安斎伸彰7段の「決定版!囲碁9路盤完全ガイド」を読了しました。私は、囲碁の基本トレーニングとしてずっとAI(最近は「天頂の囲碁(Zen)」)との9路盤対局を繰り返してきました。9路盤で19路盤の布石の勉強をするのはほぼ不可能ですが、接近戦や死活のトレーニングとしては9路盤は非常に優れていると思います。最近、「トライボーディアン」という、囲碁9路盤、将棋、オセロの3つの異なるボードゲームを同時に行う大会が行われており、以前より9路盤への関心が高まっているようで、そこにこの本が登場しました。黒の初手を「天元」「星」「高目」の3つに限定し、初手以降の変化手順を研究したものです。しかし、9路盤とはいえ、一つの図の手順はそれなりに長く、私の棋力ではちょっと変化を追い切れない感じです。また「完全ガイド」となっていますが、AIが打ってくる手を全て網羅しているものでもありません。19路盤に比べて石が置ける場所はわずか81箇所に過ぎませんが、それでも変化は膨大であり、この本一冊で全てがカバーされたりはしません。
一つ嬉しかったのは、私が以前からAIに対する有力な手として打っている、星の対抗布石で、付けて跳ねた時、引くのではなく突っ張る手が、この本(右側写真右上の図)で「こういう風に忙しく打ちたい」ということで推奨の手になっていることです。この手については、以前このブログの中で紹介しています。
「Book」カテゴリーアーカイブ
Kyoji Shirai: Shinsen-gumi
Shinsen-gumi was serialized from 1924 through 1925 on a weekly magazine “Sunday Mainichi”. Sunday Mainichi was published by Mainichi Newspapers Co., Ltd as the first weekly magazine in Japan. As the name shows, the magazine was first published as a Sunday issue of Mainichi newspaper. Since the distinction between normal newspaper and this weekly magazine was not clear for many readers, the number of prints remained stagnant in the early stage. The publisher then tried to make the contents of this weekly magazine clearly different from daily newspapers and it placed Kyoji’s new romance on the top of the magazine. It was a kind of gamble for the publisher, but very interesting stories of Kyoji’s novel attracted many new readers and the financial status of the magazine was thoroughly stabilized.
Another important topic related to this romance is that it was put in the first volume of the Heibonsha’s complete set of public romances, to which Kyoji committed himself very much. The fact that 330 thousands copies were sold for the first volume brought a big success to this set.
Shinsen-gumi was a group of Samurai warriors who guarded Kyoto under the authority of the Tokugawa Shogun regime from around 1863 through 1867. Many members of Shinsen-gumi took rather violent and brutal ways to guard Kyoto and killed many pro-Imperialists by their Japanese swords. Shinsen-gumi was one of the most favored topics for many novelists of public romance at that time.
Kyoji, however, did not write an usual story related to Shinsen-gumi. The story of the romance was mostly of battles between three different schools of spinning tops. Spinning tops were not only toys for kids but also a genre of street performance in Japan. A school of spinning tops here means combination of street performers and meister-level artisans. The first battle was between Orinosuke of Tajimaryu school and Monbee of Kinmonryu school. In this battle, two beautiful ladies were the prize of the battle, and the lady of the lost side had to be gifted to a foreign merchant. The second battle was between Orinosuke and Inosuke of Fushimiryu in Kyoto. In the second battle, both participants tried to get the heart of a lady.
These battels of spinning tops described in this romance were technically very deep and enthusiastic. For example, the both sides selected very special types of wood for their tops and the battle started from guessing which type of wood the counterpart selected. Orinosuke used one very special wood growing on the Nokogiri-yama mountain in Chiba, while Monbee selected one growing on Ontake mountain in Nagano. The Monbee’s top could generate strange wind while it spins trying to weaken the rotation of the counterpart’s top. The Orinosuke’s top, however, was not affected by the wind from the Monbee’s top, since he used a special wood growing on Nokogiri-yama mountain. (It means that Monbee failed to presume the type of wood used for the Orinosuke’s top). This kind of “professional” battles between two craft-persons attracted the then readers much and made them excited.
On the contrary to the battles of tops, Shinsen-gumi plays only in the background of the stories. Orinosuke witnessed the famous Ikedaya incident in which Shisen-gumi killed many famous pro-Imperialists. Kyoji developed a new way of fights between appearing characters in a romance other than sword battles (Chambara). This can be compared to the fact that he adopted a battle by debates in Fuji ni tatsu Kage.
The impression of this romance to the readers was tremendous and people requested Kyoji to write another romance of this type and it distressed Kyoji later for a long period, since he was thinking that he was always trying to change his styles and did not want to stay at the same stage.
