが、こうしてみると意外と書籍を買っています。

ヴェーバーの「中世合名会社史」オープン翻訳プロジェクト

例のmax-weber.jpのサイトでやろうと考えていることは3つあります。

(1)折原浩先生の「経済と社会」旧稿の再構成案(仮説)の順番に並べた旧稿のドイツ語テキスト(もちろん「理解社会学のカテゴリー」を頭に据えて)をこのサイトで提供する。その際に折原先生が綿密に時間をかけて調査された「前後参照指示」の飛び先にリンクを貼り誰でもその適否が簡単に確認出来るようにする。(日本語訳もこのサイトで同じように提供できればもっといいですが、それはこれからの課題です。)(言うまでもなく、ヴェーバーの著作権は死後70年である1990年で消滅しており{というか元々子供のいなかったヴェーバーにマリアンネの死後に著作権の継承者はいたのかという疑問もありますが}、そのテキストを誰がどこで公開しようと自由です。ドイツの「全集」側があれこれ理由をつけて折原説を採用しないなら、日本でやってやろうということです。)

(2)ヴェーバーの文献で日本語訳されていないものについて、「オープン翻訳プロジェクト」を立ち上げること。オープン翻訳プロジェクトとは、
   [1] 翻訳の途中経過を逐一インターネット上で公開する。
     (ドイツ語原文と日本語訳を並記する形で公開する。)
   [2] 出来上がった翻訳に対し著作権主張をせずに利用自由とする。
     (日本の法律では著作権を完全に放棄することは出来ませんが。)
   [3] 翻訳の途中で広く各種専門家に協力を呼びかける。
   [4] 翻訳中に理解できない箇所があった場合は、その箇所を明記して公開する。
   [5] 可能な限り訳者注を付ける。インターネット上のリンクも含めて。
要は、ソフトウェアにおけるフリーソフトウェア、オープンソースの考え方を学問の世界にも持ち込めないかということです。

(3)ヴェーバーの著作リスト、日本語訳リストなどのヴェーバー関係のリソースの提供。

(2)のオープン翻訳プロジェクトでまずやろうと考えているのは、ヴェーバーの博士号論文である「中世合名会社史」です。これはヴェーバーの研究のスタートとなった重要な論文ながら、何故か未だに日本語訳がありません。特に大塚久雄はこの辺りが元々専門であった筈なのに何故訳していないのかがわかりません。一説によると、文章中に大量の中世イタリア語(というより実際はほぼラテン語、書き言葉としてのイタリア語はダンテが13世紀末から14世紀初にかけて「神曲」でトスカーナ方言を用いたのが最初ですが、すぐにそれが定着した訳ではありません)やスペイン語が多数出てきて、それをきちんと訳せる人がいないから、ということでした。しかし、調べたら英訳は既に2002年に出ています。Amazonのアメリカに注文していましたが、それが今日届きました。またモール・ジーベック社の全集の内この論文を含む第1巻も既に入手済みです。それには注釈が多数付いています。こうしたものの助けを借りれば日本語訳を行うことは現時点ではそう難しくはないと思いますが、何故かやる人がいません。それで私がトライしてみようと思いました。上記の「オープン翻訳」方式であれば、誰でも翻訳に参加でき、群衆の叡智を集めて日本語訳が完成できるのではないかと思います。

「富士に立つ影」を高く評価した人達

作家や評論家の中で、白井喬二の「富士に立つ影」を評価している人って、私の知る限り、大岡昇平、大井廣介、そして小林信彦です。(他に中谷博もいますが、白井と同時代なので除きます。)
この3人には共通点があることに気がつきました。

(1)3人とも色んなジャンルのものを評価して、極めて趣味が広い。
(2)「面白いものは面白い」と言い切れる、偏見から自由であること。

特に大岡昇平は「富士に立つ影」を10回も読んだと言っていますが、彼は文壇一のディレッタントと呼ばれていたらしいです。写真はそれぞれの人が「富士に立つ影」に触れている本です。(小林信彦のは「小説世界のロビンソン」が文庫本になる時改題されたものです。)

