マックス・ヴェーバーの「中世合名会社史」の英訳

(以下は4月17日に書いたものです。)
マックス・ヴェーバーの「中世合名会社史」の英訳がアメリカのAmazonから到着。モーア・ジーベック社の全集のこの論文を含む巻は既に到着済みですから、これで翻訳を開始できます。懸念点であった中にかなりたくさん出てくるラテン語の引用文もこの英訳ではきちんと英訳されていました。これならラテン語の初級文法を終わっただけの私でも、ラテン語と英語を見比べてラテン語の内容を理解することは十分できると思います。開設済みのmax-weber.jpのサイトを使い、準備が出来たら「オープン翻訳プロジェクト」を開始したいと思います。
「オープン翻訳プロジェクト」とは、
(1)翻訳の途中経過を逐一インターネット上で公開する。(ドイツ語原文と日本語訳を並記する形で公開する。)
(2)出来上がった翻訳に対し著作権主張をせずに利用自由とする。(日本の法律では確か著作権を完全に放棄することは出来ないと思いますが。)
(3)翻訳の途中で広く各種専門家に協力を呼びかける。
(4)翻訳中に理解できない箇所があった場合は、その箇所を明記して公開する。
(5)可能な限り訳者注を付ける。インターネット上のリンクも含めて。

このプロジェクトで、日本における学術書の翻訳に新たな流れを作ることが出来ればいいなと思います。

ヴォルフガング・シュルフターの「ヴェーバーの再検討 -ヴェーバー研究の新たなる地平-」

(この記事は4月14日に書いたものです。)
ヴォルフガング・シュルフターの「ヴェーバーの再検討 -ヴェーバー研究の新たなる地平-」を読了。例のテンブルックの「「経済と社会」からの訣別」への応答である論考が含まれているの読んでみたもの。既に「「経済と社会」仮構の終焉」も読んでいるため、重複する部分が多く、あまり新しい知見は得られませんでしたが、シュルフターという人は論点を整理するのがうまい感じで、その面での益はありました。ちなみに、シュルフターは一貫して「経済と社会」ではなく「経済及び社会的秩序と勢力」であると主張しており、「全集」でも「経済と社会」に固執するモムゼンとの妥協が行われず、結果的に「経済と社会」と「経済及び社会的秩序と勢力」が並記される(但し後者はあくまでも副題的な扱い)ことになっています。後書きでこれまでのシュルフターの経歴が示されていましたが、意外だったのは元々はシュルフターは決して「ヴェーバー学者」ではなかったということです。

マックス・ヴェーバー全集の一部が届く。

(以下は2018年4月14日に書いたものです。)
モーア・ジーベック社に注文していた、マックス・ヴェーバー全集の内の「経済と社会」旧稿相当分5巻+「理解社会学のカテゴリー」を含む科学論集の1巻、そしてAmazon.deで注文した「中世商事会社史」の1巻が揃いました。後1冊Amazon.deで注文した「経済と社会 文献史」の巻1冊がまだ輸送中です。今回かかった費用は2,267ユーロで、実に30万円を超しており、かなりの散財です。でも、この全集が出来なかった「経済と社会 旧稿」のあるべき配置によるドイツ語テキストをこちらで出そう、というプロジェクトですから、この全集を買わない訳にはいきません。しかし、「ヴェーバー産業」と揶揄されるだけのことはありますね。この馬鹿高い価格設定は、オープンソース的な考え方とはおよそ逆です。また前にも書いたかもしれませんが、この全集を一番買っている国は疑いなく日本です。(日本全国でヴェーバーのドイツ語をある程度読める人となるとそんなに多くはいないと思うのですが、おそらく大学図書館などが主に買っているのでしょう。)

ヴェーバーの「中世合名会社史」届く

(この記事は実際には2018年4月7日時点のものです。)
Amazonのドイツで注文した、モーア・ジーベック社のマックス・ヴェーバー全集の第1巻である「中世合名会社史」他が届きました。この「中世合名会社史」はヴェーバーの博士号論文なのに未だに日本語訳がありません。中世のイタリアとかスペインで会社の初期形態である合名会社が貿易の世界で発達していく様子を研究した論文だということですが、ラテン語のテキストの引用がたくさん出てくるのがネックで訳す人がいないようです。無謀かも知れませんが、私が少しずつ訳してWeb上(例のmax-weber.jp)に発表していって、専門知識のある人のご意見を乞いながら最終的にちゃんとした日本語訳に仕上げられないかということを考えています。いわば学問におけるオープンソース方式です。ちなみに英訳は既に出ていて取り寄せ中です。この全集に事柄の注釈が沢山付いているし、英訳もあれば何とかなるのではないかと思います。Max Weber im KontextというCD-ROMでざっと眺めてみたんですが、ラテン語といっても断片的な引用で、まとまった文章が出てくる訳ではないです。
ちなみに、日本円で3万円以上もする本なのに外箱がありません。代わりにヴェーバーの顔が印刷された包装紙で包まれています。私は何だか「マックス・ヴェーバー饅頭」の包み紙みたいだなと思ってしまいました。ええ、ヴェーバーはドイツにとっては一つの観光資源なんでしょう。