白井喬二の「逍遙の歴史小説論と現代のそれと」
白井喬二の「逍遙の歴史小説論と現代のそれと」を読了。白鷗社の「文藝日本」の昭和28年7月号に掲載された2ページのエッセイ。内容はタイトル通り、白井が昔読んだ坪内逍遙の歴史小説論の紹介と、自分の歴史小説に関する考え方の表明です。坪内逍遙は西洋で歴史小説が盛んになったのが19世紀と言っていますが、ジャブロンカ曰くは歴史学と小説が別のものになったのも19世紀で、その辺りの兼ね合いがちょっと面白いです。また白井は「歴史小説」という場合に、「歴史」と「小説」のどちらに重点を置くべきかということに関し、「小説」だと明確に述べていることは注目に値します。白井の真骨頂は、「フェイク歴史」を作り上げることだと私は思っています。それは悪口ではなく褒め言葉です。
マックス・ヴェーバーの「R・シュタムラーにおける唯物史観の『克服』」
マックス・ヴェーバーの「R・シュタムラーにおける唯物史観の『克服』」を読了。松井秀親訳で、河出書房の「世界の大思想」の「ウェーバー宗教・社会論集」に収録されているもの。これも難解で二度読むことになりましたが、それでも内容を十分に理解することは現在の私の時間の使い方の中ではほぼ無理でした。この論考でも私が言う所の「ヴェーバー的倒錯」は発生するのであり、私はシュタムラーの「唯物史観による経済と法-社会哲学的一研究」を第一版も第二版もまるで読んでいません。ヴェーバーがこの論考でシュタムラーを激しく批判しているからといって、シュタムラーをロッシャーとクニースと同列扱いにするのは問題かと思います。少なくともシュタムラーの書籍は、それまでマルクスの一連の書籍をきちんと論じることが出来なかったブルジョア科学者の中で、初めてそれを行い、少なくともマルクス主義者の中にも修正主義者を生むくらいのインパクトを生んでいます。この論考は1907年に発表されたもので、ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の書かれた後です。ヴェーバーの「プロ倫」を読んで誰もが気付くことが、これは唯物論に対する強力な反証である、ということです。すなわち、全てが経済という土台に影響を受けた上で存在する、と主張する唯物論に対し、典型的な上部構造である宗教が逆に「資本主義」という「経済そのもの」が強く影響を受けている、という主張なのですから。シュタムラーもそういう意味では、唯物論に反論した先駆者の一人です。しかし、ほぼ同じような立ち位置にいながら、ヴェーバーはシュタムラーが唯物論で経済を全ての他の要素に先んじる基本要素としたのに対し、シュタムラーは今度は唯心論的に宗教その他を基本要素に置き換えただけで、なるほど唯物論を批判しているものの、その方法論は唯物論とまるで同じではないか、という批判を加えます。また、ヴェーバーは自身の「価値自由」的立場から、シュタムラーがSein(存在、あるもの)とSollen(当為、~すべきもの)の区別を混同していることを批判します。しかし、おそらくシュタムラーは「理想的な法体系」というものを信じているのであって、そこからすべての論理が出てくるのであって、それを批判するのは単なるヴェーバーとの立場の違いのように思います。それから、ヴェーバーのこの論考での主張は、かなりの部分が「経済と社会」の「法社会学」の冒頭での主張と重なっているように思います。すなわち、「ロッシャーとクニース」とこの論考は、批判そのものよりも、ヴェーバーが自身の理解社会学の方法論を確立していく上での踏み台として使われているように思います。
新藤兼人と「盤嶽の一生」
映画監督の新藤兼人が映画界に入ったのは、白井喬二原作山中貞雄監督の映画「盤嶽の一生」を観て感激したからみたいです。以下、Wikipediaより。
「すごい映画に出合った。尾道の“玉栄館”という映画館で見た。山中貞雄監督の『盤嶽の一生』で、人の生き方を考えさせる、知恵の働いた映画だった。「これだっ」と思った、突然ね、映画をやろうと思った。
— 新藤兼人、中国新聞1990年特集「私の道」」
マックス・ヴェーバーの「ロッシャーとクニース」(松井秀親訳)
