河西昌枝、宮本恵美子、谷田絹子、半田百合子、松村好子、磯辺サタ、鈴木恵美子 共著の「思い出の回転レシーブ 大松先生ありがとう」

東洋の魔女と鬼の大松のマイブームはまだまだ続いています。河西昌枝、宮本恵美子、谷田絹子、半田百合子、松村好子、磯辺サタ、鈴木恵美子の7人の共著の「思い出の回転レシーブ 大松先生ありがとう」を読了しました。最初の6人は言うまでもなく、東京オリンピックの時のレギュラーです。最後の鈴木さんはチームのマネージャーとして食事を始めとしてレギュラーの面倒を見た人です。
この本も一番私を泣かせてくれたのは最年少の磯辺サタさんです。大松監督と他のチームのメンバーの磯辺さんのイメージは「親に早く死に別れたせいか人に甘えることをしない」「無口で黙々とやる」というものでした。ところが本人の手記では「私は甘えん坊」「私は話好き」とあって、これには大松監督も意外だったようです。実は増尾選手が抜けて磯辺選手が入ったばかりの頃は、「5人の方がマシ」「ニチボーの穴は磯辺選手」とさんざんの言われようだったそうです。それで磯辺選手は何とか早くチームの他のメンバーと対等にプレー出来るようにと何も喋らずにとにかく大松監督の練習について行くことを最重視し、また最年少の自分が先輩のお姉さん選手に甘えるのもチームの和を乱すと思って控えていたそうです。そして遠征などで高校の先輩である谷田選手と一緒の部屋に泊まったとき、磯辺選手は寝言で「ソンナニ、オコランデモ、イイデショウ。」とか「ヤッテマスヨ。」などと言っていたそうです。そして一人で押し入れの中で泣いていたりもしたそうです。谷田選手は声をかけるのもためらわれてそっと見守っていたそうです。そんな磯辺選手が東京オリンピックの1年前には一人前になり、本番でも6本のキル(相手のブロックを抜く鋭いアタックのこと)を決めています。それから磯辺選手が高校に行く話も、大松監督の本では本人からそう言って来た、となっていましたが、磯辺選手自身の手記では大松監督が「お前高校に行ってみないか」と勧めてくれた、となっています。どちらが本当か分かりませんが、どちらでもいいと思います。大松監督は磯辺選手より23歳年上なので、実の父娘でもおかしくないですが、二人の間には本当の親子より強い絆があったということだと思います。それから磯辺選手に給料を無駄遣いしないで貯金するように言ったのは主将の河西選手だとのことです。この辺り本当に「大松一家」という感じでほっこりします。