宮本常一の「忘れられた日本人」

宮本常一の「忘れられた日本人」を読了。民俗学や文化人類学を大学の時に囓っていたので、この人の名前は当然知っていましたが、これまで読む機会がありませんでした。内容は多くが西日本の村落を宮本が精力的に訪ね、その土地土地での古老の話を聞き取ってまとめたものです。その内容は生きた本当の生活史という感じで、忘れられたなにかを思い出させてくれるものでした。その中には大田植えで、植えるのが遅いものを両隣のものが先行して植えていってしかもその間隔を狭めていってついには真ん中の者の行き場を塞いでしまうという、大学の時野村純一先生の授業で聞いた話も出てきて懐かしかったです。その一方で不満に思ったのが、西日本では伝承は村単位で継承されるのに、東日本ではそれがイエ単位になるという非常に興味深い指摘をしています。しかし宮本民俗学はそこで留まってしまい、さらに多くの事例を検討して理論として深めていくというのが非常に弱いです。それは逆に言えば、少ない事例から無理矢理もっともらしい理論化を急ぐ、西洋風の学問への反発かもしれません。実際に宮本は柳田國男の「方言周圏論」を否定的に捉えていたようです。とはいえ、これが「学」かと言われるとちょっと私には抵抗があります。むしろ文学的価値の方が高いように思います。

謹賀新年

明けましておめでとうございます。初詣で、宮城県大崎市の日枝神社に行って来ました。こぢんまりとした神社でしたが古式ゆかしき感じの良い神社でした。今年もよろしくお願いします。

エドワード・W・サイードの「オリエンタリズム」

エドワード・W・サイードの「オリエンタリズム」を読了。1978年に出た有名な本で、数年前に購入しておきながらなかなか読む機会が無く、今回やっと読了しました。
「オリエンタリズム」というのは本来は西欧の美術や文学における「中東趣味」のものという意味ですが、サイードはここでは西欧の中東学者に共通してみられる非科学的な偏見、思い込み、蔑視といった態度のことを指して使っています。
読んでいてずっと違和感を禁じ得なかったのが、サイードがオリエントという言葉の意味をほとんどが中東地域を指す言葉で使いながら、時に都合のいい時にはそれをインドや中国、日本他を含むものとして使っているということです。(英語でOrientと言えばどちらかというとアジア人を指すことが多いです。)西欧の中東への蔑視と同じ構造で、(1)西欧+中東のアジア蔑視(2)中東のアジア蔑視という2つが考えられ、サイードは手を変え品を変え西欧の中東蔑視を論じていますが、一度もこの(1)、(2)のアジア蔑視については中東を含まない形では論じていません。そういう公平さの欠けた議論によって、穿った目で見れば、単なる中東地域のひがみのような議論に聞こえ、本来有るべき文化の相対性原理の主張という点が弱くなっているように思います。
またこの本によって文化人類学がその方法論について見直さざると得なくなり、学問としての勢いが弱まったというのを、Eigoxの文化人類学者である先生から聞いたことがあります。しかし例えばイギリスの文化人類学が植民地をより良く統治するという目的で研究されていた、というのは周知の事実であり、中近東の研究がサイードの言うような偏見や先入観に彩られているとしても、それはそういう研究を見直す良い機会であり、決して文化人類学の方法論が否定されるようなものではないと思います。
サイードのこの本を読む前に、ヴェーバーの「中世合名・合資会社成立史」を訳していて思ったのは、中世イタリアのコムメンダが、イスラム地域のムダーラバ契約の影響で生れた、と言うのが既にヴェーバーの時代に主張されているのですが、ヴェーバーがまったくそれに触れていないということへの疑問です。まあヴェーバーの頃は、オスマン帝国の弱体化-崩壊の時代で、イスラム圏への蔑視が頂点に達した時であり、ヴェーバーといえどもそういう偏見から100%自由であることは出来なかった、ということなのだと私は理解しています。

