梶原一騎と合理性

マックス・ヴェーバーの学問の最大のキーワードは「合理性」で、ヴェーバーは西洋近代が他の文明から区別される最も顕著なものが「合理性」だと考え、その起源を探ることが彼の一生のテーマになりました。
この「合理性」は戦後の日本の社会科学の学者にとっては、便利な概念で、要は日本が戦争に負けたのは、日本が合理主義を十分に発達させることが出来なかったから、という形で受け入れられ、盛んに研究されました。それがピークに達するのが1960年代前半くらいで、何とそれは大衆文化にまで影響を及ぼしています。

ここで紹介するのは梶原一騎原作の漫画です。「巨人の星」で、星飛雄馬の投げる「消える魔球」に対し、外人選手のフォックスは「ア…悪魔ノボールダ!」といって驚きますが、それに対してTV中継のアナウンサーが「なにごとにも合理的な外人には理屈に合わぬ奇跡はいっそう恐怖をそそるのか…」と解説を付け加えています。まったく同じようなシーンが「新巨人の星」にも出てきて、星飛雄馬が投げる今度は「分身(蜃気楼)の魔球」が阪急ブレーブスのおそらくバーニー・ウィリアムス選手にショックを与えますが、それについての上田監督のコメントが、「ウ~~~ン!外人は考えかたが合理的 理論的やさかい ようけショックが大きいようやな」と関西弁(より正確に言えば徳島弁)で解説してくれます。外人といっても、フォックスはアメリカ、ウィリアムスはプエルトリコの出身ですが、ひとまとめに「外人」とされ、「外人は合理的」とされています。

「外人」を「合理的」とするステレオタイプの見方を導入するだけでなく、梶原は自分が提供する漫画原作にも「合理性」を持ち込みました。栗本薫が正しく指摘したように「消える魔球」は、梶原が初めて使ったものではなく、「巨人の星」の前にいくつもの漫画で既に使われていました。例えば福本和也原作の「ちかいの魔球」とか、一峰大二の「黒い秘密兵器」などです。(「黒い秘密兵器」のは正確に言えば「消える魔球」ではなくもっと荒唐無稽な魔球群ですが。)「巨人の星」の「消える魔球」が他と一線を画しているのは、その消える理由に「合理的な」説明を与えようとしたことです。その理屈は皆さんご存知だと思うので詳細は略しますが、今考えると無茶苦茶な理屈ながら、伴宙太から消える魔球の秘密を打ち明けられた川上監督は、「恐るべき理論的裏付けがある」と評します。梶原一騎は後に「侍ジャイアンツ」の「分身魔球」あたりになると、手を抜いてもはや魔球の合理的な説明を省くようになります。また「新巨人の星」の「蜃気楼の魔球」でも何故そうなるかはまったく説明されませんでした。しかしこの頃はまだ説明しようとする意欲がありました。

他のスポーツの漫画原作ではどうかというと、野球以外に梶原が得意とした柔道漫画にもその例を見ることができます。「ハリス無段」は東京オリンピックの直前の1963年に連載された梶原の最初の柔道漫画です。「ハリス」は「ハリスの旋風」と同じようにハリス食品(当時ガムで有名だった)とのタイアップ作品ですが、最初「科学的な柔道を追求する」「ハリス博士」という「外人」が登場し、主人公に「科学的な柔道」を伝授します。もっともこの博士は途中で主人公の敵にやられて死んでしまい、主人公は三船久蔵十段と知り合って、伝統的な柔道に戻ってしまい、この路線はきわめて不徹底でしたが。

「科学的な柔道」は、後にTV化され人気作となった「柔道一直線」の漫画の方でもう一度登場します。ここでは、ガリ勉でスポーツ音痴の秀才君が、昔スポーツが出来なくて女の子に笑われたのに発憤して、「物体ひっくりかえし科学」を完成し、力を使わずに相手選手を吹っ飛ばして、主人公の強敵として登場します。

以上が、梶原一騎の例ですが、他にも白土三平がその忍者漫画で、忍術を「合理的に」説明しようとしたことも例として挙げられると思います。(画像は白土三平の「サスケ」における「炎がくれの術」の「合理的な」説明。)

同じく1960年代に忍者ブームを作った山田風太郎も、その「忍法帖」シリーズに登場する荒唐無稽の極地のような忍法に、自身が医者であることからの「医学的」な説明を付け加えていました。例えばスパイダーマンのような忍者には、その唾液の中に「ムチン」と呼ばれる粘性物質が多く含まれているため、非常に強度を持った糸を吐き出すことができた、みたいなものです。

