古関裕而の「紺碧の空」私なりの分析

古関裕而についての本は多数出ていますが、どの本もきちんと古関裕而の音楽を論じていないのが不満です。古関裕而は作曲家なのに。なので素人なりにであっても気付いたことを少しずつまとめて行きたいと思います。まずは古関裕而の最初の成功作である「紺碧の空」。

(1)まずすぐ気がつくのは前奏の素晴らしさ。大体素人が応援歌を作曲すると、単に主旋律だけとかになりがちです。また戦前のコロムビアの専属作曲家の中で、前奏まで自分で作曲していたのは古関だけみたいで、普通はそれは編曲家の仕事でした。古関の前奏は大体において見事で、例えば戦前の最大のヒットになった「露営の歌」の前奏は、別の歌詞が付けられて「さくら進軍」という名前で別のレコードになっているくらいです。
応援歌における前奏の役割は、歌い出しに向けて気分を高めるのと同時に、メロディーの一部をあらかじめ聞かせて歌う人にメロディーを思い出させるというのがありますが、この「紺碧の空」の前奏は見事に両方を満たしています。また応援歌の歌は基本がユニゾンでハモったりはしないのが普通ですが、その単調さを古関の伴奏が見事にカバーしています。
(2)調性がト長調というのも面白いですね。日本で校歌や社歌ではヘ長調が圧倒的に多いのですが、山田耕筰の校歌は高校以上向けはト長調が多いそうで、もしかするとその影響かもしれません。
(3)冒頭の部分がシューベルトの「ザグレート」の出だしに似ているという意見には既に論評したので省略します。私に言わせれば歌うものに希望を持たせるような上昇音型の繰り返しで始まっていると言えると思います。
(4)途中はダレ勝ちですが、そこを「すーぐーりーしせーいえーい とーしーはもーえーて」と、アクセント付き音符を3回重ねた後、母音を延ばしながら8分音符4つで下降音型を入れて、非常に上手く変化を付けていると思います。
(5)サビの所。西条八十が「覇者、覇者」が難しいだろうと言ったそうですが、確かにハ音は力強さに欠けますし、また「はしゃ」は音節として2.5音で短か過ぎます。これを「はーしゃはーしゃ」と長音を入れることで解決し、旋律的には「ソーファミーレラシド」という下降音型+上昇音型で主音に戻るというありがちな音型ですがこの歌詞にぴったり合った旋律で処理したのは見事と思います。

辻田真佐憲の「古関裕而の昭和史 国民を背負った作曲家」

辻田真佐憲(ちなみに辻は書籍上は一点しんにょう)の「古関裕而の昭和史 国民を背負った作曲家」を読了。これで自伝とムック本を含めて古関裕而に関する本は4冊目。この本で良いのは、戦前の古関裕而の作曲したレコードの実際の枚数を新しい資料を発見してかなりの所まで突き止めている所です。しかし、その他は既に自伝を読んでいるので、7割方自伝にあった話の焼き直しです。その際にきちんと引用部と自分が書き加えたり修正した所を明示してくれればいいのですが、境界がまったくはっきりしません。「昭和史」と題してる書物としてはそこがマイナス。イヴァン・ジャブロンカが主張しているように、歴史と物語は決して相反するものではないので、そこで手抜きをして欲しくなかったです。後は古関裕而は作曲家なのに、外面的事実ばかりで、その音楽に対する分析がほとんどないことが不満です。例えば「オリンピック・マーチ」の最後の君が代の引用について、刑部芳則氏はそれが既に戦争中の「皇軍の戦果輝く」でも使われていることを指摘しています。それに対し辻田氏のは単に古関裕而自身の「日本的な旋律をという要求に対してこれを思いついた」を引用しているだけ。
この人に限りませんが、古関の音楽が同時代の古賀政男や服部良一とどこが違うのか、具体的に分析してくれるような本が読みたいです。例えば「船頭可愛や」でも民謡調だけど、単なる民謡調に終わっていません。

