SFの古典的名作について

SFの古典的名作を実はあまり読んでいなくて、アーサー・クラークの「幼年期の終わり」を読んだのは光文社から新訳が出たのがきっかけですし、フレドリック・ブラウンの「火星人ゴー・ホーム」と「発狂した宇宙」を読んだのはつい最近で、「デューン」に至っては先日です。それで思うんですけど、これらのSFの名作って、純粋SF的な科学的要素だけでなく、多くの場合何か別の要素がミックスされて作られているケースが多いような気がします。たとえば「幼年期の終わり」はイギリス人が大好きなオカルトとSFを混ぜ合わせたものです。(アーサー・クラークは超常現象大好き人間として知られています。)またフレドリック・ブラウンの「火星人ゴー・ホーム」は一見火星人というSF的な素材を使いながら、そこで論じられているのは哲学の唯我論(私が考える故に世界は存在する、という中二病的な考え方。)です。「デューン」もSFに色んな宗教的要素を混ぜ合わせたもののように思います。
別にそういうのが悪いとは言いませんが、私としてはジェームズ・パトリック・ホーガンの三部作の最初の作品である「星を継ぐもの」みたいな純SFが好きです。

NHK杯戦囲碁 山城宏9段 対 蘇耀国8段

本日のNHK杯戦の囲碁は黒番が山城宏9段、白番が蘇耀国8段の対戦です。勝った方が3回戦進出で井山裕太7冠王と対戦します。布石は4手目で白が左下隅を目外しに構えたのがちょっと珍しかったですが、蘇8段は研究済みの布石のようです。黒が左下隅に小目にかかったのに白は右下隅にかかり返しました。右下隅でツケヒキの定石となり白は先手で切り上げ、左下隅のハサミに回りました。この展開は蘇8段が良く研究しているようで、結局白が下辺と左辺の両方を打った形になり白が打ち回していました。ただ局後の感想で左辺を4間に開いたのが開きすぎで、後で黒に打ち込まれ局面が紛糾しました。黒は左辺打ち込みの後で左上隅にも手を付けていき結局劫になりました。劫争いの最中に白は下辺から左下隅に利かしていきましたが、ここで黒が受けを間違え、単にへこんで受けるべき所を余分なハネツギを打ってしまいました。このハネツギを打っても尚、左下隅には劫にする手があり、結局へこむ事になりました。それ以上に罪が大きかったのは中央の切断した白に下辺の白に渡ってつながる手が残ったことです。劫争いは結局白が勝ち、左上隅から左辺を大きく地にしました。黒の劫の代償は小さくここで形勢は白に大きく傾きました。黒は中央に尚眼のはっきりしない石を抱えていましたが、その石から中央の白にツケノビて、上辺と右辺のどちらかを大きく囲う手を見合いにしました。白は強く戦わず安全に打ったので、ここで黒はある程度盛り返しました。しかし白も上辺に手を付けそこで活きましたので、やはり形勢は白有利で、盤面でも白地が多い形勢でした。最後右辺に侵入した白からうまい寄せを打たれ、黒はおそらく投げ場を求めて抵抗しましたが上手くいかず、ここで黒の投了となりました。

尾崎秀樹の「大衆文芸地図 虚構の中にみる夢と真実」

尾崎秀樹の「大衆文芸地図 虚構の中にみる夢と真実」を読了。昭和44年に、数多くの大衆小説を復刊させた桃源社から出たもの。大衆小説作家19人を取り上げた作家論です。もちろん白井喬二は含まれていますが、何故か国枝史郎はありません。尾崎秀樹は白井喬二の葬儀の時に弔辞を述べていますが、その中で言及されている白井の戦後の作品は、短篇の「怪盗マノレスク」と「明治女学校図」だけです。私はこの選択にとても不満があります。白井の戦後の短篇の中でこの2作は大した作品ではありません。短篇の中から選ぶのなら、「坂田金時」「石川五右衛門」「助六」なんかの方が作品としてはずっと上です。それに「国を愛すされど女も」や「天海僧正」のような長篇作品もまったく無視されているのも不満です。そういう訳で私は尾崎秀樹が白井の戦後作品を短篇以外はほとんど読んでいなかったのではないかという疑いを持っていましたが、この本では「捕物にっぽん志」や「鳴滝日記」などの作品が紹介されていますから、まったく読んでいなかった訳ではないようです。
他には林不忘(長谷川海太郎、牧逸馬、谷譲次)についてはあまり情報を持っていなかったので、それを補足できて有用でした。

