菅野完の「日本会議の研究」を今頃読みました。出版差し止めされたり解除されたりと忙しく、万一読めなくなってはと思い、目を通しました。かなり地道な労作で、決して日本会議側がそう呼んでいるような「トンデモ本」ではありません。私は安倍晋三という人につきまとう、怪しげな雰囲気がなんなのだろうと常々疑問に思ってきましたが、この本で少しその理由がわかったような気がします。面白いのは、著者の菅野氏も保守右寄りの人だということで、そういう人が同じ右寄りでも日本会議にはかなり違和感を感じている所が面白いです。
ちなみに私はこの本にも出てくる「右傾化」という言葉が嫌いです。何故ならば、「右化」か「右傾」で十分で、わざわざ「傾」と「化」を重ねる意味がわからないからです。というか何かをごまかそうとしていう言い回しにしか思えません。「右傾化傾向」に至っては噴飯ものです。言葉を曖昧にすることが、存在が曖昧なまま日本最大の圧力団体になった「日本会議」を産んだような気がして、このことは因果関係があるように思います。
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原田豊太郎の「英文ライティング『冠詞』自由自在」
原田豊太郎の「英文ライティング『冠詞』自由自在」を読了。正保富三の「英語の冠詞がわかる本」が得るところが少なかったため、さらに冠詞の使い方の理解を求めて買ったもの。筆者は1941年生まれで、東大の応物出身。技術英語の本をたくさん書いている人です。この本に書いてあることで、目から鱗だったのは、ネイティブが使ういわゆる英英辞典には、[U](不可算名詞)と[C](可算名詞)という記号はついてないよ、ということ。何故ならばほとんどの不可算名詞は、可算名詞になることもあるから。有名な例としては、自由=freedomは普通不可算名詞ですが、セオドア・ルーズヴェルト大統領は1941年に「四つの自由」を唱えました。((1) 表現の自由,(2) 信仰の自由,(3) 欠乏からの自由 ,(4) 恐怖からの自由 )これの英語はfour freedomsです。「英辞郎」に[U]と[C]が載っていないのは何故なんだろうと常々思っていましたが、疑問が氷解しました。
また、この筆者は、「a〔数えられる名詞〕が特定の一つの事物をさす」という、非常にパラドキシカルな場合があることを強調します。それは書き手が特定の事物を取り上げているという意識がないのに、特定性が生じることが特徴だと言っています。説明は長くなるので省略します。
この本は、正保本よりも実用的だと思います。ただ、こうした本では、結局規則とその例外を示すので、印象深いのはむしろ例外の方で、こうした本を読んだためにかえって実際の英文を書くときに悩んだり、誤ったする可能性が増えるのではないかと思います。結局規則で冠詞を理解しようとしても限界があって、語学というのはやはり慣れるしかないということを改めて思い知らされます。ただ、それでも諦めきれないので、この本の中で紹介されていた、デイビッド・セインの冠詞の本をさらにAmazonに注文しました。
獅子文六の「七時間半」
獅子文六の「七時間半」を読了。1960年に週刊新潮で連載されたもの。獅子文六67歳です。何が「七時間半」なのかというと、東京発大阪行きの特急「ちどり」(架空の列車名、モデルとなっているのは特急「はと」)が東京を発って大阪に着くまでが七時間半ということです。この特急列車に乗り込んでいる食堂車のコック、ウェイトレス長、そしてメレボ(女性の列車ボーイ、実際に「はとガール」という女性乗務員がいたみたいです)の3人を中心として色んな人間が登場して話が進行していきます。まずは、1960年当時で、東京大阪間が7時間半もかかったということに、新鮮な驚きを感じます。ちなみにこの物語の4年後に東海道新幹線が開通し、東京大阪間を最初の1年は4時間で結び、その後は3時間10分にまで短縮します。つまりあっという間に半分以下になった訳です。ちなみに現在では2時間22分です。現在の新幹線ではとてもこの話は成立しません。
解説の千野帽子さんは、この小説を「グランドホテル形式」と書いていますが、それよりも私が思ったのは、この小説は大衆時代小説の一つの形式である、「東海道五十三次もの」の現代版だということです。「東海道五十三次もの」の元祖は当然「東海道中膝栗毛」ですが、私が読んだ時代ものの中でも、野村胡堂の「三万両五十三次」や、南條範夫の「月影兵庫 上段霞切り」がそうです。もっともこの獅子文六の小説では東海道はあっという間に過ぎてしまう訳ですが、どの駅で給水するのかとか、どの駅でどんな土産物が売れるのかという情報を細かく書いていて、現代の五十三次ものとしての面目躍如だと思います。
