NHK杯戦囲碁 一力遼8段 対 黄翊祖8段

昨日の(昨日はオペラ鑑賞だったので、録画で視聴)NHK杯戦の囲碁は黒番が一力遼8段、白番が黄翊祖8段の対戦でした。布石は黒が2隅小目、白が2隅星でした。左下隅で一力8段は白の星に対し、いきなり三々に入りました。以前買ったアルファ碁に関する本の中では「絶対に私はいきなり三々に入らない」と言っていましたが、このNHK杯戦でも既に2度目で、完全に意見を変えたようです。左上隅と上辺の折衝で、白は黒を無理矢理切り離し、また黒も上辺の白を押さえていって、いきなり攻め合いみたいな格好になりましたが、結局白が黒の4子を取込み、かなりの大きさの地を持って治まりました。黒は厚くはなりましたが、締め付けとかが利いた訳ではなく、この別れは白が打ちやすかったかと思います。黒がこの厚みを活かして右辺の白に迫った時、白がその黒に付けたのが若干問題手で、黒に跳ね出されて切断され、中央の浮いた白は黒の厚みを活かしての攻めの格好のターゲットになった感じです。しかし、黒が厳しく攻めるというより手厚く打った関係で、白は黒模様の中で居直り、それなりに地をもって治まった感じになったので、ここでも白がポイントを上げたと思います。そうなると黒は左辺の白を分断し、なおかつ下辺を拡げることになりますが、白は下辺についてもうまく侵入し、また左辺も大きな損をしないでしのぎました。これで下辺を他に影響が出ない形でしのげば白の完勝譜でしたが、上方の白と下辺の白の間で、ちょっと白に疑問手があり、下辺と上方の白を見合いにするような打ち方を黒にされてしまいました。白は下辺を優先したのですが、今度は一度は地をもって治まったかに見えた上方の白に手が生じ、結局この白が死んでしまいました。こうなると黒地が膨大で、さすがの白の好局もフイになりました。一力遼8段はしのぐが得意で攻めて相手の石を取るのは、相手のしのぐ手がすべて見えてしまって不得意だそうです。しかし本局ではこれしかないというわずかな勝ちパターンを見事に捉えて勝利しました。

厚労省の役人による手抜きの統計調査について

今騒がれている厚労省の手抜きの統計調査について。
私はまったく不思議に思いません。15年以上前から厚労省の役人がろくでもない人達だというのは認識していました。
丁度21世紀になったばかりの頃、私はソフトウェア会社にいましたが、そこのワープロソフトが官公庁で広く使われていました。そして官公庁で文書データベースを作ることになり、そのためにワープロでSGML(Standard Generalized Markup Language {標準一般化マークアップ言語}、WebのHTMLはSGMLの一つのアプリケーションです、今はSGMLは複雑すぎて欠点が多いので、XMLに変わりました)文書を作る機能を開発するよう依頼を受け、何度か厚労省(その当時は厚生省)の役人と打合せを行いました。
その官公庁用の文書データベースの目的が何なのかと聞いた時に、「何かやばい事が起きた時にすぐに関連文書を取り出して処分するため」といけしゃあしゃあと言っていた人達ですから。
今回の件も間違いなく証拠隠滅をやっていると思います。

ワーグナーのタンホイザーの話の矛盾点

昨日の新国立劇場でのタンホイザー公演は非常に良かったですが、その感想は別途アップします。
公演中に思っていたのは、ワーグナーが作ったお話の矛盾点です。このオペラの中に「ヴァルトブルク城の歌合戦」というのが出てきて、これは史的事実で、またヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデという、ドイツの吟遊詩人(ミンネゼンガー)でもっとも有名な詩人がこの歌合戦に参加したのも事実です。
問題は、フォーゲルヴァイデの立ち位置で、オペラではハインリヒ(タンホイザー)が肉体的愛(エロス)を精神的愛(アガペー)よりも上にしたのに対し、フォーゲルヴァイデは精神的な愛を最上位とする詩人としてハインリッヒを非難する側として登場します。これは、ワーグナーのフェイク歴史といってしまえばそれまでですが、事実とはまるで逆です。フォーゲルヴァイデこそ、ハインリヒと同じ肉体的愛を訴えた詩人でした。
フォーゲルヴァイデの代表的な詩は、ドイツ人ならおそらく誰でも知っている「ウンダー・デア・リンデン(菩提樹の樹の下で)」です。この詩の内容は、どこにでもいる庶民の若い娘が、彼との性愛の楽しみ(菩提樹の樹の下で彼とエッチした)を歌っているものです。ついでに言うと、この詩の中に「彼と1000回もキスしたの」というのが出てきます。これは、明らかに古代ローマの詩人カトゥルスの有名な詩(「カルミナ」第5)のもじり(本歌取り)です。このカトゥルスの詩は、愛人レスビア(当時の高級娼婦だったと言われています)に対するある種の赤裸々な愛を歌ったもので、これも精神的な愛より肉体的愛の要素が強いものです。当時のミンネザングと呼ばれた吟遊詩人の詩は、「高いミンネ」(hohe Minne)と呼ばれた、高貴な婦人への献身的な愛(ミンネは「愛」の意味です)を歌うものが主流でした。それに対して、フォーゲルヴァイデは「低いミンネ (niedere Minne)」というものを提唱し、貴婦人ではなく庶民の娘を登場させ、精神的な愛ではなく、直接的な性愛の喜びを歌っています。
つまり、タンホイザーにおけるハインリヒの主張はほとんどそのままフォーゲルヴァイデの主張であり、それがハインリヒの反対派に回っているのはきわめて変だということです。