他にも60年代のSFブームも「合理性」と大いに関係があると思いますが、長くなりすぎたのでこの辺にしておきます。

吉川英治の「随筆 宮本武蔵」

吉川英治の「随筆 宮本武蔵」を読了。小説の方を読み直したののついでです。私の関心は、吉川英治が何故あのように「精神性」を重視した宮本武蔵像を描いたかということです。よく知られているように、吉川英治が「宮本武蔵」を書いたのは、元々菊池寛と直木三十五が武蔵が名人かどうかで論争したことに始まります。その時、菊池寛が名人派、直木三十五が非名人派で、直木にどう思うか聞かれて、吉川英治は名人派でしたが、その理由を聞かれて即答できなかったことが執筆のきっかけになっています。直木の「非名人説」はこの本を読むと、武蔵の剣豪としての実力を否定しているのではなく、吉岡一門との戦いで幼い者まで斬殺しているような武蔵の人間性が名人にはふさわしくないと言っているようです。青空文庫で直木の「巌流島」を読んでみましたが、ここでも直木は武蔵の技量を否定していません。
吉川英治が武蔵の精神性を高く評価するのは、主に武蔵が晩年熊本の細川家に在籍していた時に残した書物や絵などを見てそう判断しているようです。しかし私見では武蔵が五輪書を書いたのは60歳の時ですし、晩年の悟りきったような武蔵と若い頃のヤンチャしていた頃の武蔵とは同列には論じられないのではないかと思います。まあ戦前においては武道において精神性が重んじられていたのは否定しようのない事実で、吉川英治もその雰囲気の中で執筆しただけかもしれませんが。学生時代に、ドイツの新カント派の哲学者で戦前の日本に滞在した、オイゲン・ヘリゲルの「日本の弓術」という本を読んだことがありますが、ヘリゲルは日本の武道に禅などの影響を強く感じていて、かなり神秘的に描写されています。

「原田隆史」なる人の著作の詐欺広告

Facebookで「原田隆史」なる人が自分の本の広告をしているのですが、その中でAmazonで非常に高い評価を受けているとして、その画像が貼ってあります。(Amazonとはどこにも書いていませんが、誰が見てもAmazonのレビューです。)ところが、Amazonに行って実際に見てみたら、そんなレビューはどこにも存在しません。その広告している本の実際のレビューは多くの人が☆一つの酷評をしています。平均では☆☆☆になりますが、高い評価はどうも関係者がやっている臭いです。
何より、この広告で貼っているAmazonの画像が変です。実際のレビュー画像とは違います。(例えば☆のバックに色がついていますが、実際の画像にはありません。また評価スコアの分布を示す図も実際のものとは違います。)また、自分の本名を出してレビュー書く人は非常に少数派です。どう考えても捏造です。こういう詐欺広告に騙されないようにしましょう。

ジェームズ・スロウィッキーの「群衆の智慧」

ジェームズ・スロウィッキーの「群衆の智慧」を読了。この本を読んだ理由は二つ。以前、羽入辰郎の「マックス・ウェーバーの犯罪」というトンデモ本を巡る論争があり、それが北海道大学のある学者が主催するHPで論考を受け付けて公開するという形で羽入氏に対する反論が行われました。それに私も参加し、そこで出てきた論考が後に「日本マックス・ウェーバー論争」という本になりました。その終章のまとめの所で、矢野善郎という人が、私の書いたものを「群衆の叡智」の可能性を示すものと評価したことです。個人的には評価していただいたのは嬉しく思いますが、発表媒体としてWebを使ったというだけで、そのWeb上で出てきた多数の人の様々な意見が集約されて発展していった、というのとはかなり違うので、「群衆の叡智」という評価は私は的外れだと思います。
二番目は、昨年12月にネットで紹介された「Twitterユーザーの呼びかけで正体判明! 謎の巨大観音像写真から始まった歴史ミステリーに「鳥肌立った」「集合知の勝利」」という事件です。こちらは、あるユーザーが関西の寺院で見つけた、巨大な観音立像の正体をTwitterで問いかけた所、様々なユーザーから色々な情報が寄せられ、最終的に長崎のある孤島で戦前に作られた観音像であったことが突き止められるという感動的なストーリーです。こちらはまさに「群衆の叡智」のもっとも適切な例だと思います。
スロウィッキーは「群衆の智慧」という考え方を提唱し、少数の専門家の意見より、飛び抜けてレベルの高い人はいなくても、多様な人が集まった集団は、専門家よりもむしろ正しい判断を下すことが多い、というものです。
この考え方は、私は極めて「条件付き」で限定されていると考えます。リーマンショックの時に会社で研修があり、そのお題は「救命ボートで漂流している際に、船内にあるものを使って救助されてもらえる確率を出来るだけ高くする」というものでしたが、その時の討論グループ6名くらいで出した結論は、専門家の出した正しい答えとはまるで違っていました。スロウィッキーの論が成り立つためには、(1)ある程度以上の人数の集団が(2)それぞれが干渉し合わずに独立に考え(3)全員が問題解決の知恵を出し合う、という条件が必要です。現実的にはこういう条件が揃うケースは比較的少ないのでは無いかと思います。この本の中でも少数の集団がその中の過激な意見に引っ張られて極端になりやすいことや、他人の判断に付和雷同していく人が多くなって結果的にバブルのような現象を引き起こす例が紹介されています。
後、今の日本に示唆的なのは、今の日本は(1)多様性のない同質性の高い少数集団が(2)お互いに過度に依存しあって独立性が弱くなっている、状態で多くの間違った判断をしている、という状況に見えます。移民受け入れの議論と重なりますが、これからの日本にとっては「多様性」をどうやって実現するかが大きな課題だと確信しています。