マックスとモーリッツ

ヴィルヘルム・ブッシュの「マックスとモーリッツ」(絵本)を読了。このお話は、ドイツ人なら誰でも知っているもので、漫画の原点になったと言われています。実はmax-weber.jpの管理人のハンドル名を洒落でモーリッツにしようかと思って、それはドイツ人ならすぐ通じるのですが、でも実際のお話も知っておいた方がいいかと思ってポチりました。まあいたずら小僧の2人がかなり悪質ないたずらを繰り返すんですが、最後から2番目のいたずらではパン屋に忍び込んでパンを盗もうとし、見つかってパン焼き釜で焼かれ、最後のいたずらではお百姓さんの小麦を盗もうとしてやっぱり見つかり、水車小屋の粉ひき機で粉にされ、その粉をアヒルがついばんでしまう、というなかなか残酷なオチです。ちょっとグリム童話にも近い世界ですが。
ちなみにドイツ語の原文は
http://www.wilhelm-busch-seiten.de/werke/maxundmoritz/index.html
で読めます。

折原浩先生の「ヴェーバーとともに40年 社会科学の古典を学ぶ」

折原浩先生の「ヴェーバーとともに40年 社会科学の古典を学ぶ」を読了。この本は私が先生にヴェーバーの「経済と社会」旧稿の再編纂問題について勉強していると今まで読んだ本を挙げた所、この本にもその関係の情報があるということで、わざわざ送っていただいたものです。そしてこの本は先生が1996年に東大駒場の教養学部を定年で退官される時に、それまでの大学と学問に関する論考をまとめたものです。先生が教材として使われてきたのは、デュルケームとヴェーバーで、私も1982年に一般教養の社会学でこの2人について教わっています。デュルケームの教材としては「自殺論」でしたが、自殺という誰が考えたって個人的な動機に基づいているとしか思えないものが、しかし一歩引いて統計情報を分析してみると、例えば戦争の時には自殺する人が減るとか、社会の「凝集力」が低下すると自殺が増える、といった「社会的な現象」であることが明らかにされます。デュルケームはこうした分析で、新興の学問であった社会学の実践的価値を訴えます。こうした分析は当時結構目から鱗でした。ヴェーバーについては「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」でしたが、こちらはむしろデュルケームとは逆に「カルヴィニストの内面の心理なんて本当に外部から推し量ることが出来るのだろうか」という疑問を抱いていました。
まあその辺りは思い出話ですが、この本によって折原浩先生が何故「経済と社会」旧稿の再編成問題にずっと取りくんで来られたのか、その動機はよく理解できました。それは元々教科書として企画された「経済と社会」を、その通り教材として使いたいのに、それが間違った編纂で使えないものになっているのを何とかしたいという思いです。

折原浩先生の「日独ヴェーバー論争 「経済と社会」(旧稿)全篇の読解による比較歴史社会学の再構築に向けて」

折原浩先生の「日独ヴェーバー論争 「経済と社会」(旧稿)全篇の読解による比較歴史社会学の再構築に向けて」を読了。「経済と社会」の再構成問題についての最後の読書です。これで一応現在の状況に追いついたことになります。この本は、結局「経済と社会」の旧稿部分を、「頭」である「理解社会学のカテゴリー」を載せず、またテーマ別に5つの部分にばらばらに並べ直すという形で「全集」に収録した編集陣への痛烈な批判の書です。その編集陣とは、ヴォルフガング・J・モムゼンと、ヴォルフガング・シュルフターの2人です。(編集陣は他にもいますが、この問題について態度表明をしているのはこの2人だけです。)この内、モムゼンは、「理解社会学のカテゴリー」が旧稿の「頭」であることを否定し、また、シュルフターは旧稿が2つの時期に分かれて書かれていて、最初の時には確かに「頭」だったが、後半の時期では「頭」の意義が薄れた、としています。折原先生は、この2人の議論に対し、徹底的にヴェーバー自身のテキストに内在し、その論理を追いかけ2人の説に根拠がないことを論証します。実は編集陣の中でも意見が統一されていなくて、それは全集の旧稿の巻のタイトルにも現れていて「経済と社会」と「経済と社会的秩序ならびに社会的勢力」が並記されています。これは前者がモムゼンの説、後者がシュルフターの説です。これを見ても分かるように、編者の中ですら意見統一が行われておらず、全集の編集が見切り発車だったことがよく分かります。
ともかく読んでいて思うのが、折原先生が徹底してヴェーバーの本来の意図をテキストに内在して探り出し、何とか未完の大著を復元しようとしているのに、ドイツ側が「どうせ未完成なのだから、復元などの努力は無駄である」という投げやりな態度が透けて見えることです。「マックス・ウェーバーの日本」という本を書いたシュヴェントカーという人がいますが、この人の言うには、日本のヴェーバー研究者にはヴェーバーの視点や方法論を使って現在の日本を分析しよう、という意欲が強く見られるのに対し、ドイツの側の学者にはそういう点がほとんど見られない、としています。この日独論争にはまさにそういう対立を見ることができます。
これで一応「再構成問題」に関する読書を終了したので、次にこの本に示されている折原先生の再構成案(仮説)に従った順番で、「経済と社会」(旧稿)を日本語訳でもう一度読んで見るつもりです。

