山田康弘の「つくられた縄文時代 日本文化の原像を探る」(または「日本の考古学の非科学性」)

山田康弘の「つくられた縄文時代 日本文化の原像を探る」を読了。この本を読んだのは、「歴史をどう科学として扱うか」という興味関心の延長線上で、以前から考古学(日本の)の非科学性というものが目について仕方がなかったからです。特に、日本の考古学が提唱する時代区分である「縄文時代」「弥生時代」「古墳時代」というものに、かなり以前から相当な嘘くささを感じていました。

1.縄文時代
この時代区分は、いわゆる「縄文式土器」から来ていて、「土器に縄目状の模様がある」ことを特徴としての時代区分です。しかし、いわゆる弥生式土器(最初に本郷弥生町から発掘されたもの)にも「縄目」は存在します。従って、土器の模様は時代を区分するものとしてはおよそ適当ではなく、敢えて言うなら、「低温焼成土器」「高温焼成土器」とでも言うしかないと思います。
しかも、世界的な言い方では、日本の縄文時代は「新石器時代」または「金石併用時代」に過ぎません。何故日本だけ独自の言い方を採用しないといけないのか。しかも、議論が色々ありますが、約13,000年も続いた時代であって、それを十把一絡げに「縄文時代」と呼ぶのは大雑把すぎます。後から「草創期・早期・前期・中期・後期・晩期」といった区分が作られましたが、これもかなり適当です。またこの時代には(現在の)日本の内部での地域による差はかなり大きかったと思いますが、そうした地域的差異を塗りつぶしてしまいがちです。
しかもこの本によれば、「縄文時代・弥生時代」という区分は戦後になって、いわゆる発展段階史観に基づいて作られたものであることが明らかにされており、かなりな意味での非科学的な名称だと言わざるを得ません。

2.弥生時代
弥生時代の「弥生」はそもそも弥生式土器が最初に発掘された本郷弥生町の地名から来ています。従って「弥生時代」とは本来は「弥生式土器の時代」という土器の編年に基づく時代区分でした。しかし、それがいつからか「日本で稲作が定着した時代」という風に、生活様式による時代区分にすり替えられてしまいます。しかもその稲作にしてからが、福岡の板付遺跡や佐賀の菜畑遺跡などの発掘調査が進んだことにより、稲作が日本で始まったのが従来考えられていたよりもはるかに古く、縄文時代の晩期どころか下手したら後期にまで遡ることが明らかになります。そこで考古学者が行ったことは、これまた非常に理解に苦しむ内容ですが、弥生時代の始まりを500年も繰り上げるというある意味暴挙に出ました。また、更に理解不能なのが、「生活様式」をその時代の定義にしたために、現在の日本列島全体を指し示す時代区分としては使用出来ないということです。つまり、稲作は東北地方にまでは伝わりますが、北海道ではなかなか稲作は行われませんでした。そのため、考古学者は北海道は縄文時代が続いたとして、「続縄文時代」なる奇妙な時代をでっち上げます。

それまで考えられていたのは縄文時代が狩猟採集文化で、弥生時代になって稲作が伝わったことにより定住が進んだとされていましたが、これはまったくの間違いです。青森の三内丸山遺跡の発掘で分かったのは、縄文時代の中期に既に定住とそれによる大規模集落が作られており、そこでは栗や大豆などが栽培されていたとされています。そうだとすると、縄文時代と弥生時代を区別する意味が薄れてしまっています。弥生時代は「稲作」なんだとする説も、その後の日本にとって稲作が重要であったからということから遡って考えている傾向が伺えますし、また稲作の普及は従来は150年程度で九州から東北まで広まったことになっていましたが、現在の研究では500年以上かかっており、その過程ではおそらく行きつ戻りつがあったのだと思います。このことからも縄文時代→弥生時代という切り替わりはきわめて曖昧だと言わざるを得ません。