この特急「ちどり」には岡首相が乗っていて、モデルは当然岸信介首相でしょう。そして岸信介首相に対抗するのは、60年安保の時代ということで全学連で、獅子文六はこの2つをうまく話の中に入れてストーリーを作ります。
全体的に深みはまったくないですが、67歳の獅子文六のストーリーテリングの巧さが光る作品だと思います。またグルメであった獅子文六が食堂車というものについて穿った解説をしてくれている小説でもあります。今は新幹線でも食堂車はなくなってしまいましたが、ちょっと懐かしさを感じます。
大川慎太郎の「不屈の棋士」
大川慎太郎の「不屈の棋士」を読了。コンピューター将棋に対する考え方を11名の棋士にインタビューしたもの。奇しくも電王戦で、佐藤天彦名人が、現役の名人としてポナンザと対局し、いい所なく敗れるという報道がありました。このように、既にコンピューター将棋は、タイトルホルダーのような超一流のプロ棋士の実力をも超えていることは明らかだと思いますが、11名の中には佐藤康光9段のようにそれすら認めていない人もいるということがわかりました。個人的には千田翔太6段のように、コンピューターを積極的に活用して、自分の棋力を向上させようとしている人の方がはるかに好感が持てます。個人的なことを振り替えれば、私の囲碁の力は、最初の頃は棋書をたくさん読み、プロの棋譜を並べ、また亡父(アマチュア7段格)に打ってもらうことで、すぐに3級くらいにはなりました。でもそこから先の初段へ、そして現在の3~4段くらいの棋力になる上では、コンピューター囲碁との対局が本当に役だっています。将棋でもこれから出てくるプロは、ほとんどをコンピューターとの対局で腕を磨いた、という人が出てくると思います。また、文字を書くことで考えても、ワープロやパソコンの仮名漢字変換が出てきて、「漢字が書けなくなる」などのネガティブなことをいう人はいました。でも、後から考えてみると、コンピューターは人間の書く力を強めてくれた、と思っています。本書のサブタイトルには、「人工知能に追い詰められた「将棋指し」たちの覚悟と矜持」とありますが、過剰な「矜持」は感じられても、「覚悟」の方はあまり感じられなかったです。
小林信彦・編の「横溝正史読本」
小林信彦・編の「横溝正史読本」を読了。小林信彦と横溝正史の1975年から76年にかけての4回の対談を中心にまとめたもの。小林信彦の編集者としての仕事の内、もっとも良質な部分が良く出た本だと思います。特に、戦前の、横溝正史が「新青年」の編集長をしていた頃を中心とする話が興味深かったです。小林信彦は宝石社のヒッチコックマガジンの編集長をやっていた頃に、宝石社に保管してあった「新青年」の多くに目を通しており、またその頃の宝石社には、真野律太という、博文館の「譚海」という雑誌の編集者をやっていた人が校正の嘱託として働いており、小林信彦と交流がありました。横溝正史の「神変稲妻車」を読んだ時に、白井喬二と国枝史郎の影響を感じたのですが、白井喬二の影響はこの本では良くわかりませんでしたが、年譜から白井喬二と横溝正史がほとんど同じ頃文壇デビューを果たしているのを知りました。国枝史郎については、ある出版社から文庫本による国枝史郎の作品集が出た時、三人の監修者の一人が横溝正史だったということでした。横溝正史が国枝史郎の作品を高く評価していることはよくわかりました。
私は横溝正史の作品としては、「本陣殺人事件」、「犬神家の一族」、「八つ墓村」程度しか読んでいないので、それ以外の部分は論評を差し控えますが、小林信彦が知識の量としては横溝正史にまったくひけを取らず、横溝正史から色々な情報を引き出していることを高く評価したいと思います。
獅子文六の「自由学校」
獅子文六の「自由学校」を読了。この作品、中学生の時に一回読んでいる筈なのですが、内容をまったく覚えていませんでした。家に「昭和文学全集」みたいなのがあって、その中に「獅子文六」の巻があり、確かに「自由学校」が入っていたと記憶しているんですが…
昭和25年に朝日新聞に連載されたもので、連載中から話題の大人気作になり、昭和26年になんと松竹と大映の競作という形で同時に映画化され、それが5月連休に封切られて大当たりしたことから、「ゴールデンウィーク」という呼び方がこの時初めて生まれます。また、中に神楽囃子が出てきます。そのリズムの表現として「テンヤ・テンヤ・テンテンヤ・テンヤ」という描写が出てきますが、この擬音語を矢代秋雄が自作の交響曲の第二楽章で、八分の六拍子+八分の二拍子+八分の六拍子という変拍子として使います。この交響曲のCDはNaxosから出ていて所有しています。他にも色々エピソードがあって、「とんでもハップン」という言い方は、獅子文六がこの小説で使って有名にした表現です。