ヴォルフガング・シュルフター+折原浩 共著の、「『経済と社会』再構成論の新展開 ーヴェーバー研究の非神話化と『全集』版のゆくえ」

ヴォルフガング・シュルフター+折原浩 共著の、「『経済と社会』再構成論の新展開 ーヴェーバー研究の非神話化と『全集』版のゆくえ」を読了。
まず、モーア・ジーベック社による、「ヴェーバー全集」での、「経済と社会」旧稿部分の刊行は2010年までですべて完了しており、その構成は以下のようになっています。

Band I/22,1: Wirtschaft und Gesellschaft. Gemeinschaften(諸ゲマインシャフト)
Hrsg. v. Wolfgang J. Mommsen in Zus.-Arb. m. Michael Meyer

Band I/22,2: Wirtschaft und Gesellschaft. Religiöse Gemeinschaften(宗教ゲマインシャフト)
Hrsg. v. Hans G. Kippenberg in Zus.-Arb. m. Petra Schilm, unter Mitw. v. Jutta Niemeier

Band I/22,3: Wirtschaft und Gesellschaft. Recht(法)
Hrsg. v. Werner Gephart u. Siegfried Hermes

Band I/22,4: Wirtschaft und Gesellschaft. Herrschaft(支配)
Hrsg. v. Edith Hanke in Zus.-Arb. m. Thomas Kroll

Band I/22,5: Wirtschaft und Gesellschaft. Die Stadt(都市)
Hrsg. v. Wilfried Nippel

上記のように、テーマ別に分けられた五分冊ですが、折原先生はこれを、「頭のない五肢体部分」として厳しく批判します。従来は「合わない頭を付けたトルソ」でしたが、確かに「合わない頭」は取り除かれたのですが、それに替わる「新しい頭」は据えられないまま、しかもヴェーバーの構成では前半に来るべき「法」(従来「法社会学」と呼ばれていたもの)の部分が第三分冊に置かれ、後に置かれるべき「宗教ゲマインシャフト」(従来「宗教社会学」)が二番目に来るなど、順番もかなり恣意的です。

この本は、「ケルン社会学・社会心理学雑誌」に発表された折原浩先生とヴォルフガング・シュルフター教授の論争を収録したものです。シュルフター教授は1990年代初め頃までは折原浩先生とほぼ同じ考えで、「理解社会学のカテゴリー」を頭とした旧稿の再構成に賛成していたのですが、その後ヴェーバーと出版社のやりとりを分析したことによる作品史的研究が進み、従来旧稿としてひとまとめにされていた論考群が1910年~11年と1913年~14年の二つの時期にそれぞれ書かれたものに分かれていたことが明らかにされています。シュルフターはなおかつ、その後半の時期については「理解社会学のカテゴリー」の「頭」としての役割がもはや失われ、ヴェーバーは「新しい頭」を書く予定だったが果たせなかった、という主張に変わります。
それに対して折原浩先生はこの作品史研究による新事実は受け入れるものの、そうであってもなお旧稿全体を統一的にまとめることをヴェーバーは放棄していなかったとし、また「理解社会学のカテゴリー」の「頭」としての役割も後半の時期になっても失われていない、と主張します。
この「論争」で注意しなければいけないのは、双方が同じ立場には立っていない、ということです。この論争の時点では、ヴェーバーの出版社のやりとりの手紙は全集の編纂陣には公開されていましたが、折原先生は見ることができませんでした。
折原先生は、旧稿が不完全なものであったことは認めますが、その再構成については「前後参照句」と「論理的なつながり」という、徹底したテキストに内在した証拠にこだわります。それに対してシュルフター教授の方は、しばしばヴェーバーと出版社のやりとりに言及してそこから構成案を推理しようとします。それは論争としてフェアでない上に、手紙の証拠としての効力を過大評価している所があり、結局の所空理を積み上げているような印象を受けます。
結果的に全集の編纂陣は折原先生の批判を採り入れず、単に原稿の素材をそのまま加工せずに提示する、という消極的な出版に留まっています。「経済と社会」の諸論考は、どういう順番で読めばいいのか、初学者には特に分かりにくいのですが、この全集に最初に触れる限り、適切な指導者無しには「理解社会学のカテゴリー」をまず読むべき、ということもわからず、今後もこれまでと同様、断片的な利用が続いてしまう、という困ったことになっています。
この問題に関する読書は、後一冊、折原先生の「日独ヴェーバー論争」(2013年)があり、これまで読むと一応最新の状況までフォローできたことになります。