吉川英治の「宮本武蔵」(戦前版)(圓明の巻)

吉川英治の「宮本武蔵」(圓明の巻、全六巻中の最終巻)を読了。第五巻まで読んでの予想通り、とうとう最後まで武蔵による「愛国的な発言」は出てきませんでした。強いて言えば、小次郎との決戦の前に弟子の伊織に再会し、伊織に次のように言います。「(前略)まだ若木のそちには、長い生涯があるが、それにせよ、生命(いのち)を惜しめよ。---事ある時、国の為、武士道の為、捨てるために、生命(いのち)は惜しむのだ。ーーー愛しんで、きれいに持って。潔く---」この所ぐらいです。左翼のジャーナリストの松浦総三の「吉川英治の戦中と戦後」によれば、戦後の六興出版版で書き換えられたり削除されたのは「敵を斃す」→「あいてを屈服させる」、「ーーー生命は珠よ。---捨て所」の「捨て所」が削除、「相手の息の根がとまるまでやっつける」→「やるまでやる」といった所で、主に暴力的な表現の箇所であり、武蔵による愛国的な発言など、戦前版から存在しなかったということになります。Wikipediaの記述は間違いです。
一方で、最後に付いている吉川英治の跋文には、国策に協力的な吉川英治の姿勢が明確に見て取れます。「(前略)執筆中でしたが、支那事変の勃発に際しては、北支の野に馳せ又、昨秋は海軍の遡江艦隊に従軍して、前後二回、征野の将士と共に生死の間に語る機会にもめぐまれました。迂作の中に、多少、生死の問題や人生の諦観や剣の意義について示唆するものありとすれば、そういう現実の教場に於て、生ける現代の武蔵から、直接与えられた影響も幾分かありましょう。」とあります。兵士を「生ける現代の武蔵」とするのがまた出てきています。
この作品が戦前の体制と同調している最大の点は、愛国主義などではなく、極端な「精神性」重視です。武蔵と小次郎の巌流島の戦いも、小次郎が徹底して「技」を重視するのに対し、武蔵は徹頭徹尾「精神性」にこだわった剣士として描かれています。このことが、この作品が戦前広く受け入れられた最大の原因と思います。裏返して言えば、剣士武蔵の「技術性」については、ほとんどと言っていいほど描写がありません。武蔵は二天一流の二刀流の創始者ですが、現実の武蔵は二刀で戦ったことはほとんどないとされています。また以前も書いたように、武蔵がどのようにして自己の技量を向上させたか、その点についてはほとんど記述がありません。
大衆小説として見た場合、お通の恋も、お杉ばあさんの執拗な武蔵への敵意も、最終巻できちんと解決が与えられていてこの点は好感が持てます。ただ、私個人の意見としては、大衆小説としては、何か別の方向に逸れていった異端の作品という思いは禁じ得ません。

「富士に立つ影」の映画(1942年)

