ラインハルト・ベンディクス著、折原浩訳の「マックス・ウェーバー その学問の包括的一肖像」(上・下)

ラインハルト・ベンディクス著、折原浩訳の「マックス・ウェーバー その学問の包括的一肖像」(上・下)を読了。原題は、”Max Weber: An Intellectual Portrait”で1960年が初出。日本語訳は同じく折原浩訳で1966年に中央公論社から一冊本で出ています。今回読んだのは、それを三一書房が上下二冊本として1987年に再版したものです。訳者の折原浩氏は私の大学の恩師です。著者のベンディクスは、1916年にドイツに生まれたユダヤ人の社会学者で、若い頃ナチスに対抗するユダヤ人組織に所属していましたが、1938年にアメリカに移住しています。1969年にアメリカの社会学会の会長に選ばれています。
この本は、マックス・ヴェーバーが1920年に亡くなって40年間、その学問については断片的な利用ばかりで、全体像をきちんと振り返る人が誰もいなかったのを、初めてまとめた労作です。そういう研究は本来ならヴェーバーの祖国の学者が行うべきものと思いますが、ヴェーバーの死後のドイツは社会学がマルクス系と国家社会主義系に分裂し、そのどちらもヴェーバーを重視しませんでした。戦後においても、ドイツではヴェーバーの全体像を探ろうとする動きは見られず、一方で以前紹介したモムゼンのヴェーバー批判のような、ヴェーバーの政治的な面のみが注目されたりしました。そういう中でこのベンディクスの著作が出てきた訳で、大きく分けて「宗教社会学論集」と「経済と社会」という2つの大きな研究の流れに加え、ヴェーバーの初期の研究まで視野に入れたものです。ただ、「理解社会学」「理念型」「価値自由」といった、ヴェーバーの社会科学の方法論については、おそらく著者はそれらが時代遅れだと評価していたのかまったく取り上げられていません。
ヴェーバーの著作というのは、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」「職業としての学問」「職業としての政治」くらいはまだ何とか読めるのですが、この本で紹介されている「儒教と道教」や「ヒンドゥー教と仏教」、「古代ユダヤ教」の宗教社会学三部作は、繙かれた方はおわかりと思いますが、とても難解というか、はっきり言って知らないことばかり出てきて途方に暮れる、という状態に誰もが陥ります。(「儒教と道教」は東アジアの事を扱っているのでまだましかも知れませんが、ヴェーバー特有の用語で分析される中国社会はこれはこれでまた難解です。)特に「古代ユダヤ教」については、日本人で旧約聖書に出てくるユダヤ人の歴史に詳しい人などまずほとんどいないと思います。その結果、これを読むと、ヴェーバーを通じて旧約聖書を学ぶというある意味倒錯を起こすことになります。
また、もう一方の「経済と社会」については、こちらは有名な編集問題があり、この著作はヴェーバーの生前に一冊にまとまった著作として世に出たものでなく、ヴェーバーの妻のマリアンネがヴェーバーの死後残された遺稿を彼女なりに整理してある意味無理矢理に一冊の著作として出したものです。そういう訳で、各論考のつながりがどうなっているのかという問題に加え、「旧稿」と呼ばれる第一次世界大戦前に書かれた部分に出てくる概念について、本来は「理解社会学のカテゴリー」という論文に準拠すべきなのに、旧稿の後から書かれた「社会学の根本概念」が「間違った頭」として「経済と社会」の冒頭に長い間置かれて来た、という問題があります。また「法社会学」とか「支配の社会学」、「宗教社会学」といった部分部分の論考を一つ一つ取っても、ある意味膨大な比較文明史的な題材が扱われて、どれ一つを取っても簡単に読めるものはありません。
以上のような状況なので、ヴェーバーに関しては、適切な入門書の必要性は非常に高いのですが、残念ながら日本で「○○新書」の類いで出ている「ヴェーバー入門」の諸冊は、きちんとヴェーバーの学問全体をまとめたものは一冊も無いといってよく、それぞれの著者が自分の関心のある所だけをつまんで断片的に論じているものがほとんどです。
そういう意味で、このベンディクスの本は、唯一のきちんと読む価値のあるヴェーバー入門書であり、ある程度ヴェーバーを知っている人にとっても十分読む価値のある本だと思います。
ただ欠点はあって、テンブルックにも訳者である折原浩先生からも同じく批判されていますが、後に執筆された「古代ユダヤ教」を「経済と社会」での主要研究テーマを設定するキーになっている、という解釈はヴェーバーの研究の順番と一致しないため成立しません。ただそうは言っても、私も「経済と社会」の底に流れるテーマは、宗教社会学のメインテーマである「合理化の進展」が様々な文明・社会でどのように発達してきたか、ということだと思い、そのテーマは「古代ユダヤ教」が書かれる前に既にヴェーバーの中ではっきり確立していたと思います。
個人的にこの本で啓発されたのは、私は学生時代ヴェーバーの論考を読みながら、その中に取り上げられている文化人類学的な素材が極めて限定されていることが残念でした。ヴェーバーの時代にもフレイザーの「金枝篇」とか、グリァスンの「沈黙交易」(The silent trade)などの人類学的知見があり、ヴェーバーの論考の中にも出てきます。しかし、近代的な文化人類学の始まりはブロニスワフ・マリノフスキーの「西太平洋の遠洋航海者」とラドクリフ・ブラウンの「アンダマン島民」が出てきた1922年とされており、ヴェーバーの死後2年後です。その後、いわゆるフィールドワークによって、色々な西欧以外の社会の分析が進み事例が集まる訳ですが、ヴェーバーがそうしたものを見ることが出来ていたら、と思わざるを得ません。この本に、私と同じようなことを考えている人が多い、と指摘されていました。(余談になりますが、そういう文化人類学から出てきた素材を用いて、ヴェーバー的な分析を行った人は、私はカール・ポランニーだと思います。)