ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」の写真のレタッチについて

このレオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」の写真ですけど、もちろん現物を撮影したものですが、写したそのままだとぼんやりしすぎで、色彩も弱く、かなりボケボケです。(最初に描かれた時から既に500年以上経っているため、退色が激しいですし、絵の具自体もかなりの部分欠け落ちています。もちろん修復はされていますが、ダ・ヴィンチが描いた当時とはおそらく見た目はかなり異なっている筈です。)
なので私はRAW現像の時に、
(1)コントラストを上げる
(2)「霞を除去する」(現物のスポット照明のため、ライトが当たった部分が霞んで見えます。)
(3)「自然な彩度」を上げる
ということを現像ソフトのLight Roomでやっています。
なので、現物よりも良く見えるように加工されたものなのですが、Webで検索して他の「最後の晩餐」の写真を見ると、もっと無茶苦茶なレタッチがされたものばかりです。ちょっといいのか、っていう感じです。

私は浮世絵に関しては、印刷されたばかりの頃はもっと色が鮮やかだったと思っており、浮世絵の写真については結構彩度を上げたりすることが多いですが、この「最後の晩餐」については、ほとんどはやり過ぎのように思います。結構絵画をどう鑑賞すべきかって、難しいです。大体において有名な絵は現物を見るとがっかりすることが多いのですが。

竹内洋の「教養主義の没落 変わりゆくエリート学生文化」

竹内洋の「教養主義の没落 変わりゆくエリート学生文化」を読了。私は、羽生辰郎を批判した論文の最後でこう書きました。「バランス感覚に優れた研究活動をするためにも、またそうした研究活動を正当に評価するためにも、「長い時間をかけて涵養された深くて広い教養」は不可欠であると確信する。羽入の出身学科が「『教養』学科」であるというのは、皮肉なことである。筆者はアマチュア研究者として、そしてもう一人の「『教養』学科」出身者として敢えて今、「教養」の意義を世の中に訴えたい。 」
私の大学の出身学科は「教養学部教養学科」で「教養」が2つも付きます。しかし、世の中で「教養学科」というのはほとんど認知されておらず、就職してから何度も「先生にはなろうとは思わなかったんですか」と「教育学部」と間違えられました。しかし、元はと言えば「教養学科」は戦後英語での”liberal arts school”をモデルとして作られたもので、欧米では非常にポピュラーであり、根源を辿れば古典ギリシアの「7つの自由学芸”Seven liberal arts”」にまで行き着く伝統的な概念です。(ちなみに7つとは、文法学・修辞学・論理学の3学、および算術・幾何学・天文学・音楽です。私は色んな語学でさんざん文法はやっていたし、修辞学も結構その頃流行り{ロラン・バルトの「旧修辞学」など}で学んでいたし、音楽は石井不二雄先生や杉山好先生に教わったし、算術・幾何学・天文学といった理科系科目を除けば結構この7つに近いことを学んでいました。)
そういう訳で、日本における「教養」概念の変遷を求めてこの本を読んだんですが、1942年生まれの筆者の昔懐かし話という面が強いと言わざるを得ません。上記したような「教養概念」の東西での比較(ヴェーバーが「儒教と道教」で書いたように儒教には間違いなく「読書人」という一つの理想があります)とかはまるでなく、「昔はこうだった」という話に終始しています。まあ高橋和己(昭和6年生まれ)が旧制高校の教養主義を経験した最後の世代で、その後の大江健三郎や石原慎太郎は新制高校世代である、といった説明はそれなりには興味深いものでしたが。(ちなみに私の亡父は昭和7年生まれなので、新制高校第一期生みたいな世代です。)
また私の世代(1980年代に大学に入った世代)にとっては、かつて総合雑誌(「中央公論」「太陽」「改造」といったもの)に載った論文がそんなにインテリ層に読まれていた、というのはちょっと想像が付かないです。私の世代ではもはや読むべき雑誌というのは、むしろ「ぴあ」みたいなカルチャー系になっていたと思います。しかしだからといって1980年代になって教養主義が大学から完全に無くなったとは私には思えません。筆者は認めないかもしれませんが、手塚治虫の「火の鳥」や「ブッダ」、白土三平の「カムイ伝」を読むのだって、立派な教養主義だと思っています。