外国語遍歴の跡ー本棚

ここの所ゴミの日になると、少しずつ完全に物置でゴミ屋敷化している部屋の片付けを行っています。そのお陰で今まで見ることが難しくなっていた本棚の中味がかなり見通せるようになってきました。この2つの写真は外国語関係の書籍です。良く見るとポーランド語とかフィンランド語、東南アジア諸語とかもあって、この間数えた少しでも手を出したことがる外国語の数は13よりさらに増えます。また、中国語はほとんどやったつもりはないのですが、こうしてみると意外と書籍を買っています。

ヴェーバーの「中世合名会社史」オープン翻訳プロジェクト

例のmax-weber.jpのサイトでやろうと考えていることは3つあります。

(1)折原浩先生の「経済と社会」旧稿の再構成案(仮説)の順番に並べた旧稿のドイツ語テキスト(もちろん「理解社会学のカテゴリー」を頭に据えて)をこのサイトで提供する。その際に折原先生が綿密に時間をかけて調査された「前後参照指示」の飛び先にリンクを貼り誰でもその適否が簡単に確認出来るようにする。(日本語訳もこのサイトで同じように提供できればもっといいですが、それはこれからの課題です。)(言うまでもなく、ヴェーバーの著作権は死後70年である1990年で消滅しており{というか元々子供のいなかったヴェーバーにマリアンネの死後に著作権の継承者はいたのかという疑問もありますが}、そのテキストを誰がどこで公開しようと自由です。ドイツの「全集」側があれこれ理由をつけて折原説を採用しないなら、日本でやってやろうということです。)

(2)ヴェーバーの文献で日本語訳されていないものについて、「オープン翻訳プロジェクト」を立ち上げること。オープン翻訳プロジェクトとは、
   [1] 翻訳の途中経過を逐一インターネット上で公開する。
     (ドイツ語原文と日本語訳を並記する形で公開する。)
   [2] 出来上がった翻訳に対し著作権主張をせずに利用自由とする。
     (日本の法律では著作権を完全に放棄することは出来ませんが。)
   [3] 翻訳の途中で広く各種専門家に協力を呼びかける。
   [4] 翻訳中に理解できない箇所があった場合は、その箇所を明記して公開する。
   [5] 可能な限り訳者注を付ける。インターネット上のリンクも含めて。
要は、ソフトウェアにおけるフリーソフトウェア、オープンソースの考え方を学問の世界にも持ち込めないかということです。

(3)ヴェーバーの著作リスト、日本語訳リストなどのヴェーバー関係のリソースの提供。

(2)のオープン翻訳プロジェクトでまずやろうと考えているのは、ヴェーバーの博士号論文である「中世合名会社史」です。これはヴェーバーの研究のスタートとなった重要な論文ながら、何故か未だに日本語訳がありません。特に大塚久雄はこの辺りが元々専門であった筈なのに何故訳していないのかがわかりません。一説によると、文章中に大量の中世イタリア語(というより実際はほぼラテン語、書き言葉としてのイタリア語はダンテが13世紀末から14世紀初にかけて「神曲」でトスカーナ方言を用いたのが最初ですが、すぐにそれが定着した訳ではありません)やスペイン語が多数出てきて、それをきちんと訳せる人がいないから、ということでした。しかし、調べたら英訳は既に2002年に出ています。Amazonのアメリカに注文していましたが、それが今日届きました。またモール・ジーベック社の全集の内この論文を含む第1巻も既に入手済みです。それには注釈が多数付いています。こうしたものの助けを借りれば日本語訳を行うことは現時点ではそう難しくはないと思いますが、何故かやる人がいません。それで私がトライしてみようと思いました。上記の「オープン翻訳」方式であれば、誰でも翻訳に参加でき、群衆の叡智を集めて日本語訳が完成できるのではないかと思います。

「富士に立つ影」を高く評価した人達

作家や評論家の中で、白井喬二の「富士に立つ影」を評価している人って、私の知る限り、大岡昇平、大井廣介、そして小林信彦です。(他に中谷博もいますが、白井と同時代なので除きます。)
この3人には共通点があることに気がつきました。

(1)3人とも色んなジャンルのものを評価して、極めて趣味が広い。
(2)「面白いものは面白い」と言い切れる、偏見から自由であること。

特に大岡昇平は「富士に立つ影」を10回も読んだと言っていますが、彼は文壇一のディレッタントと呼ばれていたらしいです。写真はそれぞれの人が「富士に立つ影」に触れている本です。(小林信彦のは「小説世界のロビンソン」が文庫本になる時改題されたものです。)