二代 大島伯鶴の「寛永三馬術 度々平住込み」「寛永三馬術 平九郎浪人の巻」

二代 大島伯鶴の「寛永三馬術 度々平住込み」「寛永三馬術 平九郎浪人の巻」を聴きました。間垣平九郎は、将軍家光の前で、愛宕神社の男坂という絶壁のような急な石段を馬で駆け上がり、梅の枝を手折って駆け下りてきて、家光よりお褒めをいただいて出世した、という伝説の人です。そのお話は「寛永三馬術 出世の春駒」というお話ですが、このCDに入っているのはその後日談で、讃岐に戻った平九郎が度々兵という筑後の柳川からやってきた男を仲間としますが、その度々兵が藩の重役の弟といさかいを起こして、結局浪人するまでの話です。大衆小説は最初「新講談」と呼ばれましたが、確かに講談のお話の調子は初期の大衆小説に近いですね。

ちなみに「出世の春駒」はCDなどは出ていませんが、ここで聴くことができます。

NHK杯戦囲碁 本木克弥8段 対 志田達哉7段

本日のNHK杯戦の囲碁は黒番が本木克弥8段、白番が志田達哉7段です。今期のNHK杯戦も本局を入れて後5局です。布石はタスキ型の左辺がケンカ小目という懐かしさのある進行です。しかし左下隅は白が付けたのに跳ねて白が引いた後、カケツガないで2間に開いてという最新の定石です。しかしその後白が2線に置いていってという手順の後が少し違い、白は左辺で多少の地を取りましたが、黒は後手ではあるものの、白の2子+2子を取った姿は非常に厚く黒の有利な分かれだったと思います。その後上辺から白が右上隅にかかったり、黒が下辺を広げたりしました。下辺は40目近くあり、普通は何か入っていく手段を検討しますが、志田7段は白も各所で地を持っており、遅れていないという判断のようです。上辺のかかった白を挟んでいた黒へ白が攻めを見せ、黒が中央に飛んだ後、白は左辺の黒に2線のノゾキを打ち、黒地削減とあわよくば左上隅にかかった黒への攻めを狙いました。黒は覗かれた所を継がずに捨て石気味に打っていましたが、そこの折衝で黒が白1子をアタリにしたのに白は延びずに左辺を取り切り、黒のポン抜きを許しました。このポン抜きは上辺の黒への支援になっており、そうなると右上隅からの白が狙われる可能性もあり、黒が打ちやすい感じでした。しかしその後黒が上辺の白に打ち込んで行きましたが、白は非勢を意識してその黒にかけて打つという最強の手段を選びました。それに対して黒は右側の白に押しを2回打ち、その後かけられた黒を動き出しました(写真の局面)。しかし黒には何かの誤算があり、結局この動き出した黒は攻め取りながら取られてしまいました。一応黒は締め付けることは出来ますがそれがほとんどダメみたいな所でうれしくありませんでした。こうなると最初右側の白を2回押したのが下辺の黒地を減らすことになっており、ここではっきり白が優勢になりました。その後黒はヨセで頑張りましたがコミを出せず、白の中押し勝ちになりました。志田7段はベスト4進出です。

獅子文六の「金色青春譜」

獅子文六の、「金色青春譜」を読了。表題作と「ダルマ町七番地」、「浮世酒場」の3作を収録。「金色青春譜」は獅子文六としての最初の長めの作品で、1934年(昭和9年)に雑誌「新青年」に掲載されたもの。「新青年」はモダニズムで有名な雑誌ですが、そうした雑誌に載っただけあって、実にスタイルがモダンで、現代でも十分通じそうです。むしろ椎名誠とかの昭和軽薄体って、元祖は獅子文六じゃないのかな、とさえ思います。カタカナを多用し、獅子文六らしく英語やフランス語をまき散らし、また漢字に本来の読みとは違うルビを振る…これは小林信彦が書いていましたけど、簡単そうに見えて実はかなりセンスが必要です。お話はタイトルからわかるように、「金色夜叉」のもじりで、大学生のようなインテリ相手の金融業をやろうとするガッチリ太郎こと香槌利太郎(かづちりたろう)が主人公。また小津安二郎の「大学は出たけれど」が1929年で大変な就職難の頃で、そういう意味で就職し損ねた3人の学生がからみ、更に大金持ちの未亡人と利太郎の元で喫茶店の女店員をやっている女性が香槌を巡って争います。しかし最後は美女2人はまるで姉妹のように仲良くなります。「悦ちゃん」でも「信子」でも世代の違う女性2人が助け合う、という話があり、この頃の文六の得意パターンのように思えます。まあお話はどうってことないです。
「ダルマ町七番地」は珍しや、文六のフランス滞在時の体験を色々生かした作品のようで、パリに巣くう日本人留学生達の物語で、そのうちの一人が身投げを装った素人女性もどきに騙されて有り金を全部盗まれたりします。
「浮世酒場」は、銀座八丁の安飲み屋「円酔」に集まる酔客達を描いた話。当時の世相がよくわかります。また軍記作家の景気が良い、というのがあって、この頃から大衆作家の作品が雑誌から減っていて軍記作家の戦争物が増えていったということが分かります。レズビアンが出てくるのが時代を先取りしています。