尾崎秀樹の「大衆文学」

尾崎秀樹(おざき・ほっき)の「大衆文学」を読了。1964年に紀伊國屋書店から出たもので、2007年の復刻版です。この人はゾルゲ事件の尾崎秀実の異母弟です。その関係の著作も複数あります。大衆文学の評論については、戦前は中谷博、戦後は尾崎秀樹がまず第一人者として挙げられると思います。この本では「大衆文学」が新講談→読物文芸→大衆文芸→大衆文学と次第に名前を変えていく過程が説明されていてなるほどと思いました。また、江戸時代の講談が明治での民権講談や社会講談へそして新講談から大衆文学へという説明もなるほどでした。また、巻末の文献表がかなり詳細で有用です。

クラウディオ・アバドの2回目のマーラー交響曲全集

クラウディオ・アバドの2回目のマーラー交響曲全集を聴きました。「全集」と書きましたが、最初から全集にする意図があったのではなく、ライブ録音を集めたものだと思います。オケもベルリンフィルだけではなく、ルツェルン祝祭管弦楽団が混じっています。この全集に収められている録音では既に4番や7番は持っているのですが、まとめて聴きたくて買いました。学生時代に最初にマーラーを聴きだした頃、アバドの最初の全集が進行中でした。私にとっては、マーラーの基準はこのアバドの最初の録音です。それはクレンペラー、ワルター、バーンスタインといったマーラー指揮者の第一世代とも言える指揮者のものとは明らかに一線を画していて、どろどろとした情念とは無縁のかなり知的なマーラーでした。今2回目の全集を聴いて、基本的なアプローチは1回目と変わってないように思いますが、より柔軟さが加わって表現も自在になったように思います。もうこれで10種類以上のマーラーの交響曲全集を所有していて、今はマイケル・ティルソン・トーマスのがお気に入りですが、やっぱりアバドのも好きです。

フランク・ハーバートの「デューン 砂の惑星」(下)

フランク・ハーバートの「デューン 砂の惑星」(下)を読了。2/3くらいまで読んで、「後1/3でどんなことが起こるのだろう」とわくわくして待っていたら、実は物語は既に終わっていて、残りの1/3は用語集とかのオマケでした…残念ながらEigoxの先生が言っていた「どんでん返し」は私には不発でした。また、本文で十分に説明仕切れなかったことを、オマケで解説するのは小説としてのルールに反しているように思います。
この作品は作品世界の構築という点ではこの上もなく見事だと思いますが、ストーリーテリングに関しては結構課題の多い作品のように思います。白井喬二の「富士に立つ影」との対比で言うと、アトレイデス家とハルコンネン家が対立して、視点は常にアトレイデス家の方からで、一方的にハルコンネン家が悪役として書かれます。しかし(上)の終わりで、実はレベッカとポールがハルコンネン家の血を引いていることも描かれ、この先二つの家の対立が結局どう終結するのか興味をもって読み進めました。しかし残念ながら最後までハルコンネン家は悪役のままで、ハルコンネン男爵は自分の孫娘であるアリアにあっさり殺されます。アリアはその殺害に何の葛藤も持ちません。この点は「富士に立つ影」の方がはるかに優れていて、熊木家と佐藤家の両方の視点から物語が描かれ、初代での悪役と良役は二代目で逆転し、あまつさえ二代目で双方の息子と娘が恋仲になって子供を孕むという複雑な展開になります。
また、この「デューン」では色々な宗教、キリスト教、イスラム教、仏教、儒教までが登場するのですが、そのほとんどはキリスト教視点という感じがしました。後、エヴァンゲリオンの「人類補完計画」はこの作品でのベネ・ゲセリットの人類血統改良計画のパクリなのだなと思いました。各聖典を統一するという話がオマケに出てきますが、実際の所は、キリスト教の中で聖書の翻訳を統一しようとする試み(エキュメニズムというキリスト教統一運動の中から出てきたもの)ですらなかなかうまくいかなくて、強行にそれに反対する一派がいるくらいです。(昔J社で「キリスト教用語」の辞書を作ったことがありますが、その時に人名の固有名詞には新共同訳のを使ったんですが、それに対して文句を言ってきた福音主義派の牧師さんがいました。)
デューンは作者自身が書いたのは後5作あるんですが、続けて読むかどうかはちょっと考えます。

フランク・ハーバートの「デューン 砂の惑星」(中)