縄文時代に文字が使われていた証拠はどこにもなく、文書による記録はどこにもありません。しかしだからといって縄文時代の人々を「原始人」的に考えるのは明らかに間違ったイメージであり、また逆に「原始共産制」的なユートピアと考えるのもまったく根拠のないイメージ操作です。科学にとって大事なことは、はっきりと分かっていることと、まだ分かっていないことをきちんと区別することだと思います。しかし考古学においては、多くの場合、きわめて限られた資料から空想を膨らませまくったような説が堂々とまかり通っていて、人々のイメージを誤った方向に導いている事例が多数見られます。(一番悪名高いのは江上波夫の「騎馬民族征服王朝説」です。)この本で紹介している「縄文人の死生観」も私は眉唾を付けて考えています。考古学の問題は、藤村新一の発掘品捏造事件の時に見られた相互批判の十分行われない閉鎖的な体質以外にも沢山有ります。

歴史は科学か?邪馬台国関連フェイクニュース

相変わらずWeb上にはフェイクニュースが多いです。
これ(「モモの種で「邪馬台国論争」終止符か」)もその典型。奈良県の纏向遺跡から桃の種が大量に出土し、その年代鑑定が邪馬台国の時代と一致するから、纏向遺跡が邪馬台国だという、無茶苦茶な論理。

魏志倭人伝の邪馬台国の箇所には、かなり詳細な邪馬台国の植生の記述が出てきますが、そこに「桃」の記述はまったく出てきません。「桃支」という単語は出てきますが、これは竹の種類の一つです。

この作者は「中国でモモ(核果類)が栽培された歴史は6000年以上ともいわれ、やがて日本にも伝えられたのだろう。もしも卑弥呼が不老不死の西王母にならってモモを食べていたなら、今回の纒向遺跡で大量のモモの種が出土したこととつなぎ合わせ、また年代も合致することから邪馬台国の場所である可能性が高い。」と書いているが、こんなデタラメな論理は見たことがないです。卑弥呼が桃を食べていた証拠は一体どこにあるのでしょうか?西王母信仰と卑弥呼との関連も何の説明もない論理の飛躍そのものです。また、日本の遺跡での桃の種の出土例は今から約6,000年前の縄文前期の遺跡に遡るそうなので、中国と同じくらいの歴史が日本にもあることになり、たまたま桃の種が多く出土したから、それが邪馬台国と関連がある証拠にはまるでなりません。

纏向遺跡から邪馬台国と同じ時代の桃の種が多数出てくるなら、それはむしろ纏向遺跡が邪馬台国ではない有力な証拠としか思えません。(そもそも纏向遺跡には、その出土品の中に大陸との交流を示すようなものがほとんどなく、邪馬台国関連の遺跡であるというのは元々無理があります。)(こういう単純な論理がわからなくて、今回の件をほぼそのまま報道している毎日新聞、朝日新聞、日経新聞の新聞各社も、無責任きわまりないと思います。)

さらには、ベースとなっている放射線炭素年代測定もかなり怪しいです。2800個の桃の種の内調べたのはわずか12個(0.4%)で、それでいて「この12個は同じ時期に捨てられた可能性が高い」とし、にも関わらず「西暦135~230年のほぼ100年間」と断定していますが、この記述が正しければ、単にその100年のどこか1年で食べられたということに過ぎないのに、わざと幅を持たせてその時代ずっと桃が食べられていたかのように記述し、邪馬台国の時代と一致するような印象操作を行っています。更にはその12個が本当に同じ年代なのであれば、サンプリングとして適切だったかどうか、なおさら別の試料も調べて対比するべきだと思います。(私の想像では多分実際はもっと多くの桃の種を測定し、その中から都合の良いデータだけを選んだのではないかと思います。)

藤村新一による旧石器時代の遺物捏造事件は記憶に新しい所ですが、考古学界の体質は変わっていないようです。
(私は大学の時に、教養学科の選択科目としてですが、考古学を1年ほど学んでいます。東京大学の考古学教室そのものは本郷にありますが、駒場の教養学科でも文化人類学をやっている関連で、考古学の授業がありました。)