折原浩先生の「『合わない頭をつけたトルソ』から『頭のない五肢体部分』へ -『マックス・ヴェーバー全集』(『経済と社会』「旧稿」該当巻)編纂の現状と問題点)」

折原浩先生の「『合わない頭をつけたトルソ』から『頭のない五肢体部分』へ -『マックス・ヴェーバー全集』(『経済と社会』「旧稿」該当巻)編纂の現状と問題点)」を読了。未来社から出ている「マックス・ヴェーバーの新世紀 変容する日本社会と認識の転回」に収録されているもので、この本は1999年11月に行われた「マックス・ヴェーバーと近代日本」というシンポジウムのまとめとして出版されたものです。
これまで折原浩先生の論文を読んで振り返ってきたように、ヴェーバーの「経済と社会」はこれまで二部構成という誤った構成が採用され、かつ二部となっている「旧稿」の部分の本来の頭であるべき「理解社会学のカテゴリー」が一緒に収録されず、一部の冒頭にある「社会学の根本概念」が「合わない頭」として付けられているという問題がありました。この二部構成ではない、ということは既にヴェーバー関係者の間で常識と化していますので、この点は問題ありません。しかしヴェーバー全集の編集者の一人であるヴォルフガング・J・モムゼンは、「理解社会学のカテゴリー」を新たな「頭」とすることに反対し、それでいて彼なりの再構成案を示すのではなく、旧稿を「執筆の順番で」五つの分巻に分けて出版に踏み切ってしまいました。これを折原先生は「頭のない五肢体部分」と評します。本来やるべきなのはヴェーバー自身が「論理的にこう構成されるべき」という順番にして出版することでしたが、残念ながらそれは成されませんでした。こうして、何の事情も知らないでこの五分冊を読んだ人は、それらがどう相互に関連しているのか、またそこに使われている概念はどこで定義されているのか、知らないままに読んで、結局断章取義に陥ることになります。ちなみにモムゼン氏は2004年に亡くなっています。結局再構成問題は、全集の刊行には間に合わず、将来の解決へと先送りされることになりました。

マックス・ヴェーバー「理解社会学のカテゴリー」(海老原明夫・中野敏男訳)

マックス・ヴェーバーの「理解社会学のカテゴリー」を学生時代以来、再読。海老原明夫・中野敏男訳の日本語訳です。訳者のお二人は、折原浩先生の「経済と社会」の精読の演習の中心的メンバーで、1984年から先生がこの演習を始めた時に、まずこの「理解社会学のカテゴリー」から精読を開始しました。従って私もその時にドイツ語の原文を解読する作業に参加していますが、しかしその内容をほとんど忘れてしまっています。今回折原浩先生の「経済と社会」再構成の作業を追いかけていく上で、この論考の内容をもう一度押さえておく必要性を感じて読み直したものです。従来この論考の日本語訳としては、林道義氏のものがありました。しかし、その日本語訳には明らかな誤訳も含まれており、今回読んだ海老原・中野訳には訳者注も解題も含まれていて、日本語訳のレベルとしてははるかに上です。しかし、とはいってもこの論考の内容は非常に理解するのが大変です。この論考では、「ゲマインシャフト行為」、「ゲゼルシャフト関係」と「ゲゼルシャフト行為」、そして「諒解(行為)、諒解(ゲマインシャフト関係)」といったカテゴリーが定義され、更にアンシュタルトと団体、という二つの社会学的な人間のグループが区別されて定義されます。「ゲマインシャフト、ゲゼルシャフト」というのは、ヴェーバーの前にテンニースの有名な論文があって、そこではゲマインシャフトが「共同社会」として、ある意味素朴な人間関係に基づく前近代的なものとして定義され、それに対してゲゼルシャフトが「利益社会」としてある意味冷たい利害関係に基づく人間関係として対立概念として定義されていました。注意しなければならないのは、ヴェーバーのゲマインシャフト、ゲゼルシャフトという言葉の使い方が、テンニースのような対立概念ではない、ということです。ヴェーバーの用語法では、まずゲマインシャフト(行為)があり、その特殊な形態としてゲゼルシャフト(行為)が定義されており、ゲマインシャフトはゲゼルシャフトを包摂する上位概念です。
こうしたヴェーバーの用語法は、非常にわかりにくく、この論考が書かれた後にヴェーバーはミュンヘン大学で学生にこのカテゴリーを講義しますが、結局テンニースの概念と混同されてほとんど理解されず、この結果ヴェーバーがカテゴリー論を見直し、後に「社会学の根本概念」という論考につながります。そこでは社会的行為、社会的関係という一般的な用語にある意味では後退し、「諒解」に関してはまったく出てこなくなります。
しかし、「経済と社会」の旧稿にはまだ「理解社会学のカテゴリー」のものが使われており、それを理解するためにはこの「理解社会学のカテゴリー」を踏まえる必要があります。
なお、ヴェーバーの有名な「現世の呪術からの解放」と言う言葉はこの「理解社会学のカテゴリー」で初めて登場します。