桑原武夫著の「『宮本武蔵』と日本人」

桑原武夫著の「『宮本武蔵』と日本人」を読了。この本で、桑原武夫は私がやりたかった、「宮本武蔵」の戦前版と戦後版の比較をきちんとやってくれています。また、1949年の六興出版版で「戦後版」に変わり、以降の出版でまた「戦前版」に戻ったという事実はなく、現在「青空文庫」で公開されているものもこの「戦後版」です。
以下、桑原の調査による改訂内容です。
(1)思想的な関連はない単なる表現の変更
例:「孤児の知らない骨肉の愛」→「孤児に恵まれていない愛の泉」
桑原の推定によれば、改訂の約半数はこうした単なる表現の変更。
(2)「殺人」や「死」のイメージのソフト化
例:「敵を斃す」→「相手を屈服させる」
「もう死んでいるはずの自分ではないか」→「もう宇宙と同心同体になっているはずの自分ではないか」
(3)戦争や侵略のイメージのぼかし
例:「あの征韓の役の折」→「あの役の折」
「神功皇后さまが、三韓を御征伐なされた折」→「神功皇后さまが、三韓へ御渡海なされた折」
(4)封建主義的な単語の書き換え
例:「讐討(かたきうち)」→「返報」
(5)皇室崇敬的な表現の削除
ここが、削除された量では最大なので、その典型例を「戦前版」(大日本雄弁会講談社の特装版)と「戦後版」(「青空文庫」で公開されているもの)を丸ごと引用します。