マックス・ヴェーバーの「ロッシャーとクニース」(松井秀親訳)を読了しました。ヴェーバーの本は大体において難解で有名ですが、この本は特にそうで、一回読んだだけではさっぱり頭に入らず、二回目に注釈を飛ばしてなおかつマーカーで線を引きながら読んでようやく少しだけ理解できた感じです。私には「ヴェーバー的倒錯」と呼んでいる現象があって、それは何かというと、たとえば「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」であれば、本来であれば「プロテスタンティズムの倫理」について多少は知識がある人が読むべきと思いますが、大抵の日本人はヴェーバーの著作によってプロテスタンティズムを知る、ということになります。「古代ユダヤ教」なんかに至ってはさらにそうで、クリスチャンでない限り、旧約聖書の世界に精通している人は日本にはそうはいません。「儒教と道教」ぐらいなら、日本人であれば多少はヴェーバーよりも理解しているかも知れませんが、それだって実は怪しいのではないかと思います。(「老荘思想」は知っていても、道教の実際を良く知っている人がどれだけ日本にいるでしょうか。)
この「ロッシャーとクニース」もまさにそうで、ヴェーバーは「ドイツ歴史学派の子」として、その親にあたる二人の学者を批判して自分の拠って立つ学問的基礎を固めようとしている訳ですが、この「ドイツ歴史学派」というのが、今日の日本ではほとんど知られていないと思います。この歴史学派は、経済学での「合理的な人間」(自分の利潤を最大限にしようとして行動する人間)の考えや、法学における「自然法思想」に対する批判として起こり、そういう普遍性の追究よりも、歴史的な経緯というものを重んじる学派です。それはドイツ自身がプロイセンによって国民国家としてやっと統一された「遅れてきた国民国家」としての立場主張と考えられます。その創始者はフリードリヒ・リスト(1789-1846)で、国民国家を最高のものとし、ヘーゲル的な発展段階説を唱えます。その後に来るのがブルーノ・ヒルデブラント(1812-1878)、ヴィルヘルム・ゲオルク・フリードリヒ・ロッシャー (1817-1894)やカール・グスタフ・アドルフ・クニース(1821-1898)になり、ヴェーバーがこの本で批判の対象にしているものです。
マックス・ヴェーバーの生涯はご承知の通り、1864年-1920年ですから、ロッシャーは47歳、クニースは43歳年上で、ヴェーバーから見ればいわば父親から祖父の世代になります。
そこでこの二人の批判ですが、ロッシャーに対する批判は比較的理解しやすいです。もっとも私はロッシャーの著作は一切読んだことがないので、片手落ちではありますが、ヴェーバーは、ロッシャーが「因果性」と「法則性」をごちゃごちゃにしていて、というか最初から「民族共同体の発展の図式」のような素朴な「信仰」がバックにあり、つまる所は宗教的な信仰へと行き着きます。19世紀に宗教から科学が分離をし始めますが、ロッシャーの段階ではそれはまだ混ざり合ったものであり、科学的な歴史の解明としては問題が多いことをヴェーバーは批判しています。
これに対して、クニースへの批判は非常に錯綜しており、分かりづらいです。私はクニースの著作もまったく読んでいませんが、ヴェーバーによればそれ自体がかなり晦渋なもののようです。しかもヴェーバーはクニース批判に入る前にそれと関連あるものとして、まずは実験心理学のヴィルヘルム・ブント(1832-1920)の方法論を批判し、さらには同じく心理学のヒューゴー・ミュンスターベルク(1863-1916)をも批判します。ヴェーバーが自分の社会学を心理学とははっきりと区別していることは例えば「理解社会学のカテゴリー」にも出てきますが、ここではかなり詳細に立場の違いが論じられます。
さらには続けてゲオルグ・ジンメル(1858-1918)の説も取り上げられます。ヴェーバーが歴史における現象の「意味」を客観的に「理解」することを、主観的な動機の解明(心理学的なアプローチ)からきちんと区別したことをジンメルの功績として挙げ、ヴェーバーの立場がそれに近いことを示しています。
ここで一言言っておかなければならないのは、私は保城広至の「歴史から理論を創造する方法 社会科学と歴史学を統合する」への書評の中で、保城がヴェーバーの理解社会学を「解釈学」として表現することに異を唱え、「ウェ-バーの方法論のテキストの中に「解釈学」という言葉が出てくるのを私は記憶していません。」と書きました。しかし、この私の書いていることは間違いで、この「ロッシャーとクニース」の中には、「解釈」や「解釈学」という言葉は何度か登場します。しかしヴェーバーは、「解釈学」が扱う「解釈」の問題は、彼がこの著作で問題にしている認識論的な問題とはまったく別のことを扱っているので、シュライエルマッハーやベックの研究は考慮しないとはっきり言っています。またディルタイの論説についてもその先入観ともいうべき部分を批判しています。私はこの「ロッシャーとクニース」によって、再度ヴェーバーの「理解社会学」は(いわゆるシュライエルマッハーやディルタイからハイデガーにつながる)「解釈学」とは理解されるべきでないことを再度確認できたと思います。