白井喬二原作の「富士に立つ影」の映画版の内、1942年の大映版を観ました。
白井喬二は「盤嶽の一生」を名匠山中貞雄が映画化したものについては、「戦死せし山中貞雄をしのぶかな 盤嶽の一生 あの巧さ 良心 映画のふるさと」という歌を詠んで激賞しています。
しかし、「富士に立つ影」の3回の映画化、1回のTVドラマ化については、「映画 テレビの 富士に立つ影の不できさに 愚鈍のわれも怫然としぬ」と詠んで、まったくお気に召さなかったことがわかります。
で、本当の所はどんなものかと思って、この1942年版(阪東妻三郎主演)を観たのですが、作者の嘆きがよく理解できました。確かにこれは非道すぎます。映画に出来るのは第1巻の「裾野篇」だけで、原作では悪役が勝ってしまうので、映画ではストーリーを変えざるを得ないのは理解できます。しかし、この映画では熊木伯典(悪役)と佐藤菊太郎(主役、阪東妻三郎)の単なる外面的な争いとしてしか描かれておらず、最後は菊太郎が伯典の陰謀の証拠を突きつけて、正義が勝って一件落着という落ちに単純化されてしまっています。また菊太郎のキャラクターもかなり変えられていて、賛四流の跡取りで満足せず、自身の流儀を起こそうとする野心家に描かれています。また、喜運川兵部の娘のお染も、原作では菊太郎を慕いますが、この映画では他に男がいるという身も蓋もない設定です。何故こうしたかというと、映画の主演女優を「お雪」にするためで、原作では単に庄屋の娘(後に色々あって熊木伯典の妻になる)ですが、この映画では菊太郎を慕って、菊太郎を助けるために縦横無尽の活躍をします。このお雪を演じているのが橘公子で、私が好きな女優です。橘公子が出ている映画としては、やはり阪東妻三郎主演の「狐の呉れた赤ん坊」を観ましたが、そっちより今回の映画の方が橘公子が魅力的です。特に実地検分での馬競争(原作では牛追い競争)で、菊太郎が雇っていた名人の馬方が伯典に脅されて寝返ってしまったのを、お雪がいきなり馬に飛び乗って馬を追い、この競争を勝利に導きます。つまりこの映画はほとんど「フィーチャリング 橘公子」であり、橘公子の存在が戦前は非常に大きかったことがよく分かります。
そういう訳で、白井喬二の映画としては最低に近いですが、個人的には橘公子をたくさん見られたので、その点は良かったです。

English Journal 2018年3月号

English Journalの2018年3月号について。この号で買い始めてから丁度丸4年になります。
しかしながら、この号はこの雑誌の悪い所が出ていると思います。
(1)収録CDが今号は60分弱くらいしかない。ちなみに先月は80分近くありました。私は、まず一回通して流し聞きし、次に30分ずつ2回に分けてテキストを見ながら聴くというのを2回やります。時間が毎月大幅にぶれるとこうした計画的な学習がやりにくくなります。
(2)特集記事の意味の無さ。今号の特集は、「TOEICテストが劇的にアップする「コスパ最高の」英単語」ですが、挙げられているのが、「上級語49」となっているので、delivery(配送、配達)、material(素材)、production(生産)、application(申込書)などで、どこが「上級」なのか理解に苦しみます。上級じゃないのは、interview(インタビュー)、busy(忙しい)、position(位置)、market(市場)とかではっきり言って中学生レベル。そりゃこのレベルの単語を知らない人がこれらを覚えればTOEICの点数はアップするでしょうが、この雑誌を買って読むような人はそんなレベルじゃないと思います。(そうじゃないと英語の生インタビューなんか聴いてもまったく理解できず役に立たないでしょう。)

要はこの記事は、TOEICの問題を集めて、その中から頻出する単語を抜き出したんでしょうが、大半の人がそのレベルは知っているので無意味です。むしろ出現頻度は低くても、例えばproduceに「生産する」という動詞だけではなくて、「農産物」という名詞の意味があるといったそういうことを覚えるのが必要だと思います。実際にこの意味で出題されたことがあります。