下の写真は、そのヴァルトブルク城の中に飾ってある、歌合戦の絵です。(2004年にヴァルトブルク城に行っています。この城はルターが最初にドイツ語聖書を訳した場所としても有名です。)

原子力潜水艦シービュー号の”The Monster’s Web”

原子力潜水艦シービュー号の”The Monster’s Web”を観ました。タイトル通り巨大海中グモが登場し、科学者のガントが開発した新しい燃料を使った高速潜水艦のテスト中に、テスト艦の艦長が判断を誤り、その巨大海中グモの蜘蛛の巣にテスト艦は突っ込んでしまいます。ガントは奇跡的に助かりましたが、ネルソン提督はその燃料が海水に触れ水圧がかかると大爆発を起こすことを指摘します。テスト艦に残された燃料が爆発すると何百万人も死ぬことになります。
でこのガントが何とか大グモを倒そうとして躍起になる、というのは巨大クジラの時の話と同じパターンです。
この回で面白いのはネルソン提督はフライングサブが大グモに捕まって逃げだそうとした時に、ガントが無理なパワーをかけてフライングサブを一部爆発させてしまい、そのショックでネルソン提督が気絶してしまいます。従って話の半分くらいがネルソン提督無しで進むという珍しいパターンです。
結局活躍したのはガントの方で、勝手な判断ながら自分の開発した燃料で大グモを倒します。
後奇妙なのはシービュー号って本当に原子力エンジンなのかということです。ガントはクレーン艦長に自分の燃料を使えばシービュー号なら90ノット(時速167Km)出せる、と言います。原子力エンジンなら、別の燃料を使えたりしない筈ですが…大体良く考えると、「原子力潜水艦」と言っているのは日本語吹き替え版だけで、もしかすると最初から核エンジンという設定はなかったのかも。

原子力潜水艦シービュー号の”The Death Ship”

原子力潜水艦シービュー号の”The Death Ship”を観ました。出だしは緊迫感があって、シービュー号がいきなり正体不明の潜水艦に追われ、その潜水艦が魚雷を発射します。かろうじてかわしたシービュー号は逆にホーミング魚雷を発射しますが、その潜水艦はホーミング魚雷の回避装置を備えていて難なく攻撃をかわし、また魚雷を発射します。クレーン艦長はネルソン提督の許可が必要な超音波魚雷の発射を独断で命じ、何とかその潜水艦(無人のドローン潜水艦)を撃破します。
そこからちょっと話が変になって、シービュー号に新たに取り付ける自動運転装置を実験するために、いつものクルーは全て退船し、その替わりに科学者10人が乗り込みます。そして深海で自動運転の実験中に、突然シービュー号のパワーがダウンし、計器類が火を吹き、シービュー号はコントロール不能になります。シービュー号の上部にいるある船の上で7ヵ国の集まった平和条約の締結が行われようとしており、それに反対する国がシービュー号を乗っ取ってシービュー号からの魚雷攻撃でその船を沈めようとします。
という設定はかなり無理矢理で、結局何かというと、密室とみなせる潜水艦内で、乗員が一人また一人と殺されていって「犯人は誰か」を引っ張る、「そして誰もいなくなった」のシービュー版です。この話で面白いのは、ネルソン提督自身が10,000Vの高電圧に感電して死んでしまうことです。でも本当に死んでしまうとシービュー号の話はここで終わってしまうのですが、さすがにどんでん返しがあります。どっちにせよかなり無理矢理に「そして誰もいなくなった」状況をシービュー号の中で作り出そうとした、強引な脚本と言わざるを得ません。