そういう風に延々と回り道をして、第三論文でようやくクニース批判にたどりつきますが、しかしこの論文は未完であり、途中で終わってしまっています。結局クニースの考え方は人間は統一された有機体であり、さらにその考え方を国民国家にも適用し、国家もそのような有機体として理解されるべきと考えているとヴェーバーは批判します。その「統一的有機体」というものが定義も歴史的な解明もされず所与のものとされて最初から前提とされている所にヴェーバーはクニースの学問の非科学性を見ています。
といったような私の理解がどこまで読めているのかはまったく自信がありませんが、ヴェーバーが精神疾患からの回復過程でかつ「プロテスタンティズムの倫理と資本主義」を書く前にこの方法論的考察を行ったという所が非常に興味深く感じます。
白井喬二の「筒井女之助」
白井喬二の「筒井女之助」を読了しました。週刊朝日別冊の1960年11月号に収録されています。この筒井女之助というのは、尼子十勇士の中の一人の井筒女之介(実在した可能性がある人物のようです。かぶき者で女装し女性の髪型をしていた、と伝えられています)をモデルに白井が創作した人物だと思います。女之助は安芸の境備後の子ですが、5歳までは女装させられて育ち(昔は魔除けの意味で男子に女装させて育てるのは珍しい話ではないと思います)、めそめそ泣いてばかりいた弱虫でした。元々「翁丸」という名前でしたがそういう所から「女丸」と呼ばれるようになり、これが転じて「女之助」になったと説明されています。この女之助は9歳で初陣に出ますが、11歳頃から功名手柄をあらわして、そのうち自分で曰く「戦さやくざ」となり、戦場の高揚した雰囲気ではないと満足を感じなくなります。女之助は松永弾正から稚児にされかけますが、これを敢然とはねつけます。また青屋広忠の娘の露姫が女之助に恋しますが、これもまったく相手にしません。そのうちに松永弾正は織田信長との戦いになり、戦さが大好きな女之助はその見物に出かけます。そこで露姫に再会しますが、露姫は女之助を思う気持ちが昂じて正気を失っていました。さらに露姫は松永弾正に毒殺された父親の仇を討つために弾正を付け狙っていました。弾正が信長との最後の戦いで追い詰められていた所に露姫がかけつけ仇を討ち同時に火中に身を投じます。それを見ていた女之助も同じく火中に身を投げ自害するというちょっと不思議な話です。
3枚目の写真はオマケでこの週刊誌のグラビアにあった若き日の黒柳徹子です。(左側)
「ペンギン・ハイウェイ」(森見登美彦原作のアニメ)
「ペンギン・ハイウェイ」を観て来ました。なかなか良かったです。主人公が小学4年生の少年のせいか、子供連れの客が多かったですが、ちょっと子供には難しいのではないかと思います。原作は森見登美彦です。私は森見登美彦の小説は全部読んでいるので、この小説も2010年に出た時に読んでいます。その時は森見登美彦もちょっと新しい方向を模索しているな、という感じで、ストーリーもほとんど覚えていません。なので映画で原作とどこが変わっているかは分かりません。印象的なのは主人公の少年が全くの不条理な現象に対しとことん「科学的」アプローチを貫こうとしている所で、また少年のお父さんがいわゆるヒューリスティックス(エウレカ)的な問題解決のアドバイスを与えたりしてなかなか格好いいです。この辺り京都大学農学部出身の森見登美彦自体の少年時代がおそらく反映されているのでしょう。しかし森見ワールドと言うのはそういう合理的・科学的な世界と幻想的な非合理的世界が境界が曖昧なままミックスされていることで、日本の高度なアニメ技術はその辺りをうまく表現していました。またアニメそのものはCGだけに頼らず、かなりの部分手描きが行われていたのだと思います。実際にクレジットにはかなりの数のアニメーターが参加していたようで、タツノコプロの名前も見えました。このアニメはまた少年のVITA SEXUALISでもあります。結構あの年頃って年上の女性に憧れたりしますが、その辺りが上手く描かれ、その少年が好きで「お姉さん」に嫉妬する同じクラスの女性もいかにもありそうな感じで良かったです。
Bangaku no Issho (The life of Bangaku) by Kyoji Shirai
Let me introduce today one of the most impressive novels of Kyoji Shirai: Bangaku no Issho (The life of Bangaku, “盤嶽の一生”). This novel is a collection of short stories featuring Bangaku that Kyoji wrote for several magazines from 1932 to 1935.