中山元訳マックス・ヴェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」

何と、2日連続で「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の日本語訳についてレビューを書くことになりました。
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マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」は、昭和13年に梶山力が初めて日本語に訳しました。しかし、彼は病弱(32歳で亡くなっています)で本文を訳すので力尽きてしまって、主に第二章の注釈部が未訳のまま残りました。それを戦後になって、梶山の2年上の同窓だった大塚久雄が未訳部分を訳して、昭和32年に岩波文庫から「大塚・梶山訳」として出版されました。(本当は梶山力訳、大塚久雄補訳とすべきでしたが。)それを更に昭和63年になって大塚久雄が改訳を施し、梶山力の訳した部分も大塚が大幅に見直した、という理由で「大塚久雄新訳」という形で、岩波文庫版が改版されます。これに対し、安藤英治が大塚の行為を良しとせず、梶山力の訳に、梶山が訳していなかった注釈部分を自分で訳して、梶山訳を復活させます。という経緯で、通称「プロ倫」の日本語訳はこれまで2種類あった訳です。それに対し、この中山元氏によるものが2010年に第3の日本語訳として登場します。その特長は訳者の後書きによれば「これまでの日本語訳より読みやすい」ことのようです。実際に、このAmazonの他の方のレビューを見ると「読みやすかった」という声があるので、それについては一定の成功を収めているのだろうと思います。

しかし、今この論文の新しい日本語訳を出すのであれば、
(1)これまでの日本語訳に寄せられている誤訳の指摘を調べ、同じ誤訳を引き摺らないようにする。
(2)この論文にちりばめられている膨大な専門用語について訳者も調べ、読者にはまずなじみがないようなものはできる限り訳注を載せる。
ということを心がけて欲しかったです。

(1)の誤訳という点で言えば、例えばRentenkauf(レンテンカウフ)という概念がありますが、この本のP.108に「年金売買」と訳されています。これは大塚訳、そして梶山訳に追加された安藤訳の誤訳を踏襲しています。この概念については、ウェーバーの「法社会学」にも登場し、世良晃志郎氏が「レンテ売買」と日本語訳し、なおかつ10行に及ぶ詳細な注釈を付けてくれています。(世良訳「法社会学」のP.173)そこの説明を読めば分かりますが、この「レンテ売買」とは、「地代請求権を担保にした金銭貸借」であり、教会の利子を付けた金銭貸借禁止の裏道であったので、ここのウェーバーの議論ではその内容を把握しておくことは重要です。(ちなみにドイツの第一次世界大戦後のハイパーインフレーションを収束するために考案されたレンテンマルクとは、まさに金本位の代わりに「地代請求権」を本位とする{ある意味インチキな}通貨でした。)

また、この論文の最後に出てくる「鉄の檻」も、元々パーソンズが英訳した時にiron cageと訳したことから広まった誤訳であり、それを大塚久雄が採り入れてしまったものです。ここのGehäuseは「檻」ではなく、中にいる者を保護するものでもある「殻」と訳すべきであるとされています。

