小泉志津男の「日本バレーボール五輪秘話 東洋の魔女伝説」

私の中の東洋の魔女と大松監督マイブームはまだまだ続いています。小泉志津男の「日本バレーボール五輪秘話 東洋の魔女伝説」を読了しました。このシリーズは全5巻で、「バルセロナへの挑戦」で終わっています。東洋の魔女と大松監督について調べれば調べるほど、本当の意味のすごさが分かってきて、素直に頭が下がります。この本で初めて知ったのは、オリンピックの前年に日本バレーボール協会の中に「反ニチボー貝塚」みたいな動きがあり、またニチボーチームは主力の6人の時は素晴らしい結果を出すけど、控えの選手になるとガクンとレベルが落ちるということで、ニチボーチーム単独の日本代表ではなく、混成チームにすべきではないかという意見が出ます。それで作られたのが一般選抜チームで、ニチボーのライバルである倉紡、鐘紡、ヤシカなどのチームの選手を集めたものです。それでこのいわば二軍チームが、オリンピックの前年の1963年に何とソ連チームを2度も破る、という快挙を果たします。このチームの監督は四天王寺高校の監督で後に大松監督の後を継いでニチボーの監督になった小島孝治です。(ニチボーチームの谷田、松村、磯辺、松村選手は四天王寺高校出身で元々小島監督が鍛えた選手です。)そこでニチボーと一般選抜チームを対決させるという話に当然なり、二度対戦が実現します。一度目は一般選抜チームがニチボーに食い下がり、敗れはしましたが2-3の結果を出します。これでさらに混成チーム論が盛り上がり、マスコミ曰くの「巌流島の対決」と呼ばれた二度目の対決が1964年3月21日に行われます。しかし、結果はニチボーチームの3-0の完勝でした。大松監督曰くは、「一度目はソ連が偵察しているのに全力を見せる必要がないということで、前日に8時間の猛練習をして疲れていただけ。二度目が実力。」ということでした。大松監督は1962年の時の世界選手権では4-6でソ連に負けていたのを精神力で勝ったけど、東京オリンピックでは7-3で圧倒して勝つ、と言っていましたが、まさしくそれを実現しており、ソ連のチームはニチボーチームが3-0で勝つチームにさえ負けたことになります。
後は面白かったのは男子の東京オリンピックでの活躍。1961年の欧州遠征で女子が22連勝し「東洋の魔女」と呼ばれるようになったのに対し、男子は2勝21敗という屈辱的な成績に終わります。モスクワから地方に移動しての試合では女子が飛行機で移動したのに対し、男子は汽車で往復させられます。この最低の状態からしかし建て直し、1963年にはソ連チームを2度破り「男女ともに金メダルか」という期待が高まります。そして本番の東京オリンピックでは、緊張したのか緒戦の韓国戦こそ勝ちましたが、その後ハンガリーとチェコに惨敗します。この時点で早くも自力の金メダルは無くなり、世間から「やっぱり男子はダメだ」と見放されます。しかしここから男子は奮起し、何とこの後ソ連を3-1で下し6連勝で、7勝2敗となり、銅メダルを獲得します。1961年の惨敗からよくもここまで持っていったものでこれも「奇跡」と言っても良いでしょうが、マスコミは女子の活躍一色で男子は完全に無視されます。この時の屈辱がメキシコの銀、ミュンヘンでの金につながります。