フランク・ハーバートの「デューン 砂の惑星」(中)

フランク・ハーバートの「デューン 砂の惑星」の中巻を読了。この巻では砂漠の中に逃げ込んだポールとレベッカの親子が砂漠の民のフレメンと合流して一緒に暮らし始めます。ポールがフレメンから名前を与えられたシーンで、「これでおまえは、イフワーン・ベドウィー --- われらの兄弟となった」というセリフが出てきます。鈍感な私も、ここでやっとフレメンのモデルが実在の砂漠の民ベドウィンであることに気がつきました。(「ベドウィー」はアラビア語で、「ベドウィン」の元になっている単語。「イフワーン」はアラビア語で「同胞」の意味。)またこの作品が出版されたのは1965年ですが、1962年に公開されたデイヴィッド・リーンのあまりにも有名な映画「アラビアのロレンス」の影響も感じました。ついでに言うと、ハルコンネン男爵の名前は「ウラジーミル」でこれにはソ連のイメージが若干投影されているのかも。Eigoxの先生によると、作者は作家になる前はジャーナリストで中東に興味を持って色々調べていたとのことです。しかし、「聖戦 ジハード」という言葉もそのまま登場するので、どうしてもISISとかを想像してしまいます。Wikipediaによると、この小説はすぐに読者に受け入れられた訳ではなく、いくつもの出版社に出版を断られた後にようやく陽の目を見た作品のようですが、もしこの作品が「今の」アメリカで出版されていたら、更に困難があったのではないかと想像します。中巻はポールとリエト・カインズの娘のチェイニーが愛し合うようになる場面で終わります。Eigoxの先生によれば最終巻でまた大きなどんでん返しがあるとのことですので、期待しながら続きを読みます。

フランク・ハーバートの「デューン 砂の惑星」(上)

フランク・ハーバートの「デューン 砂の惑星」の三分冊の内の上巻を読了。この作品の日本語訳は1972年から73年にかけてハヤカワ文庫で四分冊として出ていたのが、昨年の2016年に新訳が出たもの。そういう意味では丁度いい時期に読み始めたと思います。ヒューゴー賞とネビュラ賞というSFの世界での二大賞を受賞した作品。きっかけはEigoxのレッスンで相手の先生に白井喬二の「富士に立つ影」のストーリーを紹介したら、この作品と似ているのではないかと言われたことです。読み始めて、二つの作品の共通点はすぐわかり、「富士に立つ影」では熊木家と佐藤家の対立が描かれますが、この作品ではアトレイデス家とハルコンネン家の対立が描かれます。この上巻の途中までは、「「富士に立つ影」ではどちらかが善でどちらかが悪として決めつけられている訳ではなく、両方の家の視点で物語が描かれている」ことが違うのではないかと思いますが、この上巻の最後になって、アストレイデス家のレト公爵が医師ユエの裏切りにより命を落とし、その愛妾レディ・ジェシカと息子のポールも命の危険に晒されますが、その危険を何とか逃れたポールは、未来を見通す能力に目覚め、実は両家の対立がそんな単純なものではないことが読者に明かされます。まだ1/3ですが、この先どうなるかが楽しみです。

獅子文六の「父の乳」

獅子文六の「父の乳」を読了。「主婦の友」に1965年1月から1966年12月にかけて連載されたもので、「娘と私」(同じく「主婦之友」に以前連載された)と対を成す自伝的作品です。「娘と私」に描かれる時代の前までの、生まれてから成人するまでの話と、それから「娘と私」で最後に娘さんが結婚した時に、獅子文六も三度目の結婚をしてそれ以降の話が語られます。そしてその三番目の奥さんとの間に、獅子文六が60歳の時に長男が生まれます。これはまったく知りませんでした。この長男は私の8つぐらい上です。前半の部分で、獅子文六が10歳の時に実父が病気で死にます。文六はこの父親にとても可愛がられました。溺愛といってもいいくらいです。正直な所前半部分はまったく面白くないのですが、この父親に可愛がられたということが、後半の伏線になります。60歳にして初めて長男を得た文六は狂喜して、自分が本当は男の子が欲しかったんだということを初めて自覚します。そして父親が自分にしてくれたように、この晩年の子供を溺愛します。また、最初のフランス人の奥さんとの出会いも書いてあって、獅子文六という人を知る上では貴重な記録となっています。最後の方は70歳を越して段々と体調が悪くなり、一種の老人性のうつ病みたいになってきて、陰鬱なトーンになります。そういう調子なので、万人にお勧めするような本ではありませんが、獅子文六自身にご興味があれば一読をお勧めします。