メリットリンス→コンディショナー

ドラッグストアで、シャンプーとリンスの詰め替え用を買おうとしたら、パッケージのデザインが変わっていました。シャンプーは簡単に見つかりましたが、何故かリンスが無い。それでよく見たら、「コンディショナー」に名前が変わっていました。しかし、裏面に書いてある正式な商品名は「メリットリンスDE1(コンディショナー)」でリンスのまま。また、「リンスのいらないシャンプー」「リンスインシャンプー」というのが別にありますが、そちらは「リンス」のままです。確かに「リンス」は和製英語で、英語の意味は「濯ぐ(すすぐ)」という意味で、半導体の前工程でリンシングと言えば、純水でエッチング液などの薬液を洗い流すことです。また、昔どこかの国語辞書で編者が、「シャンプーは辞書に入っているけどリンスが入っていない」と娘に言われた、と語っていたことがあります。
この「メリット」という製品を使っている人は、かなりの部分昔から使っていて特に変える理由もないので使い続けているという人が多いと思い、つまりメインのユーザー層は年寄りだと思います。だとしたら、こういう消費者を戸惑わせるような名称変更はやらない方がいいと思うのですが。

「汚名挽回」は誤用ではない!

「汚名挽回」が間違った表現だと言い張る人達がいます。ATOKも昔、JUST MEDDLERというお節介機能で「汚名挽回」と変換させると、「誤用で『汚名返上』が正しい」なんて馬鹿なメッセージを出していました。しかしその当時ATOKの企画に携わっていた私がその後強く抗議して(監修の先生とも相談の上)止めさせました。「劣勢を挽回する」というのが「劣勢を取り戻す」という意味ではなく、「劣勢状態を良い状態に回復させる」という意味であることを考えれば、「汚名挽回」も汚名の不名誉を雪いで良い方に持っていく、という意味であることは間違いありません。ググって見つけたサイトによると、1976年頃に、「汚名挽回」を誤用とする本が出て、それで広まったみたいです。つい最近では2月くらいの読売新聞の朝刊のコラムで「汚名挽回」を誤用と書いていました。

「汚名挽回」が間違っていないというのの証明として「青空文庫」で「挽回」を検索すると、

頽勢を挽回する(5例くらい)
名誉を挽回する
皇運を挽回する
敗戦挽回の策
勇気を挽回する
人気を挽回する
荒地挽回
家産を元通りに挽回する
旧勢力を挽回する
勢力を挽回する
頽(くづれ)を挽回する
蹉跌を挽回する
家運を挽回する
悪い体勢を挽回する
財産を挽回する
家運を挽回する
衰勢を挽回する

などで、かなり多く「マイナスの状態」を示す言葉にくっついています。ここから見ても「挽回」が「取り戻す」という意味でないことは明白です。

「名誉挽回」も「名誉を取り戻す」という意味ではなく、ニュアンスとしては「(失われた)名誉を復活させる」という意味だと思います。

その「汚名挽回」誤用説について、そのきっかけになったという「死にかけた日本語」という本を入手してみました。編者の中に福田恆存が入っているんで、まさか福田恆存ほどの人が何を馬鹿なことを言っているのかと思っていましたが、中を確認したら「誤用」としているのは単なる素人の投書です。それもある人が朝日新聞で「汚名ばん回」とあったのを間違いと投書して、それを「そうだそうだ」と引用して投書しているもの。間違いだという根拠は「挽回は取り戻すという意味で、汚名を取り戻すのはおかしい」という、俗説きわまりないものです。なんでこんな素人の屁理屈が堂々とまかり通るようになったのか、そちらの方が不思議です。

ドイツ科出身の新約聖書学者

東大の駒場は日本の新約聖書研究では結構重要な役目を果たしています。内村鑑三の無教会派に属していた矢内原忠雄が1949年に教養学部長になり(今は無くなってしまったみたいですが、昔駒場キャンパスには矢内原門というのがありました)、後に東大総長になりますが、その時代に、私の出身学科である教養学科ドイツ科から3人の新約聖書学者が出ています。
佐竹明  1953年卒
荒井献  1954年卒
八木誠一 1955年卒

この3人の内、荒井先生は私が学生の時に教養学科で教えられていて、私は半年だけですが、その授業を受けることが出来ました。その時の授業は「使徒行伝(使徒言行録)」が実際にはどのように成立したのかという内容でした。私の新約聖書に関する知識のかなりの部分はこの時に教えてもらったものです。その授業の中で、「死海文書」「クムラン教団」「エッセネ派」なんかも出てきました。(当時、イエス・キリストはエッセネ派の一員ではないかという説がありました。)後年、エヴァンゲリオンで死海文書が出てきた時はびっくりしましたが。