宮本武蔵 火の巻 「冬かげろう」の五より
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戦前版
 荒木田氏富は、自分の邸を学之舎と名づけて、学校に当てていた。そこに集まる生徒は、ここの可愛らしい巫女のみに限らない。神領三郡のさまざまな階級の子が四、五十人ほど通って来る。
 氏富は、今の社会の誰もすてて顧みない学問をここで幼い者たちに教えていた。それは国の中央部ほど軽んじられている国体学であった、つまり国学であった。
 神領の子女が、その学問を知ることは、この伊勢の宮を守る上にも、重要なことであるし、またこの日本の総体の上からも、今の時代のように、武家の盛大が、国体の盛大かのように見えて、伊勢の宮のこのさびれ方が、国のさびれとは誰も思わないような世の中に、せめて、神領の民の中にだけでもほんとの魂の苗を植えておけば、いつかは生々とこの神宮を中心に、民族的な精神の森が茂る日もあろうか--という、これは彼の悲壮な孤業なのであった。
 むつかしい古事記や、神皇正統記などを、氏富は、子どもの耳になじむように、愛と根気をもって毎日話した。彼はまたよく、歴代の天皇の御詔勅というものを例に出して、童幼に聞かせた。(--あなた達は、御詔勅というと、何か、自分たちの生活とは縁の遠い政治のことだけと思っているだろうが、それは大きな間違いである。御詔勅とは、天皇のおことばである。天皇が民にじかに仰っているおことばです。だから今日まで歴代の天皇が民へ下されたおことばの数は実に数千というかずにのぼっているのです。--けれど、どうしてでしょう、そんなに沢山ある高御座から民へのおことばが、われわれ民の耳には十分に届いて来ない。数ある御詔勅の中には、われわれ日常の労働のこと、病人のこと、家庭のことなど実生活についての御心配をはじめ、役人が民をいじめるとそれを叱って下すったり、天候がわるいにつけ、悪病が流行るにつけ、民へおことばを賜っている。--それだのに、民はつんぼのように、今日まで数千という御詔勅を、いたずらに、無用の古文書のように、捨てて顧みる者もなく、思い出してみる民もいない。)
 氏富が、そんなふうに、嚙んでふくめるように、十数年、倦むことなく、教育しているせいか、この伊勢では、豊臣秀吉が関白として天下を掌握しようが、徳川家康が征夷大将軍となって今、威を四海にふるって見せようが、一般の世間のように、英雄星を太陽とまちがえるような錯誤は三歳の童児も持っていない。
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戦後版(青空文庫よりコピー)
 荒木田氏富は、自分の邸を学之舎と名づけて、学校に当てていた。そこに集まる生徒は、ここの可愛らしい巫女のみに限らない。神領三郡のさまざまな階級の子が四、五十人ほど通って来る。
 氏富は、今の社会ではあまりはやらない学問をここで幼い者たちに教えていた。それは文化のたかいという都会地ほど軽んじられている古学であった。
 ここの子女が、その学問を知ることは、この伊勢の森がある郷土としても、ゆかりがあるし、国総体の上からも、今のように、武家の盛大が、国体の盛大かのように見えて、地方のさびれかたが、国のさびれとは誰も思わないような世の中に、せめて、神領の民の中にだけでもこころの苗を植えておけば、いつかは生々とこの森のように、精神の文化が茂る日もあろうか――という、これは彼の悲壮な孤業なのであった。
 むつかしい古事記や、中華の経書なども、氏富は、子どもの耳になじむように、愛と根気をもって毎日話した。
 氏富が、そんなふうに、十数年、倦むことなく、教育しているせいか、この伊勢では、豊臣秀吉が関白として天下を掌握しようが、徳川家康が征夷大将軍となって、威をふるって見せようが、世間一般のように、英雄星を太陽とまちがえるような錯誤は三歳の童児も持っていない。
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こうして比較すると、かなりの量の削除が行われていることが分かります。「神皇正統記」が「中華の経書」と書き換えられているのも、姑息と言えば姑息です。

しかしながら、桑原武夫も指摘しているように、こうした改訂が戦前版と戦後版の内容を根本的に違うものにしているかというと、そんなことはありません。元々この小説は武蔵の「道」を求める修行が中心的内容であって、皇室賛美などは付属的なものに過ぎません。

久野暲・高見健一著の「謎解きの英文法 単数か複数か」

久野暲・高見健一著の「謎解きの英文法 単数か複数か」を読了。最近EigoxやAEONで英語をしゃべっていて、よく迷うのが動詞を単数で受けるか複数で受けるかということ。その辺りの知識を整理するために読みましたが、なかなかに有益でした。まずは学校文法で十把一絡げに「集合名詞」と呼ぶものの中に、team, familyのように数えられるものと、cattle, policeのように数えられないものが混在していることを明らかにしてくれます。しかもcattleの場合は、a cattleは駄目だけど、two cattle (two cattlesではない)はOKというなかなか混乱することが書いてあります。また、アメリカの野球チームのThe Boston Red Soxは複数形で受ける、何故ならSoxは元々Socksだから、なんてのは知らないとまず間違えます。(野球チームは原則複数で、日本のHiroshima Carpも見た目は単数形だけど、この場合Carpが単複同形で複数形と見なすべきだそうです。)また私は会社については複数の人が働いているという意識でつい複数で受けてしまいますが、それはイギリス英語で、アメリカ英語の場合なら、General Motorsのように名称自体が複数形になっていても単数で受けなければならないことを再度確認できました。また、none of usの後はisかareというのは、50年くらい前まではisが正しいとされていたのが、今は複数で受ける人の方がはるかに多い、などなかなか目から鱗でした。それがNeither of themの後だと、書き言葉で正しくは単数で受けるけど、話し言葉では単数を使うとものすごく文法の細かい所にこだわっている感じがして却って不自然と思われるなど、なかなか一筋縄ではいかないことが理解できました。また、Nobody can see himself directly. に付加疑問文をくっつけると、Nobody can see themself directly, can they? になるなんて言うのは細かすぎて初めて知りました。この場合のthemselfはthemselvesの間違いではなく、himself or herself という意味です。
そんな感じで、この本では英和辞典の記述も結構当てにならないことがいくつか例示されています。