ハロウィーン考:社会の二重構造と「ケ」と「ハレ」

今読んでいる”The Dawn of Everything: A New History of Humanity”に面白いことが書いてあります。17-8世紀の北米カナダのネイティブアメリカンの多くの部族は面白い社会を持っていました。それは食物が容易に手に入る春~夏~秋の間は家族中心の小集団がそれぞれ別れて狩猟採集で暮らし、ある意味「平等社会」で暮すのを、冬になるとある場所に集まって暮して保存した食べ物を消費して暮しますが、そこは「階層社会」だったそうです。有名なポトラッチ(贈与合戦)もその階層を決めるための手段でした。(より多く他者に贈与をして気前の良さを示した者が上位の階層となる。)筆者の二人によると実はこのように季節によって社会構造を変えるというのは北米のネイティブ・アメリカンだけでなく、歴史的にも世界的にもかなり多くの社会で見られるのだそうです。なので狩猟採集の原始共産制社会が農耕が始ると貧富の差が出来て階層社会が出来たなどという発展段階説は、こういった歴史的事実をまったく説明出来ていません。
それでは現代の社会が何故季節性を失って単一の社会構造になったかですが、実は現代社会にもかつての名残があって、それが欧米での「ホリデーシーズン」だと筆者達は言います。(欧州については夏のバカンスも。)アメリカ人がお互いに贈り物をしあうのはこの時期にほぼ限定されます。そう考えると日本の「ハレとケ」も本来はそういう同一社会の時間によって変わる二重構造の現われではなかったのかと。またハロウィーンという欧米の習慣(キリスト教の習慣ですらない)が何故日本や韓国で近年これだけ享受されたのかという説明もこれで出来そうです。即ち昔「ハレ」として社会のガス抜きの意味を果たして来た伝統的な祭などが形骸化し、そこで満たされない「馬鹿騒ぎ・社会秩序の否定」が日本や韓国でのハロウィーン騒ぎではないかと。そう考えると、日本で47都道府県の内、1つだけそういう伝統的「ハレ」を今でも強く維持しているのが、徳島の阿波踊りではないかと。「踊る阿呆に見る阿呆」というのは、ヨーロッパでの「驢馬のミサ」(カーニバルの起源で、〈愚者の饗宴〉では,少年や下級僧の間から〈阿呆の司教〉が選ばれ,祭りの期間は通常の秩序や価値観が逆転した世界が支配した)とまったく同じ役割を果たしています。今年の3年ぶりの阿波踊りでコロナ感染者が多数出たり、ソウルでハロウィーンで多数の死傷者が出たというのも、そういう「無礼講・狂乱状態」だと考えると理解が出来そうです。(亡くなられた方には謹んで哀悼の意を表します。)

最近の手紙本はひどい…

以前、J社で手紙文自動作成というプロジェクトに関係していました。その時市販の手紙の書き方本・文例集を何冊か買って調べましたが、中身は噴飯ものでした。最近のはどうかと思って、Amazonで一番売れていそうなの(敢えてタイトルと著者は書きませんが、出版社は主婦の友社)を買ってみましたが、さらにレベルが落ちていました。封筒ののり付けする所に書くのは「メ」じゃなくて「〆」なんですけど…
芳賀矢一・杉谷代水合編「書翰文講話及び文範」では、元は「〆」だったのを明治になって男性で「緘」「糊」「封」などを書く人が増えたと言っています。1896年の樋口一葉の「通俗書簡文」では、一葉は「状封じて墨を引くこと古くよりの法なりとぞ、封、しん、鎖、糊、いづれも女のものならず、まして此處に検印みとめおしたるいかなる心にかと怪し、ただ〆とばかりかきてありぬべきを。」として、女性はただ「〆」と書きなさい、と教えています。(この部分、故山本夏彦氏がそのエッセイの中で何度か引用していました。尚、「緘」は封緘紙の「緘」で現在では「かん」としか読みませんが、「通俗書簡文」は「しん」とルビを振っています。「書翰文講話及び文範」は「かん」です。)
それから日付は手紙の本文中に書くもので、封筒に書く必要はないと思いますが。(履歴書を郵送する時とかは別)
手紙の本を買うんだったら、大正時代以前のものが良いです。戦後のものは買う価値無いです。

山県有朋は果たして心情の人か?

