NHK杯戦囲碁 河野臨9段 対 余正麒8段

NHK杯戦の囲碁、新春の第1局は黒番が河野臨9段、白番が余正麒8段です。布石は黒が右辺で変形の高い中国流(右辺の石が中国流より一路下)で、右辺から下辺の模様で打つかと思いましたがそうはならず、黒は足早に各所で地を稼ぎ、下辺はむしろ白の領域になりました。途中までは黒がいい感じでしたが、転機となったのは左辺の攻防で、黒の構えに対し白がハサミツケていったのが好手で黒はその手をうっかり見落としていた可能性があります。そこの折衝で黒の中央の3子が切り離され、黒はどうするかと思いましたが、黒はあっさりその3子を捨てて打ちました。黒からは下辺白へのシチョウアタリを打つ手が残りましたが、白が厚くなって下辺の模様が大きくなり、白が優勢になりました。黒はその後下辺へシチョウアタリを打ちましたが、白に受けられた後厳しい後続手段がなく、ちょっと形勢を挽回するには至りませんでした。その後黒は右辺の白を攻め、また左上隅から延びる白とからめ攻めにしようとし、左辺で取られている3子へのシチョウアタリの後続手段を打つのではなく、中央から曲げて利かせて白に3子を抜かせました。しかし右辺の白は結局下辺に連絡し、また左上隅からの白は上辺の黒、左辺の黒ともはっきり活きていなかったため利きが色々あり、黒の攻めは不発に終わりました。その後黒が下辺の白模様に対し頭を出そうとしたのに白がハネたのが打ち過ぎで真ん中から黒に出られて事件かと思いましたが、白は3子を捨てて黒の進出を止めて下辺に大きな地が完成し、ここで黒の投了となりました。

渡辺京二の「北一輝」

渡辺京二の「北一輝」を読了。北一輝については、以前からもちろん名前は知っていますが、実際にどんな思想を持っていたのかほとんど知っていないため、興味があって読んでみたもの。北一輝は佐渡の両津生まれ(両津港は新潟からのフェリーやジェットフォイルが着く所です。)です。この事を知ったのは、林不忘(「丹下左膳」の作者)がやはり佐渡の生まれで、林不忘の父親が佐渡中学の英語の先生で、その生徒に北一輝がいた、ということからです。丁度佐渡に向かう新幹線の中、フェリーの中、そして佐渡の相川のホテルで読みました。
北一輝については、一般的には二・二六事件のクーデーターを決行した青年兵士の思想的裏付けを与えた人物として知られており、実際に二・二六事件の嫌疑で死刑に処せられています。しかし、実際の所は、北自身がクーデーターを計画した訳ではなく、ただ青年兵士にクーデーターの計画を打ち明けられ、それを止めることはせず、逆にアドバイスを与えたりした、という程度の関わり方だったようです。
北の思想の特徴としては、まずは社会主義者であり、天皇制の擁護者ではないということが重要です。北の父親が自由民権運動に関わっていた関係もあり、北は明治維新をその後の自由民権運動も含めて社会主義革命として捉えているのがまず特異的です。そして西郷隆盛が決行しようとした「第二革命」を引き継いで、日本を本当の意味での社会主義の国にするというのがその思想でした。そこにおいて天皇については政治的に価値があれば利用するスタンスであり、美津濃達吉の「天皇機関説」ときわめて近い発想です。戦前に天皇機関説は美津濃達吉だけではなく、かなり一般化していた考え方だったことが窺われます。二・二六事件の青年将校らは、クーデターの中心に天皇を据えて、天皇中心の親政を行おうとし、結局昭和天皇にそれを完全否定されて失敗する訳ですが、もし仮にそれがうまく行ったとしても、北の思想の天皇機関説の部分は結局青年将校らと相容れず、どこかで破綻が生じたと思います。
そうした北の主張が最初に現れるのが、23歳の時に出された「国体論及び純正社会主義」です。これは23歳という若さで書かれたのが信じられないくらい良く出来た論考であり、北の一生での頂点です。明治維新の指導者達が打ち出した、日本は昔から天皇を奉った体制でいた、という幻想を「乱臣賊子論」という形で、実際に政治を担ってきたのは、天皇に従わなかったり逆らってきたものばかりであることを論証します。また北は1883年生まれで、1864年生まれのマックス・ヴェーバーよりも19歳年下です。マックス・ヴェーバーはドイツ歴史学派の影響を受けながら、それを批判していくことで彼の学問的方法論を確立していきますが、北のこの「国体論及び純正社会主義」にも、19世紀的な歴史学派的な考え方、例えば社会ダーウィニズムとか、国家を一種の有機体としてその成長と発展を考えるやり方とか、またヘーゲル的な発展段階説とかの影響を強く感じます。北は早稲田大学の図書館にこもってこの論考をまとめていますが、その過程でこうしたいかにも19世紀的な考え方を採り入れていったんだと思います。経済史家でヴェーバーと資本主義の本質について論争したルヨ・ブレンターノの弟子かつ研究家である福田徳三はこの論考の論理水準の高さと著者の才能を激賞します。そして福田は北が今後も研鑽を続けてその理論を深めていくことを期待しますが、北のその後の人生は、福田が期待したものとはまったく違うものになりました。
北はその後中国に渡り、孫文の一派と交わり、いわゆる辛亥革命に色々と協力します。しかし孫文とは意見対立していたグループと好んで交わっていたのであり、孫文を直接支援した訳ではありません。
辛亥革命で北が親交を持っていた宋教仁が暗殺されると、北は夢破れた形で日本に戻ります。そこで北は法華教に傾倒します。(日蓮は佐渡に流されたため、日蓮宗は佐渡で一定の力を持っていたと思われ、その影響もあるかと思います。)北はいわゆる「幽霊を見ることが出来る人間」であり、自身の妻に「お告げ」を言わせたり、夢の中のお告げを書籍にしたり、とかなり非合理的なことも行っています。ただ、直感力というか洞察力は否定出来ない能力を持っていたようで、日本が結局中国との戦いになり、その結果英米と対立して戦争になり、最終的には日本が負ける、ということをかなり正確に見通していて、それを何とか避けようとしていました。
その後「国家改造案原理大綱」を書き上げ、これが日本を改革しようとしていたけれども、理論的な裏付けを欠いていた一部の人々に対し、明確な改革の指針を与える書として注目されます。しかしその後の北がやっていたのは、自分の信奉者を使って財閥の不正を攻撃させ、その口封じで大資本家より大金を受け取って贅沢な暮らしをするという、まったくもって感心できない人生を送ることになります。北は社会主義者でありましたが、通常の社会主義者が貧しい人に対する同情心から社会主義に傾倒するのが普通であるのに対し、北の場合はそういう要素がまったく欠けているということが特筆的です。
北の著作を直接読んだ訳ではなく、この本から得られた北の印象としては以上の通りですが、なかなか興味深い人物であることは否定出来ません。ただ、これから北の著作を直接読んでみるかは、現時点ではまだ未定です。