デジタルTVとノートPCの液晶の色みの違い

デジタルTVに映したPCの画面とノートPCの液晶では随分色見が違います。デジタルTVの方がやや派手ですが綺麗です。それに対して液晶はかなり青が強いです。これは前にキャリブレーション付きのディスプレイを試した時にも思ったことで、一般的なPCの液晶ディスプレイはほとんどかなり青が強いです。(上がデジタルTV、下がノートPCの液晶です。)

Pentax K-1のカードスロット故障

Pentax K-1のカードスロット1がおかしくなり、問題のないSDカードを挿入しても「カードに異常があります」と出て、そのスロットが使えません。K-1にはカードスロット2もあるので、それを使えば撮影自体は可能ですが、ファームウェアを更新する時には、スロット1を使わないといけないので、このままではファームウェア更新が出来ません。また、私はスロット1をRAW、2をJPEGに指定していましたが、こういうRAWとJPEGの同時記録も出来ません。サービスセンターで診てもらったら、カードスロットの故障ということで、基板交換で2万9千円くらいかかると言うことでした。泣く泣く承知しましたが、トホホです。私は撮影した後、カメラからSDカードを抜いて、これをノートPCのカードスロットに挿して現像する、ということをほぼ毎日約2年間に渡ってやっていましたが、どうもK-1のカードスロットはあまり耐久性が高くないようです。今後は、USBでカメラとPCをつないで、SDカードの抜き差しは最小限に留めるようにします。ちなみにこのUSBケーブルですが、カメラ側の端子がPentax独自のものとなっています。なので買った時に付いていたものを使う必要があります。(一応サードパーティーの互換ケーブルがAmazonで900円くらいで売ってはいます。)

追記:上記USBケーブルでPentax独自仕様のものなのは、K-5II用のものでした。K-1用については、普通のUSB電源用ケーブルが使えます。ただ、K-1については、USB3用のケーブルを使ったらカードを認識せず、USB2用のケーブルを使ったらOKでした。(2018年6月3日)

NHK杯戦囲碁 伊田篤史8段 対 藤沢里菜女流立葵杯(4段)

本日のNHK杯戦は伊田篤史8段の黒番、藤沢里菜女流立葵杯の白番という注目の一戦です。藤沢4段はまだ19歳ですが、既にNHK杯戦の常連となっています。布石は黒の伊田8段が目外しから大高目という意欲的な布石です。白が右下隅で三々に入り、黒がかけていってという展開になりましたが、白は封鎖を避けて中央に頭を出しました。しかし黒から劫含みで切断に行く手が残りました。先手を取った黒は左下隅で両ガカリしました。以前はこの両ガカリを許すのはあまり良くないとされていましたが、最近はAIの影響で敢えて手を抜いて他に打ち、両ガカリを許すことも多くなっています。AIの影響と言えば、黒が左上隅にかかったのに白が上辺のハサミがない状態でコスミツケたのも今風の打ち方です。しかし黒は先に右上隅にかかった白を挟んで、白が頭を出した時、上辺を好形に構えました。私としてはこれは黒に不満がないと思います。またコスミツケた左上隅についてはまだ完全に地にしたとは言えず、実際黒に2線に潜り込まれ、白は封鎖して打ちましたが、左上隅は黒地になりました。その後黒は左辺に取り残された3子をどうするか、まず左上隅と連絡させるかどうかの打診の手を打ちました。白はワタリを拒否したので、黒は3子を助け出すことになりました。この黒との競い合いで、白は4つ伸びた後2段にはねました。しかしその断点を継がず、他で地を稼ぐ手を打って頑張りました。黒は白が上辺に打ち込んで目一杯頑張って地を稼いだ時、左上隅から伸びる白へ切りを断行し、かつ上辺の白と左上隅から伸びる白のワタリを止める打ち方をしました。結果として左上隅から伸びた白の眼が怪しくなり、白はここでも目一杯頑張った活き方をしましたが、その代償として中央に取り残された3子がほとんど取られた形になりました。しかし白は下辺に手を付けていき、そこで地をかすろうとしましたが、白が覗いた時反発して跳ねだしたのが好手で、白の下辺の2子を手をかけないで取り込むことに成功しました。更に中央も目一杯広げて黒地にしたので、形勢は大きく黒に傾きました。その後更に右下隅の劫による切断を敢行し、白の中央での劫立てに受けずに劫を解消しました。この結果、白の一団は死残りで、たとえ取りかけに行かなくても地合で黒が優勢ということで、ここで白の投了となりました。伊田8段の戦い方のうまさと読みの確かさが光った一局でした。