(2)の訳者注については、なるほど一応訳者注が200ちょっと巻末には付いてはいます。しかし、その中身を見ると、大半は人名についての注で、それもルターやカルヴァンについてのものまで含まれています。そういうのを入れるなとは言いませんが、「注釈が必要な事項に注釈が無く、不要なものに注釈がある」というよくあることになっています。この本が出た時にはまだでしたが、現時点(2018年3月)ではドイツのジーベック社から全集の中の一巻として、この論文(ドイツ語)が改めて出されています。そこにシュルフター教授によるかなりの注釈がついている筈で、そうしたものも改訂する機会があれば取り入れて欲しいと思います。

また、気になるのは、ドイツ語や英語の部分をカタカナで表記している部分が見受けられます。これは一体何の意味があるのでしょうか?どうせ原文を読んでも分からない人にとって、発音が分かっても何の意味もないと思います。また、英単語やドイツ語単語を日本語にして、フリガナで言語の読みを振っているものがあります。たとえばP.141ではコリントI 7.20の英訳で、stateを「地位」としてステートと読みを振っています。しかしここでstateと訳される場合は明らかに「状態」の意味(パウロは召された時、結婚していなければ独身のままで、奴隷でいたなら奴隷のままで、割礼を受けていなければそのままで、留まれと勧告しています。つまり全て「状態」を変えるな、と言っています。)であり、現在の英訳聖書もほとんどconditionまたはstateで「状態」の意味に訳しています。こういう場合には勝手に日本語に直さずにそのまま原語を載せて読者の判断に任せるべきです。

以上色々厳しいことを書きましたが、この翻訳で新しい読者が増えるであろうプラスの効果については否定しません。今後改訂の機会があれば、是非とも上記のようなことを考慮していただきたいと思います。

梶山力訳・安藤英治編の「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」

先日たまたまですが、この写真の「梶山力訳 プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」が世に(再度)出た経緯を折原浩先生にお聞きしました。それで、以下のAmazonのレビューを追加しました。
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この本は、マックス・ウェーバーの名著「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を昭和13年に日本で初めて日本語訳を行った梶山力(かじやま・つとむ、旧姓田中)の業績および名訳と言われた内容を長く今後に残そうとして、ウェーバー研究者の故安藤英治氏が企画されたものです。最初に出た日本語訳では、梶山力が本文を訳すのに消耗し、第二章を中心として訳注が未訳のままとなっていました。(梶山力は病気のため32歳の若さで亡くなっています。)戦後になって、梶山と同窓だった故大塚久雄がこの注釈の部分の訳を追加し、最終的には昭和32年に岩波文庫から「梶山力・大塚久雄訳」として出版されました。(私が大学生の時に読んでいたのはこの版です。)ところが、大塚久雄は昭和63年にさらに改訂したものを「大塚新訳」として出し、梶山力が訳した部分にも自分が大幅に手を入れたから、という理由で、梶山力の名前を削ってしまいます。この大塚の行為に対し、義憤を感じたのが故安藤英治氏で、初訳者梶山力の名前を長く残すために、本書を企画されました。梶山力が訳すことが出来なかった注釈部分は全て安藤氏が訳を追加しています。さらに、単なる初訳の復刻ではなく、付加価値をつけるために、最初にこの論文が発表された1904年、05年版と、その後著者によって大幅に改訂が施された1920年版の差分が容易に判別できるようになっており、ウェーバーの研究者にとっては実に魅力的なものとなっています。さらには1906年に発表された、この論文と関連する「アメリカ合衆国における”教会”と”ゼクテ”」が付加され、さらに価値を高めています。扉の所に、「わが国におけるウェーバー研究の礎石を据えられし先達にいま後進が微力を贈る」という安藤氏の言葉が掲げられています。今はこの論文の日本語訳は、中山元氏によるものも出ていますが、初訳の価値は永遠に無くなることはないと思います。