マイケル・ウォルフの”Fire and Fury”

マイケル・ウォルフの”Fire and Fury”をようやく読了しました。と思ったらもう来週日本語訳が出るのね…苦労して読んで時間を無駄にした感が…
英語自体もスラングみたいなのが多くて易しくないのですが、それ以上にいっぱい出てくる人名や団体名にほとんどなじみがないので、ついていくのが大変でした。(これでも2年半くらいCNNを聴き続けて、それなりに知っている筈ですが、それでも。)またトランプ陣営を支える人達も次から次に更迭されて変わっていくので、これまた大変でした。(日本語訳はすごいスピードで出てきましたが、そういうのにちゃんと注釈を付けてくれているのでしょうか。)
この本は200人以上に取材したそうですし、また著者は以前やはりトランプに関する本を出していて、その本がトランプのお気に召したので、「壁の上のハエ」のような感じで取材を許された、とありますが、どこまで本当か分かりません。ただ、感じるのは全体がトランプがいかに馬鹿で大統領にふさわしくなく、またトランプ陣営がいかにアマチュア的で混乱している上に、内部の対立も激しく、というある種の先入観を前提に全体が構成されているような感じで、事実を淡々と積み上げるという感じではまるでありません。ただ、トランプの性格として、陰謀を企むというより、「皆に好かれたい」だけだという指摘は当たっているように思います。
陰謀という意味では、スティーブ・バノンで、全体を通じてバノンの異常さというのが最初から最後まで頭を離れませんでした。2020年の大統領選への出馬を検討していると書いてありますが、本気なんでしょうか。
トランプ政権の最初の数ヶ月は、そのバノンとジェリバンカ(ジェラード・クシュナー+イバンカ)、そして根っからの共和党のラインス・プリーバスの間の激しい主導権争いの中、非常に混乱しながら進んでいきます。私は知らなかったのですが、ジェラード・クシュナーのお父さんは民主党への大口献金者なんだそうです。そういう訳で政権の中ではリベラルな方のジェリバンカとバノンが特に対立します。
読んでいて、この1年のトランプに関する不快なニュースを逐一また思い出すことになり、何というか楽しくない読書で、「何でこんな馬鹿な奴らの話を読まなければならないのだろう」という思いでいっぱいでした。でも、この本がアメリカで売れているのは、アメリカ人にとっても未だにトランプ政権とは何なのかがよく分からないからだと思います。

ちばてつやの「おれは鉄兵」と村上もとかの「六三四の剣」

今まで誰も指摘しているのを見たことがありませんが、ちばてつやの「おれは鉄兵」と村上もとかの「六三四の剣」には結構共通項があります。といっても、「六三四の剣」の方が後なので、村上もとかがちばてつやの影響を受けているというのが正しいのでしょう。むしろオマージュと言ってもいいかもしれません。ちばてつやは村上もとかの漫画のファンのようなので、別にちばてつやも何も気にしていないと思います。

(1)「六三四の剣」で六三四が小学生の時に中学校の剣道部に武者修行に行って、そこで出会う剣道部の主将が、「おれは鉄兵」の東大寺学園剣道部の一人にそっくり。(2)「おれは鉄兵」で鉄兵は、中学生大会の個人戦で、菊池と対決するのに、菊池のお祖父さんに、「竹刀を弾き飛ばされないように」というヒントを受け、それが「巻技」だと思って急遽その技を身につけます。「六三四の剣」では小学生の大会で、東堂修羅が六三四との対戦で追い詰められて「巻技」を使います。
(3)「おれは鉄兵」では結局菊池の取って置きの技は巻技ではなく「木の葉落とし」でした。この「木の葉落とし」は「打ち落とし」(面打ち落とし面)です。「六三四の剣」で高校生の大会で修羅がこの技を決め技とします。