「エール」の事実との違い

NHKの朝ドラ、「エール」、まあ古関裕而と金子夫妻をモデルにしたフィクションですから事実と違っていても当然ですが、音楽だけは本物の古関裕而のを使っているので、ある意味誤解を招きます。

(1)古関裕而が最初のヒット曲を出すまで
ドラマだと、最初のレコード「福島行進曲」の次が「船頭可愛や」で大ヒットとなっていますが、実際には「船頭可愛や」のヒットまで5年もかかっており、その間給料を半額に下げられています。ドラマだと音さんが交渉して給与減額は撤退させていますが。

(2)最初のヒットは「利根の舟唄」
いきなり「船頭可愛や」が大ヒットしたのではなく、昭和9年の「利根の舟唄」がまず少しヒットし、同じ作詞家で次に「船頭可愛や」が大ヒットします。

(3)「船頭可愛や」のヒットの理由
ドラマだと三浦環が吹き込んでそれが話題になり大ヒットしたとなっていますが、実際には環が吹き込んだのはヒットした後。実際は発売直後はまったく売れなかったけど、歌った音丸が全国を興業して歌ってそれが徐々に人気になったみたいです。三浦環版はあまり売れず、ヒットには貢献していません。

(4)山田耕筰と三浦環の関係
ドラマだと、山田耕筰をモデルにしている作曲家が三浦環が「船頭可愛や」を吹き込んで青盤で出すことに反対しますが、三浦環は山田耕筰より2歳年上で、芸大時代には若くして声楽の助教授になった環が山田耕筰を生徒として教えています。また世界的な名声から言っても三浦環の方が日本でしか知られていない山田耕筰よりもはるかに上。なので山田耕筰が三浦環の録音に反対したなどという事実はありません。

まあドラマに突っ込むのは野暮ですが、間違い探しも楽しいものです。

古関裕而全集(CD6枚+DVD1枚)

2009年の古関裕而生誕100周年の時の記念に出た、古関裕而全集7枚組(CD6枚+DVD1枚)を買いました。これまで既に古関裕而のCDは色々買っていてかなりダブるのですが、それでも買って良かったです。丁度今NHKの「エール」で「船頭可愛や」の話をやっていますが、この全集には、「船頭可愛や」が3種類も入っていて、一つは最初に出た音丸のもの、次が三浦環が音丸の歌うのを聴いて曲が気に入り、自分も歌いたいといって実現した録音、そして最後が何と都はるみのです。三浦環のはベルカント唱法というかコロラトゥーラというか、高音部はほとんど西洋音楽的な発声で歌っています。そして都はるみのは信じられない位上手いです。これが聴けただけでもこの全集を買って良かったです。なお「全集」となっていますが、全139曲で、5000曲以上あると言われている古関作品の3%にもなりません。白井喬二の作品集めでも思いましたが、日本はこういう大衆的な芸能をきちんと保存する仕組みが整っていません。この全集に一部入っていますが、古関裕而作曲のミュージカルや舞台音楽をきちんと全部聴いてみたいものです。それからこの全集の監修は古関裕而の息子さんの古関正裕さんですが、いわゆる軍事歌謡・軍歌はきわめて抑制していて、「英国東洋艦隊潰滅」や「比島決戦の歌」などは収録されていません。そちらによりご興味があれば「古関裕而 戦時下日本の歌~愛国の花~」を買われた方がいいと思います。部分的に収録されている舞台音楽を聴くと、古関裕而の音楽は東欧とかロシアの音楽に近い感じがします。なお、DVDはNHKのビッグショーでの「古関裕而特集」の抜粋(40分番組の内18分くらい)です。今YouTubeで全40分が見られますし、また抜粋がNHKからCDとしても出ているので、これ自体はそれほど有り難みは無かったです。