聖書コレクション 2種追加

私の聖書コレクションに追加。左が”La TOB”というフランス語の共同訳。右が中国語簡体字版。中国語の聖書には”God”が「天主」、「上帝」、「神」と訳されているバージョンがあるそうです。それぞれ、カトリック、イギリス系プロテスタント、アメリカ系プロテスタントなんだそうです。今回入手したのは「上帝」版です。

これで、日本語、英語、ドイツ語、ラテン語、ギリシア語、フランス語、中国語と7カ国語の聖書が揃いました。

梶原一騎と合理性

マックス・ヴェーバーの学問の最大のキーワードは「合理性」で、ヴェーバーは西洋近代が他の文明から区別される最も顕著なものが「合理性」だと考え、その起源を探ることが彼の一生のテーマになりました。
この「合理性」は戦後の日本の社会科学の学者にとっては、便利な概念で、要は日本が戦争に負けたのは、日本が合理主義を十分に発達させることが出来なかったから、という形で受け入れられ、盛んに研究されました。それがピークに達するのが1960年代前半くらいで、何とそれは大衆文化にまで影響を及ぼしています。

ここで紹介するのは梶原一騎原作の漫画です。「巨人の星」で、星飛雄馬の投げる「消える魔球」に対し、外人選手のフォックスは「ア…悪魔ノボールダ!」といって驚きますが、それに対してTV中継のアナウンサーが「なにごとにも合理的な外人には理屈に合わぬ奇跡はいっそう恐怖をそそるのか…」と解説を付け加えています。まったく同じようなシーンが「新巨人の星」にも出てきて、星飛雄馬が投げる今度は「分身(蜃気楼)の魔球」が阪急ブレーブスのおそらくバーニー・ウィリアムス選手にショックを与えますが、それについての上田監督のコメントが、「ウ~~~ン!外人は考えかたが合理的 理論的やさかい ようけショックが大きいようやな」と関西弁(より正確に言えば徳島弁)で解説してくれます。外人といっても、フォックスはアメリカ、ウィリアムスはプエルトリコの出身ですが、ひとまとめに「外人」とされ、「外人は合理的」とされています。

「外人」を「合理的」とするステレオタイプの見方を導入するだけでなく、梶原は自分が提供する漫画原作にも「合理性」を持ち込みました。栗本薫が正しく指摘したように「消える魔球」は、梶原が初めて使ったものではなく、「巨人の星」の前にいくつもの漫画で既に使われていました。例えば福本和也原作の「ちかいの魔球」とか、一峰大二の「黒い秘密兵器」などです。(「黒い秘密兵器」のは正確に言えば「消える魔球」ではなくもっと荒唐無稽な魔球群ですが。)「巨人の星」の「消える魔球」が他と一線を画しているのは、その消える理由に「合理的な」説明を与えようとしたことです。その理屈は皆さんご存知だと思うので詳細は略しますが、今考えると無茶苦茶な理屈ながら、伴宙太から消える魔球の秘密を打ち明けられた川上監督は、「恐るべき理論的裏付けがある」と評します。梶原一騎は後に「侍ジャイアンツ」の「分身魔球」あたりになると、手を抜いてもはや魔球の合理的な説明を省くようになります。また「新巨人の星」の「蜃気楼の魔球」でも何故そうなるかはまったく説明されませんでした。しかしこの頃はまだ説明しようとする意欲がありました。

他のスポーツの漫画原作ではどうかというと、野球以外に梶原が得意とした柔道漫画にもその例を見ることができます。「ハリス無段」は東京オリンピックの直前の1963年に連載された梶原の最初の柔道漫画です。「ハリス」は「ハリスの旋風」と同じようにハリス食品(当時ガムで有名だった)とのタイアップ作品ですが、最初「科学的な柔道を追求する」「ハリス博士」という「外人」が登場し、主人公に「科学的な柔道」を伝授します。もっともこの博士は途中で主人公の敵にやられて死んでしまい、主人公は三船久蔵十段と知り合って、伝統的な柔道に戻ってしまい、この路線はきわめて不徹底でしたが。

