松平康隆監督の「負けてたまるか!」

松平康隆監督の「負けてたまるか!」を読みました。大松博文監督と東洋の魔女は一旦ケリを付けて、次はモントリオールオリンピックの男子バレーということでこれを読みました。松平監督は私に言わせればカリスマそのもので、小学5年生の時のまさにミュンヘンオリンピックの年に4月から8月まで放送された「ミュンヘンへの道」をドキドキしながら観ていた一人です。松平康隆監督は大松博文監督と比較してみると分かりやすいかもしれません。

 

 

二人の共通点
(1)飽くなき勝利への執念
(2)選手にハードトレーニングを強いる
(3)世界で初めての技の開発
——————–大松博文監督:
—————————-回転レシーブ
—————————-各種変化球サーブ、特に「木の葉落とし」
—————————-移動攻撃
——————–松平康隆監督:
—————————-Bクイック、Cクイック、Dクイック、ダブルBクイック
—————————-時間差攻撃
—————————-一人時間差攻撃
—————————-フライングレシーブ

特に大松博文監督の特性
(1)大家族的なチーム作り、バレー以外でも選手の面倒をよく見る
(2)レギュラーの6人だけを徹底的に鍛える
(3)率先垂範で自らボールを選手に投げ続ける
(4)日紡という会社のチームに対するこだわり

特に松平康隆監督の特性
(1)選手の育成や試合の時の指示出しだけでなく、広報、必要な資金集め、協会内部の政治的な調整まで一人で兼務。男子バレーの人気を高めることに成功。
(2)徹底した相手チームの研究。特にミュンヘンオリンピックの時の最強の敵東ドイツについては、監督の少年時代の通信簿まで入手して性格を分析。その結果ミスを嫌う石橋を叩いて渡る人であることが分かり、相手の予測できない変則プレーで対抗。 (3)選手を単なるバレー選手としてしてだけではなく、国際人として養成。選手に英語や国際政治まで学ばせている。
(4)特定の会社にこだわらず、全日本のベストを集めたチーム作り。
(5)斎藤トレーナーという専用トレーナーの採用。池田コーチも含め、トロイカ体制での選手の指導。

6人制の男子バレーは実はどん底からスタートしました。9人制からの移行が遅れ、1961年の欧州遠征では、ニチボー貝塚が22連勝(ソ連チーム6チームを含む)という偉大な成績を上げて「東洋から来た魔法使い」「太平洋の台風」(後に「東洋の魔女」)と呼ばれたのに対し、男子は2勝21敗で「世界のクズ」と呼ばれます。ソ連での試合では女子が飛行機で移動したのに対し、男子は列車で移動しなおかつ飛行機に載らない女子の荷物を運ばされるという屈辱の体験をします。それがわずか2年後の1963年にはまがりなりにもソ連チームに勝てるようになり、東京オリンピックでも活躍が期待されましたが、出だしで躓き、結果は優勝チームのソ連を破ったものの銅メダルに終わります。松平監督は、市川崑の記録映画「東京オリンピック」の撮影に協力しますが、出来上がった映画には銅メダルの男子バレーのシーンはまったくありませんでした。ここから松平監督の「今に見ていろ」という執念のチーム作りが始まります。そして横田・森田・大古という193cmの大形の大砲を揃えることに成功し、なおかつその3人を含むチーム全員に逆立ちや宙返りといったアクロバットじみたことまでやらせます。(当時「松平サーカス」と言われました。)結果、メキシコで銀メダル、そしてミュンヘンでついに金メダルを獲得します。 松平康隆はバレーの監督をやっていなかったら、ビジネスマンとしても大きな成功を収めた人だと思います。また大松博文監督が引退後参議院議員に当選しますが、政治家としての才能があるのはむしろ松平康隆監督の方だと思います。