「鐘よ鳴り響け 古関裕而自伝」

「鐘よ鳴り響け 古関裕而自伝」を読了しました。読み終わってまず何が印象に残ったかというと、やはり古関裕而という作曲家は一種の天才型なのだな、ということです。作曲時に何の楽器も使わず(そもそもちゃんと練習したのがハーモニカぐらいで、音感を得たのは母親に買ってもらったオモチャのピアノです)、それでも頭の中から次から次にメロディーが湧いて来るというのは天才の証拠です。また古関はしばしばきわめて短時間で作曲しており、戦前は「英国東洋艦隊潰滅」をわずか一時間くらいで作曲していますし、戦後は菊田一夫と組んだラジオドラマで、菊田の台本がギリギリに上がっていて(当時は録音したものを放送するのではなく、すべて生放送)、ほぼその場の即興で作曲して、それも菊田の「ドアが静かに開く時の感じの音楽」といったきわめて作曲が難しいものを簡単に作曲しハモンドオルガンで演奏しています。こうした即興の才能というのは多作の作曲家には不可欠な要素で、J.S.バッハやベートーヴェンも皆そうでした。
また、古関はやはりクラシック音楽の作曲がベースだということで、古関はコロムビア時代の最初の頃、作曲家の菅原明朗に2年くらい師事してクラシック音楽の作曲を学んでいます。菅原は古関について、やはり弟子であった深井史郎よりも才能があった、と言っています。しかしある意味古関にとってクラシック音楽の作曲家に留まらなかったのは正解ではなかったかと思います。1964年の東京オリンピックの開会式で團伊玖磨の「オリンピック序曲」や黛敏郎の「オリンピック・カンパノロジー」などの「ちゃんとした」クラシック音楽の作曲家の作品も演奏されていますが、今日それを記憶している人はほぼ0でしょうし、私も聴いたことがありません。また深井史郎については、私はクラシック音楽マニアなので、ナクソスから出た日本作曲家選輯で深井史郎のCDを持っていますのでその作品を聴いたことがありますが、世間ではまったく知らない人がほとんどだと思います。それに比べると古関の作品は、古関裕而の名前は知らなくても、「六甲颪」「栄冠は君に輝く」「スポーツショー行進曲」などはむしろ知らない人を探すのが難しいくらいで、これは作曲家にとってはある意味理想に近いように思います。
後面白いのは、奥さんとのなれそめについては照れくさかったのか、「その年既に結婚していた私は」で一切紹介されていません。また、菊田一夫との対談で暴露されているのは、一時戦争中に満州から帰ってきたら、いわゆる円形脱毛症になり、いつもベレー帽をかぶって、またカツラまで作ったのだとか。戦後の古関裕而はその菊田一夫とのコンビが無かったら語れないほど、二人は一心同体で多くの素晴らしい仕事をします。菊田の書く台本にふさわしい音楽を書けるのは古関裕而だけであり、また菊田一夫の方も古関が書いた音楽に深く満足し文句を付けることはまったくありませんでした。その菊田一夫が昭和48年に66歳で亡くなると、古関の作曲はきわめて少数になってしまいます。まさしく「伯牙断琴(絶弦)」のエピソード(伯牙は春秋時代の晋の琴の名手。その友人の鍾子期は伯牙の演奏を深く理解していたが、伯牙はその鍾子期が亡くなると自分の演奏を理解してくれる人がいなくなった、と言ってそれ以降琴を弾くことを止めてしまった故事)を思わせます。
巻末にある古関の作品リストは膨大で、今入手出来るCDに収録されているのが、古関の作品のほんの一部なんだということが良く分ります。