「科学的な柔道」は、後にTV化され人気作となった「柔道一直線」の漫画の方でもう一度登場します。ここでは、ガリ勉でスポーツ音痴の秀才君が、昔スポーツが出来なくて女の子に笑われたのに発憤して、「物体ひっくりかえし科学」を完成し、力を使わずに相手選手を吹っ飛ばして、主人公の強敵として登場します。

以上が、梶原一騎の例ですが、他にも白土三平がその忍者漫画で、忍術を「合理的に」説明しようとしたことも例として挙げられると思います。(画像は白土三平の「サスケ」における「炎がくれの術」の「合理的な」説明。)

同じく1960年代に忍者ブームを作った山田風太郎も、その「忍法帖」シリーズに登場する荒唐無稽の極地のような忍法に、自身が医者であることからの「医学的」な説明を付け加えていました。例えばスパイダーマンのような忍者には、その唾液の中に「ムチン」と呼ばれる粘性物質が多く含まれているため、非常に強度を持った糸を吐き出すことができた、みたいなものです。

他にも60年代のSFブームも「合理性」と大いに関係があると思いますが、長くなりすぎたのでこの辺にしておきます。

「原田隆史」なる人の著作の詐欺広告

Facebookで「原田隆史」なる人が自分の本の広告をしているのですが、その中でAmazonで非常に高い評価を受けているとして、その画像が貼ってあります。(Amazonとはどこにも書いていませんが、誰が見てもAmazonのレビューです。)ところが、Amazonに行って実際に見てみたら、そんなレビューはどこにも存在しません。その広告している本の実際のレビューは多くの人が☆一つの酷評をしています。平均では☆☆☆になりますが、高い評価はどうも関係者がやっている臭いです。
何より、この広告で貼っているAmazonの画像が変です。実際のレビュー画像とは違います。(例えば☆のバックに色がついていますが、実際の画像にはありません。また評価スコアの分布を示す図も実際のものとは違います。)また、自分の本名を出してレビュー書く人は非常に少数派です。どう考えても捏造です。こういう詐欺広告に騙されないようにしましょう。

私の聖書コレクション

私の聖書コレクションです。
そんじょそこらの牧師さんあたりにはまず負けないと思います。大学生の時、勧誘に来たエホバの証人の人を聖書に関する議論で負かしたことがあります。

日本語
新約聖書 詩篇附 文語訳
聖書 口語訳
旧約聖書 口語訳
新約聖書 共同訳・全注
新約聖書 詩編つき 新共同訳
聖書 新共同訳
新約聖書 詩篇付 新改訳
新約聖書 フランシスコ会聖書研究所訳注
新約聖書 福音書 塚本虎二訳
The Study Bible New Testament 新約聖書 わかりやすい解説つき聖書 新共同訳
THE STUDY BIBLE 聖書 スタディ版 新共同訳
アポクリファ 旧約聖書外典
関根正雄編 旧約聖書外典 上
トマスによる福音書 荒井献(グノーシス派の福音書)

英語
新約聖書(高校時代にギデオン協会からもらった日英対訳)
HOLY BIBLE(NRSV)(アメリカで一番標準的な聖書)
HOLY Bible(King James Version)
THE NEW JERUSALEM BIBLE(一番学術的と評される英語聖書)

ドイツ語
Das Neue Testament(ルターによる新約聖書、レクラム文庫で2巻)
DIE BIBEL(ルター訳聖書)
Die Gute Nachricht(現代ドイツ語訳新約聖書)
DIE BIBEL(ドイツ語新共同訳)

ラテン語
NOVUM TESTAMENTUM LATINE (NESTLE-ALAND)

ギリシア語
NOVUM TESTAMENTUM GRAECE(NESTLE-ALAND)

グリムのドイツ語大辞典でのルターの言葉の原典(1月28日追記)