菅さんの弔辞で、山県有朋が伊藤博文のことを詠んだ和歌が引用されています。ただ私は山県有朋って狸親父の典型みたいな人と思っていますので、本心にこのように思っていたかは疑問です。山県有朋は西南戦争の時にも西郷隆盛に降伏を勧める手紙を出していますが、Wikipediaによると書いたのは福地源一郎みたいです。(福地源一郎は、後に東京日日新聞社主になり、また文芸家でもあり文章は達者です。)大体戦いの前に送るなら分りますが、立場上西郷が降伏するのが不可能な状態になってから送っているような気がします。また、この手紙が西郷に届いたかどうかも不明だそうで、そんな書簡の内容が今日まで残っているというのも不思議な話で、単に山県有朋が「自分は心の底から西郷に降伏を勧めたけど西郷が受け入れなかった」という証拠作りのためにやった可能性もあると思います。

表面的には心情あふれる(あふれているように見える)名文ですが、本人が書いていないとしたら余計に嘘くさいです。

ちなみに下記の手紙は、現代の人は読むのに苦労するでしょうが、当時のある程度漢籍の素養のある人にはなじみのある故事成語のオンパレードです。このことだけ見ても、山県有朋ではなく福地源一郎が書いたというのは当たっているでしょう。

故山に帰養する、謦咳に接する、桑滄の変、旧雨今雨、鼓皷の間(旗鼓の間)、韜晦する、奇貨とする、讒誣する、蒼生、衆口金を鑠かす、骨肉相食む、涕涙雨の如し、等々

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西郷隆盛に與へて降服を勧む
(読み仮名入りは、西郷隆盛に與へて降服を勧む

山縣 有朋

山縣有朋頓首再拝、謹んで書を西郷隆盛君の幕下に呈す。有朋、君と相識るここに年あり。君の心事を知るまた甚だ深し。曩に君の故山に帰養せしより、久しくその謦咳に接することを得ざりしかど、舊雨の感豈一日も有朋の懐に往来せざらんや。料らざりき、一旦滄桑の変に遭ひて、ここに君と鼓皷の間に相見るに至らんとは。君が帰郷の後ち、世の鹿児島縣士族の暴状を議するもの皆いはく、「西郷実にその巨魁たり、謀主たり」と。然れども有朋は獨りこれを斥けて、然らずとなせりき。然るに今かくの如し。嗚呼また何をか言はん。
然れども密に思ふに、事のここに至れるは蓋し勢いの止むを得ざるに出でしものにて、君の素志にてはあらざりしならん。若し君にして初めより真に意図を懐きしならば、何ぞかかる無名の軍をかかる機を失へる時に起さん。薩軍の今公布する所を見るに、罪を一二の官吏に問はんとするに過ぎず。これ果して挙兵の名を得たりと謂ふべきか。佐賀の賊まづ誅せられ、熊本、山口の叛徒次いで敗れ、今や天下の士民漸くその自省の志を立てんとす。而して薩軍突としてここに兵を挙ぐ。これ果して挙兵の機を得たりといふべきか。君の明識なる、豈之を知らざることあらんや。

説者また曰く、「天下の不良の徒は、西郷の山林に韜晦したるを奇貨とし、これによりて功名を萬一に僥倖せんとする念を懐き、その辞を巧みにしてひたすら朝廷の政務を讒誣し、西郷に説くに、君出でずんば蒼生をいかにせん、君にして義兵を挙げなは天下靡然としてこれに向はんとの旨を以てせしならん。君の卓識なる、その讒誣たるを洞察するに難からざりしなるべしと雖も、その浸潤のいたす所実に衆口金を爍す勢ありて、知らず識らず遂に事を挙ぐるに至りしならん」と。聞く者皆これを然りとす。何となれば、若し君にしてまことにその志ありしならば、単騎輦下に来りて、従容として利害のある所を上言するに於て何の妨もあらざるべければなり。

思ふに、君が多年育成せし壮士輩は、初めより時勢の真相を知り、人理の大道を履践する才識を備へたる者なるべけれど、かの不良の徒の教唆により或はその一身の不遇によりてその不平の念を高め、遂に一転して悲憤の念を懐き、再転して叛乱の心を生ずるに至りしならん。而してその名を問へば則ち曰く、西郷の為にするなりと。情勢既にここに至る。君が平生故舊に篤き情は、空しくこれを看過してひとり餘生を完うするに忍びざりしにならん。されば、君の志はじめより生命を以て壮士輩に與へんと期せしに外ならざりしならん。君が人生の毀誉を度外に置き、天下後世の議論を顧みざるもの故なきにあらず。嗚呼君の心事まことに悲しからずや。有朋ここに君を知る深きが故に、君が為に悲む心また切なり。然れども事既にここに至る、これをいふことも何の益かあらん。