白井喬二の「柳沢双情記」

白井喬二の「柳沢双情記」を読了。徳島県立図書館から取り寄せたのはいいのですが、何故か「禁帯出」扱い(それにしては誰も借りた形跡がない)で、神奈川県立図書館の中で読まないといけなかったのですが、全448ページでかつ2段組という大作で、結局一回では終わらず二回神奈川県立図書館に行かないといけませんでした。
タイトルに「柳沢」が出てくる通り、「柳沢保明(吉保)」とその配下である矢守田鏡圓とその弟の矢守田富次郎が悪役で、松平右京太夫(松平輝貞)とその配下である權堂倭文馬、さらにその部下である大木諄之介が、側用人同士で権力争いをして戦う話です。主人公は、その松平右京太夫の落とし胤で、大木諄之介の妹の小夜の子である大木十太郎です。小夜は綱吉の側女として献上される話があったのを、矢守田鏡圓が辻斬りで殺します。残された十太郎を叔父である大木諄之介が秘かに育てています。十太郎は世間知らずですが、剣の腕は道場で師範代にも負けないレベルになります。この作品は他の多くの白井作品を彷彿させる作品で、貴人の血を引く者が敵討ちを行うという設定は「伊賀之介飄々剣」ですし、世間知らずの若者が親の敵を相手に大活躍するというのは「坊ちゃん羅五郎」です。矢守田鏡圓と權堂倭文馬は、綱吉から命ぜられた儒教の聖堂(今の湯島聖堂)の建設地の調査を巡って争いますが、權堂倭文馬は相手の卑怯な罠にかかって、表に出られなくなり、切腹を決意しますが、一ヵ月の猶予期間の間に十太郎が矢守田鏡圓の旧悪を暴けば助かるということで、十太郎が活躍します。この十太郎がかつて大木諄之介がだまし取られた馬と家禄を取り戻すために、源八というならず者とその助っ人である榊原鐵山と戦い勝ちますが、その過程で榊原鐵山の二人の娘の内、妹の美佐保が十太郎に恋します。この美佐保は柳沢保明の屋敷に奉公に上がり、十太郎の敵討ちの証拠探しに協力します。
まあ全体のストーリーは予定調和的というかすぐ予測できるようなもので、新鮮さはあまりありませんが、白井の戦後の作品らしさが随所に見られます。
ところで、柳沢吉保って本当に色んな大衆時代小説で悪者扱いになっていますが、実際は結構善政を行い、武の時代から文の時代に幕府を導いた人で、決して悪人ではないと思いますが、例の赤穂浪士事件で浅野内匠頭に切腹を命じたのが柳沢保明ということになっていて、嫌われているようです。

紀田順一郎の「蔵書一代 なぜ蔵書は増え、そして散逸するのか」

紀田順一郎さんの「蔵書一代 なぜ蔵書は増え、そして散逸するのか」を読了。
予想通り、涙無しには読めない本でした。三万冊の蔵書を、諸般の事情でどうしても処分せざるを得なくなり、約600冊を残してすべてを古書店に処分してしまった辛さがひしひしと伝わってきます。
また、おそらくこれが紀田さんの最後の著作になるのではないか、という感じを強く受けました。巻末に紀田さんの詳細な年譜が載っていますが、今までの著作にはこんなものはありませんでした。また膨大なレファレンス文献を失った今、紀田さんがかつてのような著作を書くことを続けることはもう不可能なように思います。その年譜で紀田さんが大衆文学にも深く関わっていたことを知りました。また、J社との関わりについてもこの年譜にかなり載っているので、J社の方は読まれることをお勧めします。
今こそ紀田さんにお話を伺いたいことがたくさんあるのですが、残念ながら紀田さんのメールアドレスは変わってしまっており、現在連絡が取れなくなっています。
私個人で言えば、現在収集している白井喬二の作品を、いつかは公共機関に寄贈しようかと思っていたのですが、今はそれが非常に困難(受け付けてもらえない可能性が高い)なことがよく分かりました。後の書籍は私は引っ越しする度に処分しているので、それほどの数にはなっていません。それよりどちらかと言うと、クラシック音楽のCDの方が問題。私が死んだら大学の古巣のサークルに寄贈しようかと思っていましたが、たぶんそこの部室にはとても収録できないと思います。
後は、日本では公共図書館がイマイチ役に立たないので、個人が自分で蔵書するしかない、というのもよく分かります。先日、白井喬二の「黒衣宰相 天海僧正」の残りを読むために、福井県立図書館から雑誌「大法輪」を取り寄せましたが、その内のわずか数冊が国会図書館他の都内の図書館にもあるという理由で、図書館員からねちねち文句を言われました。日本の図書館には未だに「公共サービス」という視点が欠けています。この日本の図書館のレベルの低さを教えてくれたのも紀田さんでした。