私は、2006年11月23日にアップした「羽入式疑似文献学の解剖」(ナカニシヤ出版の「日本マックス・ウェーバー論争」にも収録)の注釈の中で以下のように書きました。
http://www.shochian.com/hanyu-hihan-fc107.pdf
「グリムのドイツ語大辞典(CD-ROM版)で、”Beruf”と”Ruf”を調べてみた。このドイツ語大辞典が最終的に完成したのは、本文中に記述した通り1961年のことであるが、”Beruf”の項は1853年にJ. Grimm、”Ruf”の項は1891年にM. Heyneにより編集されており、ヴェーバーが倫理論文を書く前の編集である。ヴェーバーがグリム大辞典(の当時出版されていた分冊)を参照したかどうかは倫理論文中には記載されていないが、OEDの前身のNEDをあれだけ参照しているヴェーバーがグリム大辞典を参照しなかったということは想定しにくい。

“Beruf”の項では、2つの語義が書かれている。1つめはラテン語のfamaにあたる、「名声・評判」という意味である。2番目の語義が、ラテン語のvocatioに相当し(ドイツ語ではさらに新たな意味が付与された)、いわゆる「天職」である。ここでグリム大辞典は、この意味での語源の一つを、”bleibe in gottes wort und übe dich drinnen und beharre in deinem beruf. Sir. 11, 21; vertraue du gott und bleibe in deinem beruf. 11, 23” 、つまりヴェーバーと一致して「ベン・シラの書(集会の書)」としている。

これに対し、”Ruf”の項では、「過渡的な用法」として、「(内面的な使命としての)職業」を挙げている。また、「外面的な意味での職業」、つまり召命的な意味を含まない職業の意味ではほとんど用いられたことがなかったと説明されている。さらにはルター自身の用例が挙げられている:” und ist zu wissen, das dis wörtlin, ruff, hie (1 Cor. 7, 20) nicht heisze den stand, darinnen jemand beruffen wird, wie man sagt, der ehestand ist dein ruff, der priesterstand ist dein ruff. LUTHER 2, 314a” このルターの章句がどのような文脈で使われたものなのか、残念ながらまだ突き止められていない。しかしながら、ルター自身が、コリントI 7.20のこの部分を、今日のほぼすべての学術的聖書が採用する「状態」(Stand)の意味ではない、と明言しているのは非常に興味深い。(以下略)」

このグリムのドイツ語大辞典のルターの用例の原典を、実に11年2ヵ月の期間をかけて、ようやく突き止めることが出来ました。
それはJohann Georg Walchというルター派の神学者が1740年から1753年にかけて出した24巻のルター全集(ルターの著作にはドイツ語だけではなくラテン語のものも多く含まれますが、この全集はラテン語のものをすべてドイツ語に翻訳しています)の中のルター全集の第8巻の中に含まれていました。( Dr. Martin Luthers Sämmtliche schriften, Achter Theil, Auslegung Johannes 7-20, ApG 15 und 16 und 1 Kor 7 und 15, kürzere Auslegung der Epistel an die Galate)
ルターがこの部分の説教を行ったのは1523年8月となっています。ヴァルトブルク城で新約聖書のドイツ語訳を完成させた約1年後です。

該当部分の画像をアップします。そして、問題の箇所を含む部分をテキスト化(元はFraktur=ヒゲ文字のドイツ語)したのが以下です。
(全巻のテキストは、 https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=mdp.39015074631824;view=1up;seq=1 で見ることができます。)

Und ist zu wissen, daß dies Wörtlein “Ruf” hier nicht heiße den Stand, darinnen jemand berufen wird; wie man sagt: Der Ehestand ist dein Ruf; der Priesterstand ist dein Ruf; und so fortan. Ein jeglicher hat seinen Ruf von Gott. Von solchem Ruf redet hier St. Paulus nicht, sondern er redet von dem evangelischen Ruf, daß also viel sei gesagt: Bleibe in dem Beruf, darinnen du berufen bist, das ist: Wie dich das Evangelium trifft, und wie dich sein Rufen findet, so bleibe. Ruft dir’s im Ehestande, so bleibe in demselben Rufen, darinnen dich’s findet; ruft dir’s in der Knechtschaft, so bleibe in der Knechtschaft, darinnen du berufen wirst.
(一部小文字を大文字に変更)