塩田美奈子の「天然の美 大正ロマンの歌」

「七里ヶ浜の哀歌」(真白き富士の嶺{根})をちゃんと聴きたくてAmazonで検索したらこのCDが出てきたので中古で買いました。このジャケットデザインだし、入っている曲も「七里ヶ浜の哀歌」以外は、「パイノパイノパイ」とか「道頓堀行進曲」(赤い灯青い灯道頓堀の…)とかなんで、「こんなお笑い系の歌手いたっけ…」とググってみたら、この塩田美奈子というお方は、日本を代表する超正当派のソプラノ歌手でした…失礼しました。
ところで、この歌は、明治43年に逗子開成中学の生徒12人が七里ヶ浜沖にボートで漕ぎだして転覆し、12人全員が死亡したという痛ましい事故への鎮魂の曲としてトキワ松学園の創始者である三角錫子がアメリカのある賛美歌のメロディーに詞を付けたものです。とても美しく悲しい曲ですが、何故か最近これを知っている人が少ないみたいです。私は親が歌っていたので覚えました。一番と二番の歌詞は以下。六番まであります。

真白き富士の嶺、緑の江の島
仰ぎ見るも、今は涙
帰らぬ十二の雄々しきみたまに
捧げまつる、胸と心

ボートは沈みぬ、千尋の海原
風も浪も小さき腕に
力も尽き果て、呼ぶ名は父母
恨みは深し、七里ヶ浜辺

古関裕而の「紺碧の空」とシューベルトの「ザ・グレート」

今週の「エール」は古関裕而ならぬ古山裕一が早稲田の応援歌の「紺碧の空」を作曲する筈でした。早稲田の応援団長のエピソードは、あれは「栄冠は君に輝く」の作詞者の加賀大介さんの逸話のパクリですね。(加賀大介さんは野球大好き少年でしたが、野球の練習中に大怪我をし、右足の膝下から切断になり野球が出来なくなります。「栄冠は君に輝く」の歌詞には、自分が出来なくなった野球を力一杯球児たちにやって欲しいという気持ちが込められていると思います。)
ところで、その「紺碧の空」について、歌い出しがシューベルトのザ・グレート(交響曲第8番ハ長調)に似ているという人がいるとWikipediaに書いてあったので、楽譜を比べてみました。確かに似ているけど、ごくありふれた上昇音型が2回続くだけで、この程度で類似を言われてもと思います。ちなみに紺碧の空はト長調、ザ・グレートはハ長調で、紺碧の空が「ドーレミーソーラシド」、ザグレートは「ドーレミーラーシド」で微妙に違います。後昭和1桁の時代では、SPでこの長い交響曲を聴く人がいたとは思えませんし、コンサートで聴かない限り古関がこの曲を知っていたとも思えません。また前奏を含めて聞いて当然のことながら「紺碧の空」は100%前向きな応援歌であり、ザ・グレートは主題全体である種の郷愁を感じる、どこかに少し寂しさのようなものが含まれている曲想で二つはまるで違います。

ちあきなおみの「矢切の渡し」

「ちあきなおみ」をちゃんと聴いてみたくなって、12曲入りベスト盤みたいなのを買ったのですが、その中に「矢切の渡し」が入っていました。これって当然細川たかしので知っていて、ちあきなおみがカバーしているのかと思ったら、何と最初にレコードにしたのはちあきなおみでした!(しかも最初はB面)何でも梅沢富美男が自分のお芝居の中でこのちあきなおみのを流している内に人気が出て、ちあきがA面で再度出し直し、その後細川たかしを含む数人がカバーした、というのが真相のようです。そして作曲者の船村徹によると、細川たかしのは原曲の難しい部分をごまかして歌っていて、ちあきなおみはきちんと正しく歌っているそうです。しかし細川たかしの方が普通の人にはカラオケで歌いやすいため、細川たかしのが大ヒットしたと言っています。しかも、ちあきなおみのはちゃんと櫓舟ですが、細川たかしはモーターボートだと言っています。これは何のことを言っているのか、楽譜を買って両方を聴き比べてみたのですが、全体に「タタタン、タッタ」のリズムが櫓を漕ぐ舟のイメージを出しており、メロディーもそのリズムに合わせています。ちあきはそれを活かすために正しく歌っていますが、細川たかしのはしばしば自分流に音を伸ばして、いわば「がなって」いて雰囲気をぶち壊しているんだと思います。私は細川たかしのこの曲はレコード大賞を取ったのは知っていますが、正直あまり好きではありませんでした。しかしちあきなおみのを聴いて本当に好きになりました。