機械式印刷によるファクシミリ版について

私は、「羽入式疑似文献学の解剖」(PDF版P.8)の中で以下のことを書きました。
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なお、ファクシミリ版というのは、オリジナルの各頁を写真に撮り、それを元にオフセット印刷の版を作成し(あるいは近年ではDTP技術で)、新たに本物に似せて印刷し直したレプリカである。このオフセット印刷自体の発明が1903年から1904年にかけてなので、当然のことながら、ヴェーバーが「倫理」論文を執筆していた時にはファクシミリ版は存在していない。(他の方法による復刻版が存在していた可能性は否定しないが、いずれにせよ今日のファクシミリ版のように一般的に入手できるものはほとんどなかったと推定する。)
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この中で、「ヴェーバーが「倫理」論文を執筆していた時にはファクシミリ版は存在していない。」というのは間違った記述でした。読まれた方にお詫びします。ファクシミリ版は、写真印刷の技術がまだない機械印刷の時代にも存在していました。(ちなみに、書類を電送する装置であるいわゆる「ファクシミリ」よりも、「ファクシミリ版」の方が「ファクシミリ」という言葉にかけては先です。ラテン語の”fac simile”{似たものを作る}から来ています。)このことに気がついたのは、今読んでいる「テクストとは何か 編集文献学入門」(明星聖子+納富信留 編)の中の「聖なるテクストを編集する ---新約聖書」(伊藤博明)の中に、フリードリヒ・コンスタンティン・フォン・ティッシェンドルフという人が19世紀に、新約聖書の写本のファクシミリ版を多く出版した、とあることからです。

なお、マリアンネ・ヴェーバーの「マックス・ウェーバー」の1903年6月9日の記事に、「私はレンブラントの炭素写真版(カーボンプリンティング)版を買わずにはいられなかった。それはたしかに原画を見ているものにしか完全な理解を与え得ないものだがね。」というのがありますが、ここでヴェーバーが言及している「炭素写真版(カーボンプリンティング)」は、初期の写真技術を利用したファクシミリ版のようなものではないかと思います。ヴェーバーが言っているように、しかしそれはオリジナルからかなり劣化したコピーに過ぎず、今日のファクシミリ版とは品質がまるで違います。

という訳で、ヴェーバーの時代にもファクシミリ版は存在していました。ただ、今日のように隆盛を極めている訳ではなく(今たまたま確認したら、1560年のジュネーブ聖書のファクシミリ版がAmazon日本で¥8,351で買えます)限定されたものであると考えられ、特にイギリスの欽定訳聖書より前の古聖書のファクシミリ版が一般に出回っていたとは想定しにくいです。

なお、ついでですが、上記のヴェーバーについての記述は、ヴェーバーがオランダに滞在している時のものです。ウィリアム・ティンダルの最初の英訳聖書が印刷されたのはアントウェルペンですし、その後ジュネーブ聖書についても、海賊版という形でアントウェルペンで大量に印刷されました。もしかすると、ヴェーバーが各種英訳聖書の現物を手に入れたのは、このオランダ滞在中だったのではないか、と思うようになりました。

Public romance in Japan (5) — The life of Kyoji Shirai and his works (1)

Kyoji Shirai’s photo (from his autobiography) when he was living at Asahigaoka, Nakano in Tokyo (1926 – 1933). Kyoji loved slow but steady steps of a cow, and he practiced “Fabian tactics” in literature.

As I stated in the previous article, Kyoji Shirai was one of the most important novelists in an emerging stage of public romance. Let me now describe his life and some of his works in detail.

Kyoji Shirai was born in Yokohama in 1889, as the first son of Takamichi and Tami Inoue, who were both from Samurai (warrior) class of Tottori prefecture. When he was born, Takamichi was working as a policeman of Yokohama city. Kyoji inherited the sense of justice from his father. Because of the frequent changes of his father’s working place, Kyoji kept on the move from Ome, Kofu, Urawa, and to Hirosaki in Aomori prefecture. In 1902, he finally settled in his parents’ home town, Yonago in Tottori. While he was attending Yonago east high school, he wrote two novels and they were put in two local newspapers, showing his precocious talent as a writer.

He entered then Waseda university but he soon moved to Nihon university by his father’s request that he should become a lawyer. While he was studying at Nihon university, he translated many works of Saikaku Ihara (“井原西鶴”) and Monzaemon Chikamatsu (“近松門左衛門”) into the modern Japanese for Hakubunkan (“博文館”), which was one of the biggest publishers at that time in Japan. These works gave him deep knowledge of the Japanese literature in Edo period, and he utilized many episodes or anecdotes in this period later in his works.