やはり原典に当たってみるということは重要で色々と注意事項があります。

(1)元のルターの説教はラテン語だということです。つまりグリムのドイツ語大辞典に引用されているのは、ルターのラテン語テキストをWalchが(その当時の)ドイツ語に訳したもので、ルターが自分でこのようなドイツ語をしゃべったのではないということです。
(元のルターのラテン語は、別途探してみるつもりです。)
→1月28日追記:これは私の勘違いで、最初からドイツ語でした。ワイマール版ルター全集の第12巻のP.132にオリジナルがありました。
D. Martin Luthers Werke, Weimar 1883-1929
Weimarer Ausgabe – WA
12 Reihenpredigt über 1. Petrus 1522; Predigten 1522/23; Schriften 1523
Das siebente Kapitel S. Pauli zu den Corinthern. 1523.
P.132
興味深いのは、このルターのオリジナルでは、”Bleybe ynn dem ruff, darinnen du beruffen bist,”がWalch版では”Bleibe in dem Beruf, darinnen du berufen bist”になり、ruffがBerufに置き換えられていることです。Walch版はルターの死後約200年後(ヴェーバーの約150年前)ですが、この間にruffがBerufに置き換わったという文献的証拠の一つになります。(羽入はルター聖書ではBerufではなく、ruffだったということを世界的発見のように書きますが、要はruffが使われなくなりその後Berufに変わったということは、ヴェーバーの当時は公知の事実だったということです。)

尚、このワイマール版のが検索で見つからなかった理由ですが、Frakturのテキスト化が無茶苦茶だからです。おそらく普通の書体用のOCRでFrakturをテキスト化しています。PDF版からこの部分のテキストを取り出すと以下のようになります。これではヒットする訳がありません。

Unb ift au tüiffen, ba§ bi$ luortlin ‘ytuff’ Ijie nid^t Ijeljffe beu ftanb,
borljuueu Ijemaub beruffen tüirt, iDte mau fagt: Der cljeftanb ift belju ruff,
ber priefter ftanb ift belju ruff, unb fo fort au el)u iglic^er ^^att feljueu ruff 25
öon ©Ott. 3>ou foldjem ruff rebet l)ie 6. 5pautu’^ uidjt, Sonbern er rebet öon
bem Gnaugelifdjen ruff, ba§ alfo öiel fei) gefagt: ^leljbe ijnii bem ruff,
barl)nnen bu beruffen bift, ha§ ift, loie bic^ ba§ ©öangelion trifft, uub mie
bidj fel)u rüffeu finbet, fo bleljbe. ^Küfft bQrs ijui eljcftanb, fo bleljbe l)uu
bem fclben rüffeu, barljuncn bic^y finbet. Ütüfft bljrS l)un ber fnec^tfd^afft, 30
fo bleljb Ijun ber fnec^tft^aff t , barljunen bu beruffen luirft.

(ワイマール版ルター全集は、ここで参照できます。)

(2)確かにルターは、コリントⅠ7,20の”Ruf”を、「結婚している状態」の「状態」や、「聖職者としての身分」の「身分」の意味ではない、と言っていますが、上記の部分を読む限り、それが「世俗職業」の意味だとは一言も言っていません。テキストから読み取られるのは、そうした「結婚している状態」や「聖職者としての身分」にある時に「福音としての召命」を受け、その「福音としての召命」がからんだ「状態」や「身分」がRufだと言っているように思えます。これはパウロが元々言っていることと大きく隔たっていないように思います。グリム辞書が「召命的な意味を含まない職業の意味ではほとんど用いられたことがなかった」と書いているのはまさに正しいと思います。

ところで、今回テキストの原典を発見できた理由ですが、それはGoogleがこの本を電子テキスト版にしてネットにアップしてくれたからです。2008年当時は色々検索語を変えて検索してもまったくヒットしませんでしたが、今回”wie man sagt, der ehestand ist dein ruff,”のGoogle検索で1番目に出てきました。それまでに、「ルター全集」のソフトウェアを買ったり、ワイマール版ルター全集のテキストが参照できるページで必死に検索を繰り返していたのが馬鹿みたいです。テクノロジーの進化というのは恐ろしいもので、自称だけのインチキ文献学者とか、インターネット上の文献をぱくって論文を書くような学者は、もう完全に淘汰されていると言っていいと思います。

ちなみに、昨年の10月31日が、ルターが95ヶ条の論題を発表し、宗教改革が始まって丁度500年でした。そういう節目の年にルターの発言の原典が見つかって感無量です。