白井喬二の「源平盛衰記」(下)を読了。下巻は最初から最後まで、源義経の話です。前半で木曽義仲を宇治川の合戦で打ち破り、その後一ノ谷の戦い、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いと平家を三連続で大敗させ、ついには平家を滅亡に導きながら、その後頼朝から理不尽に憎まれ、平家を打ち倒した大功に対して報いられることもなく、最後は衣川の館で自害するまでを描きます。
壇ノ浦の戦いでは、平家の大将平知盛が、唐船という大きな船にわざと雑兵だけを乗せておき、名だたる武将はわざと小舟に乗せて、源氏の船が唐船をめがけて押し寄せてきたら、それを小舟で取り囲んで攻撃し殲滅を図る、という作戦を立てていました。ところが、阿波の民部重能(田口成良)という武将が、最初平家に味方しておきながら、戦いの途中で突然白旗をかかげて源氏に寝返っただけでなく、知盛の折角の作戦を源氏側にばらしてしまったため、源氏はこの作戦について対策できたということです。この重能の裏切りがなかったら、壇ノ浦の戦いは平家の勝利に終わっていたかもしれません。阿波弁でいう「へらこい」とは、この重能のような人を言うのでしょうか。
頼朝の義経に対する一貫したひどい態度は、弟の軍事的才能に対する一種の嫉妬なんでしょうか。それに対し義経は、もし自分で挙兵して兵を集めて頼朝と戦えば、かなりの確率で勝ったでしょうが、保元の乱のように、源氏が親子・兄弟で敵対して争うのは馬鹿げていると、ついにそれをしないまま死んでいきます。頼朝が実の弟を殺してまで樹立した源氏の政権である鎌倉幕府ですが、史実の通り、頼朝の直系はわずか三代で絶えてしまいます。因果応報というべきでしょうか。
白井喬二の「源平盛衰記」(下)
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