古今亭志ん生の「まんじゅうこわい、三年目、三味線栗毛」

jpeg000 144今日の落語は志ん生の「まんじゅうこわい、三年目、三味線栗毛」。昭和33年、31年、31年の録音で志ん生の病前。録音もリマスタリングしてあり、悪くないです。
まんじゅうこわい」はおなじみのお噺。前座噺ですが、志ん生が演じると独特の味があります。
「三年目」は先日五代目三遊亭圓楽でも聴いたもの。怪談噺ですが、あまり怖くない変な噺です。幽霊は毛が伸びるのだろうか?という素朴な疑問を感じます。
「三味線栗毛」は、実在の酒井雅楽頭(さかいうたのかみ)にまつわるお噺。角三郎は酒井家の次男で部屋住みの身でしたが、按摩の錦木が按摩をやりながら落とし噺(落語)を語るのが気に入ります。ある時錦木が自分は検校になれる出世をする骨格をしていると人に言われましたが、角三郎も同じ骨格をしているので、大名になれる、と言います。角三郎はそれでは自分が大名になったら錦木を検校にしてやると約束します。で、角三郎は本当に大名になり…というお噺。落語というのは役に立つものですぞ、という所がミソみたいです。

白井喬二の「盤嶽の一生」(続き)

jpeg000 193白井喬二の「盤嶽の一生」の完全版(?)を入手し読了。新潮文庫版は、全体の半分くらいまでしか収録していなく、かつ章の途中で切っているというひどいものであることがわかりました。ただ、この完全版(?)でも話は完結していません。
盤嶽の真実を求める旅は続いて、後半部では、大人に絶望した盤嶽が今度は青年達に希望を託しますが、それもすぐ裏切られてしまいます。それで今度は子供に期待しますが、それもまた駄目でした。最後は赤ん坊に望みを託しますが、それも期待通りに行きません。
色々あって、盤嶽は、二人の子供と一人の老人と、またかつては自分を毛嫌いしていた叔父の娘と暮らし始めることになります。その後無実の罪で牢屋に入れられますが、無事脱牢する所で終わっています。
この話を読んで、盤嶽の生き方を見て、聖書の「義に渇く者は幸いである。」を思い出しました。聖書では彼らは満たされるとイエス・キリストは言っていますが、盤嶽の場合は決して満たされることがありません。この小説を白井喬二は完結させようにも、盤嶽にふさわしい結末をとうとう考えつくことができなかったのではないかと思います。
盤嶽の映画を最初に作ったのは名匠山中貞雄です。2度目のTVドラマの最初の2回はその映画を封切り時に観た市川崑によって作られています。盤嶽のキャラクターは名匠達の心を捉えていたようです。→白井喬二の「盤嶽の一生」、の最初の投稿へ