他にも楽譜を見ながら聞くと色々面白いです。

(1)「矢切の渡し」は「タタタン、タッタ」のリズムで櫓舟のイメージを出しています。これに対し古関裕而の「船頭可愛や」と比べてみると、そちらは「ドンブラコッコ」のリズムでこれは伝統的なイメージのリズムでしょうね。西洋音楽にもバルカロールという舟歌のジャンルがあります。
(2)全体はト長調(G)ですが、女性の台詞が長調なのに、男性の台詞は短調で書かれて、聴いた人には「もしかするとこの男性は女性をどこかで捨てるのではないか」とちょっと思わせます。
(3)同じく長調と短調の対比は「親の心にそむいて」が短調で、「恋に生きたい二人です」が長調でこれも対照的。
(4)「矢切の渡し」の「のーわたーしー」の所がミソソミレミとちょっとトリルみたいな音型で、渡し船の行ったり来たりを表現しているんじゃないかと思います。

以上のこの曲の特長をよく出しているのは圧倒的にちあきなおみの方です。細川たかしのは、自分風スタイルでニュアンスが飛んでしまっています。
(2)の男性の台詞は、ちあきなおみのはちょっと本当にこいつ大丈夫か、信用していいのか、という感じの酷薄さをうまく出しています。

「露営の歌」の歌詞について

古関裕而の戦前の大ヒット曲の「露営の歌」をCDで聴いて意外だったのは、「進軍ラッパ聴く度に、瞼に浮かぶ母の顔」だと思っていたのが、CDは「瞼に浮かぶ旗の波」になっていたことです。「旗の波」というのは出征兵士の見送りで、人々が振った日の丸の波のことでしょうが、いかにも建て前的な歌詞です。2番に父親が出て来て、「死んで帰れと励まされ」と極めて建て前的なことを言います。それと対照的にするのであればここは「母の顔」にする方がはるかに合います。(今も当時も、父親は子供に対し建て前的・論理的に接し、母親は本音で感情的に接するという傾向があるように思います。)もしかすると最初は「母の顔」だったのを、軍部から軟弱だとか何だかの圧力がかかってか、あるいは誰かが軍部に対して「忖度」して「旗の波」に変えられたんじゃないかと思います。しかし実際に歌った人は自分の気持ちにピンと来る自然な歌詞である「母の顔」に戻して歌ったのではないかと推測します。Webで検索してみても「母の顔」で記憶している人がかなりいました。また、よく考えたら長谷川伸の有名な戯曲の「瞼の母」があり、演劇や映画になったのは昭和6年で、瞼に浮かぶのは母、というイメージは人口に膾炙していた筈です。また、この曲はレコードやラジオで広まったというより、人から人へ自然と広まったようなことがあったのではないかと思います。ちなみにここによれば、歌い出しも「勝ってくるぞ」ではなく「行ってくるぞ」だったみたいです。

下関市の市立小学校の校歌の作曲者

私は出身の小学校は下関市立文関小学校(正確には6年生の10月で転校で卒業はしていません)ですが、その校歌を作曲したのは「海ゆかば」「海道東征」の信時潔です。それは子供の時から知っていましたが、文関小学校の校区に隣接する名池(めいち)小学校と同じ市内の清末(きよすえ)小学校の校歌を作曲したのは、何と今「エール」で志村けんが演じている山田耕筰でした。
https://www.kanmonnote.com/school-song/#i-2
http://kam.edu.city.shimonoseki.yamaguchi.jp/…/%E6%A0%A1%E…/

うーん、何か下関市すげー、って感じです。