荒川敏彦の「殻の中に住むものは誰か 『鉄の檻』的ヴェーバー像からの解放」

荒川敏彦の「殻の中に住むものは誰か 『鉄の檻』的ヴェーバー像からの解放」を読了。「現代思想」の2007年の11月増刊号の「総特集 マックス・ウェーバー」の中の一篇です。ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の最後に出てくる”ein stahlhartes Gehäuse”は、アメリカの有名な社会学者のタルコット・パーソンズがこの論文を英訳した時に、”iron cage”(鉄の檻)と訳し、この「鉄の檻」という言葉が一人歩きし、ヴェーバーが変質して(初期のプロテスタンティズムの倫理が忘れ去られて)人々を縛り付けるものとなった資本主義をペシミスティックに捉えた、と理解されるようになりました。実際、ミッツマンという人は、ヴェーバーの伝記を出す時にタイトルを「鉄の檻」にしています。また日本の大塚久雄も、この論文の日本語訳を改訳する時に、最初の翻訳者である梶山力が「外枠」と訳していたのを、わざわざ「鉄の檻」に変更しました。明らかにパーソンズの英訳に影響されています。
ところが、このパーソンズの英訳が「誤訳」で、Gehäuse(ゲホイゼ)は、一般的は「ケース」「外装」「貝殻」などの意味であり、「檻」のように中に無理矢理何かを閉じ込めるというニュアンスはなく、むしろ逆に中のものが傷つかないように守る、というニュアンスが正しいのだそうです。つまりヴェーバーはここで確立した資本主義のシステムを、(1)その中に守られて生きていくしかない(2)しかしそこから外に出て行くことは難しい(死んでしまう)という両方のニュアンスを込めている、とのことです。
これはなかなか目から鱗が落ちる感じでした。たった一語の翻訳ですが、それの誤訳でヴェーバーのイメージががらっと変わってしまいますから、怖いと思います。

折原浩先生の「ヴェーバー『経済と社会』の再構成 トルソの頭」

折原浩先生の「ヴェーバー『経済と社会』の再構成 トルソの頭」を読了。1996年に出版されたもの。1984年の冬学期から始まった東大駒場の教養学科と相関社会科学の大学院の合同演習で延々10年間をかけて、「理解社会学のカテゴリー」と「経済と社会」の旧稿部分の精読を進めた結果として発表されたものです。(私はその開始から2年半その演習に参加しています。)
「マックス・ウェーバー基礎研究序説」の時に紹介したように、「経済と社会」の従来二部とされてきた旧稿部分は、従来のように「社会学の基礎概念」をそのカテゴリー論として読むべきではなく、(直接的には「ロゴス」誌に発表され「経済と社会」とは一見無縁に見える)「理解社会学のカテゴリー」をカテゴリー論として、つまり「頭」として読むべきだという仮説を提示し、なおかつ最初の編纂者であるマリアンネ・ヴェーバーとメルヒオール・パリュイが恣意的に並べた順番を本来のあるべき順番に戻す、という作業を、「前後参照句」(「以前論じたように」とか「後で詳しく論じる」のように、テキストの他の箇所への参照を示す句)を手がかりに、その参照が「内容的に」どこにつながるのか、ということを精読を通じて地道に解明したものです。この「前後参照句」は実は最初の編纂の際に、その時の順番に合わせるために、編纂者によって書き換えられている可能性もあり、その手が加えられた箇所も同時に抜き出していかないといけません。その結果、全体で409の前後参照句の内、「旧稿の中のどこにも該当部分が無い」(が「理解社会学のカテゴリー」にその該当部分がある)、「前後の参照方向が間違っている」ものが41発見されました。その一つ一つを逐一詳細に論理的に検証し、(1)確かに「頭」として「理解社会学のカテゴリー」が必須であること(2)どうテキストを並べ替えれば順番の辻褄が合うか、という作業を徹底して行ったものです。
この作業の結果、旧稿に欠けていた「頭」が蘇り、また間違った配列も正される、「経済と社会」の再編纂問題における、画期的な進歩を達成したのが、この本に収められている論文になります。この本に入っている論文は独訳され、「ヴェーバー全集」を編集しているチームにも送られました。その中心メンバーであるシュルフター教授も、折原説には一度は賛成し、問題は解決したかと思われましたが、問題はさらにもつれます。これについてはまた次の機会に紹介します。