NHK杯戦囲碁 余正麒7段 対 瀬戸大樹8段

NHK杯戦の囲碁は準々決勝第1局で、黒番が余正麒7段、白番が瀬戸大樹8段の対戦です。同じ関西棋院同士で、対戦成績は瀬戸8段から見て5勝2敗だそうです。対局は左上隅で黒が小目の白に一間高ガカリし、白が下に付けて定石が進行し、黒がカケ継いで白がケイマに受け、そこで黒は手抜きで左下隅の白の星に対しいきなり三々に入りました。この手はAIの影響による最近の流行です。ポイントはどちらが先手で切り上げ左辺の開きまたはハサミに回るかです。白は三本延びてから下辺をハネ、さらに隅からハネて、また下辺から二段バネしました。黒は二段バネに一本キリを入れてから隅で1子を切り取りました。ここで白は切った黒の1子をカケて制圧していれば本手でしたが、下辺を開いて頑張りました。左辺の開きは黒が打つことになりました。後に黒は白がカケて制圧しなかった1子を立って動き出しました。この後の折衝で、黒は強く下辺の白に付けたのが好手でした。白はハネて反発しましたが、黒が下から当て返して、白が1子を抜いた後、黒はさらにアテを利かそうとしました。これに対して白が継ぐのは利かされ、また切って劫を仕掛けるのは、大きすぎて劫材がありません。そこで白は黒の右下隅の二間ジマリに中から付けていき、戦線を拡大しました。白の右下隅の打ち方は多少無理気味でしたが、結局白は隅の黒の数子を取って治まりました。しかしその間に黒は下辺を2手打ち、下辺に大きな地を作りまた好形になりました。白は切り離された石を逃げねばならず、その反動で左辺の白も非常に薄くなりました。ここで黒の優勢が確立しました。その後黒は左辺の白を攻めましたが、途中までで保留し、一転して上辺に打ち込みました。この黒のしのぎで右上隅の白のシマリに付けていったのも好手で、黒は活きるのには苦労しなくなりました。この状態で黒は左辺の白への攻めを再開し、約半分をもぎ取って左辺も大きな地にしました。白としては最後のチャンスは上辺からの黒を全部取ることでしたが、前述したように黒は先ほどの好手で上辺に半眼ある上に、白は各所で連絡が不完全で、黒を取ることは不可能であり、ここで投了となりました。ちょっと一方的に余7段の好手ばかりが目立った一局でした。

吉川英治の「宮本武蔵」(戦前版)(二天の巻)

吉川英治の「宮本武蔵」の「二天の巻(全六巻中の第五巻)」を読了。この巻でも特に武蔵に愛国的な発言がある訳ではなく、多少目立つのは、小手指の古戦場で足利尊氏と新田義貞の戦いを振り返って、尊氏を明らかに逆賊として描写していること。足利尊氏が逆賊とされるようになったのは、水戸光圀が「大日本史」を表してからで、この武蔵の頃にそんな考え方はまだ存在しません。また、武蔵の弟子の伊織が朝日を見て「天照大神」と叫ぶこと。いずれの点もGHQに検閲される程のものではありません。
ちなみにこの巻では、佐々木小次郎が主人公が強くなるのに合わせてこちらも強くなり、ついには小野派一刀流の始祖であり、柳生家と並んで将軍の師範であった小野次郎右衛門忠明まで破ります。もちろん史実にそんなことはないと思います。ちょっとこの小次郎の描写で思うのは「巨人の星」に出てきた速水譲次の性格設定と良く似ていることです。これまでの日本の大衆小説では、机龍之助のようなニヒルで冷酷な剣士か、あるいは富士に立つ影の熊木公太郎のような明朗快活な剣士かでしたが、それに比べると新しいキャラクター設定のように思います。
後一巻になりましたが、Wikipediaに書いてある、「武蔵が愛国心を語る場面」は最後まで出てこないように思います。削除されたのは、残酷さが行き過ぎている描写とかそういう所ではないかと思います。

吉川英治の「宮本武蔵」(戦前版)(空の巻)

吉川英治の「宮本武蔵 空の巻」(戦前版)、全6巻の内の第4巻を読了。この巻になって、ようやく戦前的な描写が出てきました。それは、伊達政宗の臣下で、武蔵をスカウトしようとする石母田外記という侍が、武蔵に対し伊達政宗の人柄を紹介するのに、正宗が皇室を何より重んじ、肚から勤王家である、という説明をします。一応調べてみましたが、歴史的な事実として正宗が勤王家であったなどというのはどこにも出てこず、これは吉川英治による脚色だと思います。ただ、青空文庫で「戦後版」を見てみましたが、この部分は削除されずにそのままです。そうすると、吉川英治が戦前版を書き直して一部削除したのは、1949年~1950年出版の六興出版版だけで、その後の版はまた戦前版に戻したのかもしれません。この辺りを確かめるため、六興出版版の一部を取り寄せ中です。
この巻の最後の「跋」には、しかしながら、本当に時代に迎合していた吉川英治がよくわかる文章が入っています。以下引用します。「征戦の皇軍中には、現代の生ける宮本武蔵が、無数にいるのである。すでにかなり盡(つく)した古人武蔵の史料をなお机に漁らんよりは、生ける武蔵に親炙して、親しく学ぼうと思うのである。涼秋八月、長江の血河に筆を洗って、次の構想を、腹いっぱい、大陸の銀河から吸いこんで来ようと思うのである。」