フランク・ハーバートの「デューン 砂の惑星」の中巻を読了。この巻では砂漠の中に逃げ込んだポールとレベッカの親子が砂漠の民のフレメンと合流して一緒に暮らし始めます。ポールがフレメンから名前を与えられたシーンで、「これでおまえは、イフワーン・ベドウィー --- われらの兄弟となった」というセリフが出てきます。鈍感な私も、ここでやっとフレメンのモデルが実在の砂漠の民ベドウィンであることに気がつきました。(「ベドウィー」はアラビア語で、「ベドウィン」の元になっている単語。「イフワーン」はアラビア語で「同胞」の意味。)またこの作品が出版されたのは1965年ですが、1962年に公開されたデイヴィッド・リーンのあまりにも有名な映画「アラビアのロレンス」の影響も感じました。ついでに言うと、ハルコンネン男爵の名前は「ウラジーミル」でこれにはソ連のイメージが若干投影されているのかも。Eigoxの先生によると、作者は作家になる前はジャーナリストで中東に興味を持って色々調べていたとのことです。しかし、「聖戦 ジハード」という言葉もそのまま登場するので、どうしてもISISとかを想像してしまいます。Wikipediaによると、この小説はすぐに読者に受け入れられた訳ではなく、いくつもの出版社に出版を断られた後にようやく陽の目を見た作品のようですが、もしこの作品が「今の」アメリカで出版されていたら、更に困難があったのではないかと想像します。中巻はポールとリエト・カインズの娘のチェイニーが愛し合うようになる場面で終わります。Eigoxの先生によれば最終巻でまた大きなどんでん返しがあるとのことですので、期待しながら続きを読みます。

フランク・ハーバートの「デューン 砂の惑星」(上)

フランク・ハーバートの「デューン 砂の惑星」の三分冊の内の上巻を読了。この作品の日本語訳は1972年から73年にかけてハヤカワ文庫で四分冊として出ていたのが、昨年の2016年に新訳が出たもの。そういう意味では丁度いい時期に読み始めたと思います。ヒューゴー賞とネビュラ賞というSFの世界での二大賞を受賞した作品。きっかけはEigoxのレッスンで相手の先生に白井喬二の「富士に立つ影」のストーリーを紹介したら、この作品と似ているのではないかと言われたことです。読み始めて、二つの作品の共通点はすぐわかり、「富士に立つ影」では熊木家と佐藤家の対立が描かれますが、この作品ではアトレイデス家とハルコンネン家の対立が描かれます。この上巻の途中までは、「「富士に立つ影」ではどちらかが善でどちらかが悪として決めつけられている訳ではなく、両方の家の視点で物語が描かれている」ことが違うのではないかと思いますが、この上巻の最後になって、アストレイデス家のレト公爵が医師ユエの裏切りにより命を落とし、その愛妾レディ・ジェシカと息子のポールも命の危険に晒されますが、その危険を何とか逃れたポールは、未来を見通す能力に目覚め、実は両家の対立がそんな単純なものではないことが読者に明かされます。まだ1/3ですが、この先どうなるかが楽しみです。

NHK杯戦囲碁 伊田篤史8段 対 三谷哲也7段

本日のNHK杯の囲碁は黒番が伊田篤史8段、白番が三谷哲也7段の対戦です。まずは黒番の伊田8段が大高目の連打という意欲的な布石でそれに対して白の三谷7段が4手目で空き隅を放置して右下隅の星上に入っていきました。黒はこの白に付けていき、いきなりここで部分的な折衝が始まりました。白は結局隅に4目の地を持ち、黒は右辺と下辺に展開し、白は中央に棒石を持って、この白が厚みとして働くか攻めの対象になるかが焦点になりました。伊田8段は下辺からこの白の棒石を煽りましたが三谷7段は3間に飛んである意味頑張って受けました。結果的にはこれが薄く、伊田8段が右上隅と上辺で充分準備してからこの白の三間トビに対してコスミから切りを決行しました。この結果白は分断され、2子をほとんど取られてしまい黒が厚くなりました。黒は更にケイマに煽って切断した白を攻めましたが、これが打ち過ぎで白はその間に左辺を打って黒1子を飲み込み、地合では白のリードになりました。その後黒は白の大石への攻めを継続しましたが下辺の黒に切りを入れたのがうまく、黒は打つ手に窮しました。黒はそこで下辺は手抜きして、白の大石の眼を取る手を打ちました。黒は本気で白の大石を取りに行きましたが、黒の中央の包囲網が薄く、結局白の反撃にあって左辺の白へ連絡されてしまいました。結局黒は下辺に手を戻したのですが、白から黒の2子を取る手があり、ここでは白が優勢になったと思われました。しかし伊田8段はその2子を取った白の全体を切断して攻める手を見ていました。黒の中央で白2子を取った一段も眼が一眼しかなく薄く、下辺の綾もあって切断された白が活きるのは容易かと思われましたが、ここで伊田8段は解説の結城9段も見落としていた妙手で中央の黒を連絡し、結局中央の白の一団は攻め合いではありますが取られてしまいました。さすがにこの白が取られると形勢ははっきり黒良しになりました。最後は左上隅も黒が手を付け白地を大きく削減し、白の投了となりました。

天頂の囲碁7との九路盤互先黒番での3局目


天頂の囲碁7との九路盤互先黒番での3局目。布石を変えてみました。5と付けて6とはねられた時7と突っ張る私独特の打ち方です。何と天頂の囲碁7は8と当てた後、10とここを継いで来ました。結果、白2目半勝ちでかなりいい勝負になりました。今の所これが本当にプロに勝ったレベルなのか?という感じです。