After he graduated Nihon university, he started to work at a few publishers and got married with Tsuruko Nakajima, a daughter of a baron Masutane Nakajima, in 1916.
In 1919, he wrote “Kai-kenchiku juni-dan gaeshi” (“怪建築十二段返し”) as his first work under the name “Kyoji Shirai” and the manuscript was offered to Hakubunkan. The publisher put the work in the January issue of “Kodan zasshi” (“講談雑誌”) in 1920. This first work was welcomed and he received requests for other works one after another. Ryunosuke Akutagawa (“芥川龍之介”) praised Kyoji’s “Ninjutsu Koraiya” (“忍術己来也”) enthusiastically and “Shimpen Goetsu Zoshi” (“神変呉越草紙”) also got a favorable reception.

In 1924, he started to write two most famous works, namely “Shinsen-gumi” (“新撰組”) and “Fuji ni tatsu kage” (“富士に立つ影”), and established his fame by these two great novels. The former was put at the head of a weekly magazine “Sunday Maichini” (“サンデー毎日”), which was the first weekly magazine in Japan, and the magazine could get enough number of readers to survive as an independent magazine by his novel. The latter was serialized in the Hochi newspaper (“報知新聞”), which was one of the biggest newspapers at that time, and it continued for more than 1000 times. The hero in this novel, Kimitaro Kumaki (“熊木公太郎”), attracted the readers overwhelmingly by his honest and decent character. As I introduced before, Ryunosuke Tsukue (“机龍之助”) in Dai Bosatsu Touge (“大菩薩峠”) was the first typical character type in public romance with his nihilism and cruelty, but Kyoji created then a completely different type of bright character with this novel. (to be continued)

NHK杯戦囲碁 芝野虎丸7段 対 今村俊也9段

本日のNHK杯戦の囲碁は準々決勝で黒番が芝野虎丸7段、白番が今村俊也9段の対戦です。芝野7段は今各棋戦で勝ちまくっていますし、NHK杯戦でも先日張栩9段に見事な勝ちを収めました。そういう絶好調の芝野7段に今村9段がどう対処していくかが見所でした。今村9段といえば、「世界一厚い碁」と言われていますが、4手目で三々に打ちました。先日もやはりNHK杯戦で三々を打っています。それもあって本局は今村9段が三隅を取って地で先行し、対する芝野7段が右辺から下辺にかけて模様を築く展開になりました。今村9段はこの模様を下辺の黒への肩付きから消しに行きましたが、芝野7段もこの白を追い立て、右辺と下辺の両方を広げました。その後黒は左下隅の白に付けていって下辺を広げ、右辺は白に打たせるという作戦でした。対して白は右上隅の黒の壁にくっついている1子を動き出しました。黒はこの動き出した白を攻めましたが、取ることは不可能で、結局白は活き、その代わり黒は中央が厚くなりました。その後黒は左上隅の三々に入りましたが、白は二段バネで打ち、結局隅は白が取り黒は白1子を抜いて左辺に展開しました。その後黒は左下隅の白にアタリを打ち、この白を攻めることを計画しましたが、白は左辺に二間に開いてこれをかわしました。黒はその後上辺に打ち込みましたが、白は右上隅からの石から一つ押した後、空き三角に打ちました。空き三角は愚形の代表格で通常プロは打ちませんが、この場合は回りの黒が強いので好手でした。黒はここを続けて打たず左辺に回りました。その後白は右上隅からの石を強化し、上辺に打ち込んだ黒を攻めました。その折衝で、左辺方面に石が来たため、白は左辺の黒に打ち込みました。ここの戦いで白は一旦左辺上部の黒を取り込みました。しかしその代償で左下隅からの白が薄くなりました。その後の折衝で、結局白は左辺を捨て、黒の取られていた一段が復活し左辺が左下隅からの通しで黒地になったので黒は大きな戦果を上げました。しかし白も中央の黒3子を取り込んで厚くなり、これが右辺の黒の厚みを消していていい感じでした。ここのやりとりで白の優勢が確立したようです。終わってみれば白の今村9段の3目半勝ちでした。故藤沢秀行名誉棋聖もそうでしたが、厚い碁を得意とする人はむしろ50歳を過ぎてから本当の力が出る事が多いようです。今村9段はこれで準決勝進出です。