As the title shows, this novel describes the life of Bangaku Ajigawa (“阿地川盤嶽”), a lone wolf Samurai worrier, who loves rightness and always try to find it and is eventually betrayed. He was born in Bushu (the curent Saitama-Tokyo-Kanagawa area) and lost his father at 12 years old and his mother at 14. After the death of his parents, he was raised by his uncle, but because the daughter of his uncle (namely his cousin) disliked him much, he left his uncle’s house when he became an adult. Since his skill of swordplay reached the expert level when he was 26 years old, his master gave him a noted sword named Heki Mitsuhira (“日置光平”) .
As I wrote in my introduction of Kyoji Shirai’s life, Kyoji inherited the sense of justice from his father who was a policeman when he was born. Bangaku can be considered to be an alter ego of Kyoji. All Christians know the Jesus’ Sermon on the Mount: “Blessed are they which do hunger and thirst after righteousness: for they shall be filled.” (Mattew 5.6, KJV). Bangaku is truly one of those who do hunger and thirst after righteousness. If he were a Christian, he might have been filled, but he was not.
Repeated stories of Bangaku that he expects righteousness and he is finally betrayed and disappointed are funny but sad at the same time. For example, when he was living in a slum of the Edo city, he sympathized with miserable workers of a match factory. Since he had some scientific knowledge, he tried to construct an automated machine of match production in order to reduce the heavy work of the workers. When the machine was completed, however, the owner of the factory fired many workers because he can save them by the power of the machine. If we see another example, Bangaku tried once a fortune-telling play by throwing some unglazed dishes (fortune is judged by how dishes broke) because he thought that such thing can be completely coincidental and no human malicious intention is included. The truth was, however, the fortune-teller was preparing several patterns of broken dishes in advance and was selecting the results according to the economical status of the customer.
Bangaku gradually lost any expectation for adults and started to hope for young people. But some young guys betrayed him bitterly and then he started to hope for children, or finally for babies. All his trials were not satisfactory at all.
These stories had not been finished. IMHO, the author, Kyoji, could not find out an appropriate end for these stories, or he might have thought that Bangaku, a kind of dreamer, should wander in the limbo between expectation and disappointment eternally.
This novel was picturized twice and made to a series of TV drama also twice.
The first movie was taken by Sadao Yamanaka in 1933. Sadao Yamanaka was a gifted movie director but died as a soldier in China at the age just 29. While Kyoji Shirai was not satisfied with most movies based on his stories, he evaluated the talent of Sadao Yamanaka very highly. Although the film itself was lost by war, there was a legendary scene in the movie where some thieves of watermelon (Bangaku was having his eyes on a watermelon field in the night) act like rugby players passing a watermelon from one to another. Kon Ichikawa, a Japanese movie director who picturized the first Tokyo Olympic in 1964, watched this movie of Bangaku when he was a child, and he scripted for the TV drama of Bangaku broadcasted in 2002. Bangaku was played by Koji Yakusho (“役所広司”).
白井喬二の「春月を語る」(エッセイ)
白井喬二の「春月を語る」(エッセイ)を読了。南北社の「南北」という文芸誌の1968年2月号に掲載されたもの。1968年といえば、白井が「大法輪」に「黒衣宰相 天海僧正」を連載している頃で、白井は77か78歳でしょうか。「春月」とは言うまでもなく、詩人の生田春月のことです。生田春月は白井と同郷の米子の生まれで、白井の3年後に生まれ、白井と同じ角盤高等小学校で白井の二年下でした。しかし、春月は実家の酒造業が破綻を来して、小学校を中退せざるを得なくなります。17歳の時に生田長江の書生になり、文学とドイツ語他の語学を学びます。そしてハイネに傾倒しその詩を訳したり、自分でも詩を発表するようになります。しかし、38歳の時に瀬戸内海で船の上から投身自殺します。
白井は単に小学校の同窓としてだけでなく、春月が小学校を辞めた後も一種の文学仲間として付き合いを続けます。また、白井によれば春月が朝鮮に滞在した際に、毎日のように春月から白井に短歌が送られて来たそうです。
白井はそれまで求められても春月の思い出を文章にすることはなかったそうですが、その白井がこの一文を寄せたのは、詩人の広野晴彦が、「定本生田春月詩集」を編み、自身が詩人でありながら、春月の生涯を調べ尽くそうという氏の情熱にほだされてのことのようです。
私自身も既に38年も前に亡くなった白井喬二の作品をひたすら追い求めている訳で、その私が生田春月を追い求めた広野晴彦氏の話を読むというのも何かの縁のように思います。