顧みれば交戦以来既に数月を過ぐ。両軍の死傷日々幾百なるかを知らず。朋友相殺し骨肉相食み、人情の忍ぶべからざるを忍びぬ。かかる戦の如きは古来例なき所なり。而して戦士の心を問へば、共に寸毫の恨あるにあらず。ただ王師はその職務の為に、薩軍はその帥西郷の為に戦ふといふに過ぎず。夫れ一国の壮士を率ゐてよく天下の大軍に抗し、激戦数旬、百敗撓まざるもの、既に以て君が威名の実を天下に示すに足れり。而して今や君の麾下の勇将概ね死傷し、その軍威日々に衰へんとす。薩軍の遂に志を成すこと能はざるは既に明なるにあらずや。君更に何の望む所ありてか徒に死線を事とせんとはする。若し人の西郷は事の成らざるを知れど、暫くその餘生を永くせんが為に、敢て千百の死傷を両軍より出すを辞せざるなりといふ者あらば、有朋これに對ひて何とか答へん。

願くは君早くみづから図りて、一はその挙の君が素志にあらざるを明にし、一は両軍の死傷を明日に救ふ計をなせ。嗚呼、天下の君を議する実に極れりといふべし。国憲の存する所おのづから然らざるを得ずといへども、思ふに君の心事を知るものひとり有朋のみにあらざらん。然らば何ぞ公論の他年に定まるなきを憂へん。故舊の情、有朋切にこれを君に冀望せざるを得ず。書に対して涕涙雨の如く、言はんと欲することを悉す能はず。君少しく有朋が情懐の苦を察せよ。

手紙の作法続き-草々と早々


手紙の作法、追加。今は「前略」に対応する結びは「草々」になっていますが、元々は「早々」の方が多く使われていました。「取り急ぎ」という感じは「早々」の方が出ると思います。「草々」はどちらかと言えば「草々不一」の形で使われる方が多かったと思います。「草々」は走り書きで、「不一(ふいつ)」は言いたいことを尽くせず、という意味で、元々中国の奉書前後式という極めて煩雑な手紙の作法の最後で「不盡」とか書いていたのを日本人が真似するようになったのが「敬具」とか「不一」などの後文です。

「謹啓ー敬具」問題ー大正時代の手紙の書き方本の説明


芳賀矢一・杉谷代水合編「書翰文講話及び文範」(冨山房、大正2年初版の手紙の書き方と例文集で、当時の大ベストセラー)にて、手紙の前文(拝啓など)、と末文(敬具)などについて確認しました。
(1)そもそもこの手の「拝啓」「敬具」等は候文の手紙用であり、口語文の手紙では本来は付ける必要無し。
(2)江戸時代までは前文は「一筆啓上仕候」などと書いたが、明治になって簡略化されて2文字が多くなった。但し「頓首再拝」「恐惶謹言」などの4文字タイプも使われていた。
(3)拝啓の場合は敬具、謹啓の場合は謹言、といった前文と末文が呼応するといったことはまったく書いてない。
(4)「慶弔、感謝など儀式張った場合には同輩でも「謹言」「敬具」を用いてよい。」とあり、そもそも敬具も謹言も元はある意味堅苦しい上位者への手紙に使うものであり、またその2つとも慶弔の場合に用いて良いとあり、「謹言」が「敬具」より丁寧、ということも言っていない。
要は時間が経って候文が廃れていくと、その本来の書き方が分らなくなり、いつしか「謹啓の後は謹言で結ぶ」といったローカルルールを勝手に作り出す人が出てきて、それがあたかも正しい用法のように思われるようになっただけだと思います。または「格別のご高配」と同じで、本来目上にしか使わなかった「謹啓」が多用されるのは、ともかく丁寧に書けばOKという、敬意のエスカレーション現象かと思います。
(ちなみにジャストシステム時代に冨山房に電話し、この書籍の著作権について問い合わせたことがありますが{候文の例文集を作ろうとしていました}、口頭ですが「自由に使って良い」という返事でした。本当はどこかがこの本再版して欲しいんですが。復刊ドットコムに登録はしています。また、芳賀矢一、杉谷代水共に没後70年以上が過ぎており、著作権は失効しています。)それから、ローカルルールと言えば、封書の閉じる所には現在は「〆」(というよりメ)と書くと教わったと思いますが、これは元々女性用であり、男性は「緘」「糊」「封」などを使っていました。私は高校の時に漢文の先生に、「緘」と書けと教わりました。今でも一部の官公庁とか銀行などで、スタンプで「緘」を押したものを見ることがあります。

謹啓-敬具、は問題ありません。

日経ビジネスの河合薫という人の文章から。安倍元総理の国葬の招待状についてのエッセイに以下の文章がありました。
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「招待状の頭語は「謹啓」なのに、結語は「敬具」というお粗末ぶり。」

https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00118/00214/?n_cid=nbpnb_fbed
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「敬具」つつしんで具す(申し上げる、「具申」の具)という意味で、冒頭が「謹啓」の場合でもOKです。最近、こういう自分の限られた知識だけが正しいと思い込み、人の書いたものにけちを付ける人が多いという典型例として紹介させていただきます。画像は大修館の明鏡国語辞典第二版です。私はジャストシステムに勤務していた時に、手紙のソフトの企画に携わっていた(ソフトは単体のソフトとしては日の目を見ず、その時に整備した例文が一太郎の中に入っている程度です。)ので、手紙の書き方については、普通の人より詳しいですし、大正2年に出た芳賀矢一・杉谷代水合編の「書翰文講話及び文範」という候文の手紙例文が多数入った本も持っています。

しかし、この「謹啓ー敬具」を間違いだと言い張る人であれば、この候文も「前略」で始っているのに「(頓首)謹言」で終っているのはおかしい(「草々」でなければならない)とか言うんでしょうね。ちなみに「草々」は同輩以下に使うもので、このようなお詫びの手紙には合いません。(出だしが「前略」なのは詫び状なので、時候の挨拶等は省いてまずはお詫びします、という意味での使用です。)要するに昔は手紙の書き方は法律で決まっていた訳では当然なく、状況に応じて色々な書き方があったのに、今はそれが固定化されたルールのように考えられていて、自分が教えられた、学んだのと違うと間違いだと決めつけるのでしょう。大体今手紙を書く人は激減していますから。

ちなみにビジネスの手紙で多用されている「平素は格別のご高配賜り深謝申し上げます」という言い方も、文字通り読めば「貴社はこの世の中であり得ないような非常な程度の便宜を当社に図っていただきましたので心から感謝します。」という異常に誇張した文章になります。たかがビジネスの関係であれば「日頃はご高配賜り有り難うございす。」「平素はご配慮を賜り御礼申し上げます」とか書けばいい訳です。「格別の御高配」は、強調が二重になっていて却って嘘臭く響きます。このことは以前、大修館の「言語」という雑誌の編集長をされていた方から教わりました。

 

傘の藤骨と桜骨

小学生の頃(昭和40年代の半ば~後半くらい)に、当時はまだ安いビニール傘が普及しておらず、傘は貴重品で傘の折れた骨を修理する人がいました。おそらくそういった人から聞いた話だと思いますが、傘の骨で中央から直線状に伸びている通常のを藤の花が垂れているのと同じということで「藤骨」といい、それに対し根元が二重になっていてまるで桜の花のように見えるのを「桜骨」といい、桜骨の方がはるかに丈夫と教わったことがあります。しかし、コストや重さの問題なのかやがて桜骨の傘も桜骨という言葉も見かけなくなりました。インターネットで検索が出来るようになってから、「藤骨」「桜骨」で検索しても何もヒットしなかったので、本当にそういう言葉があったのかと自分の記憶を疑うようになっていました。しかし、今日また「桜骨」で検索したら、写真のように何と桜骨の傘がちゃんとそう表記されて販売されていました。これも昭和の遺産と思い紹介しておきます。