お話しは、生活能力の優れた駒子と、育ちは良くて巨体だけどぐうたらな五百助の夫婦が、いつの間にか勝手に職場を辞めていた五百助に駒子が「出て行け」と怒鳴り、五百助がはいそうですか、と家出する場面から始まります。一人になった駒子には、三人の男が言い寄ってきます。一方、ほぼルンペンにまで落ちぶれた五百助ですが、意外とたくましく暮らしていき、橋の下に住みながら結構裕福な暮らしを送ります。色々あって、結局この二人は獅子文六らしく元の鞘に収まるのですが、その収まり方がまたとても現代的です。五百助がお茶の水の橋の下に暮らすというのは、獅子文六が戦後実際にそういう人達を自宅から観察していたことが、「娘と私」に出てきました。
戦後、「自由」というものが外から与えられたものとして日本に入ってきて、それによって日本人の色んな人が翻弄される様子を面白可笑しく書いている作品です。
正保富三の「英語の冠詞がわかる本」
正保富三の「英語の冠詞がわかる本」を読了。「わかる本」となっていますが、この本を一冊読んだ後も、冠詞についてわかるようにはなりませんでした。むしろ、ますます混乱が拡がったような。何故ならば、この本は最新の英文のコーパスに基づいて、「一般的には~だけど、コーパスでは~という言い方も多くされている」といった例がたくさん示されていて、元々例外だらけだった冠詞についての文法規則が、さらに例外を認める方向に拡大している、ということがわかるからです。ただ、一つ役に立ちそうなのは、特に商用の文(コピーなど)については、冠詞はどんどん省略される方向に向かっていることがわかったことでした。Amazonで、もう一冊冠詞に関する本を注文しました。
白井喬二の「唐手侍」
久しぶりに白井喬二のまだ読んでいない作品の「唐手侍」を読了。別冊小説新潮の昭和36年の7月号に掲載されたもの。これ、6月に発売されたものだとすると、奇しくも私が生まれたまさにその月です。白井喬二の「さらば富士に立つ影」によると、英文学者の吉田健一が「武士の典型として時代小説の面白さがここにある」と評した作品。単行本にはなっておらず、本当は学芸書林の白井喬二全集の第二期のものに収録される予定でしたが、白井喬二の申し入れでこの第二期が取りやめになったため、今日に至るまで単行本では出ていません。従って初出のこの「別冊小説新潮の昭和36年7月号」を入手するしかなく、たまたま見つかったのはラッキーでした。
お話しはタイトル通り、「唐手」を身につけた侍が、本能寺で織田信長を討った明智光秀の家来である間者と、刀対素手で戦う話です。この時代ですから、唐手(琉球空手)については大したことは書いていないだろうと思っていましたが、意外にどうして、中国の張三豊(この作品では張三峰、中国の内家拳の始祖と言われています)から琉球に伝わった唐手について、その技法についても結構詳しく書いています。琉球に渡ったことのある兄より、幼い頃から唐手を仕込まれ、かなりの腕前であるのに、実際は引っ込み思案である武士が、実戦で唐手を使って勝利し、戸惑いながら自分の力に目覚めていく様子が描かれた、ちょっと不思議な、でもとても白井喬二らしいトーンの作品です。
橋本崇載の「棋士の一分 将棋界が変わるには」
橋本崇載の「棋士の一分 将棋界が変わるには」を読了。羽生さんの本を買ったら、Amazonがレコメンドしてきて、見てみたらレビューでものすごい悪評たらたらなので、どんなもんかと思って買ってみました。Amazonで酷評される程ひどい本ではないと思いますが、例の三浦弘行9段のソフトカンニング疑惑で、「ほぼクロ100%」とか断定したせいで、かなりブーイングを喰っているようです。この人どういう人か知りませんでしたが、Wikipediaを見たら「NHK杯戦で二歩を打って負けた人」とあったので、ああ、と思いました。
気になるのは、コンピューター将棋に対してかなりネガティブなことで、将棋をプロ棋士のいわば既得権益みたいに捉えていて、コンピューター将棋はその領域を侵すもの、みたいに考えているようでした。囲碁の世界で、アルファ碁とMaster、DeepZenGoの打つ手を積極的に評価しようとする態度が多く見られるのとは対照的です。
しかし、この人が危惧しているように、今のように新聞社が棋戦に大金を出すことが続くかどうかは、極めて危ういでしょうね。羽生さんの本によると、コンピューターが打ち出した手を「矢倉定跡」ではどうしても打ち破ることができず、そのためかつては本格将棋の代名詞だった「矢倉」を指す棋士が激減したそうです。また、昔「燃えろ!一歩」っていう将棋漫画があって、ある少年棋士が先手番で「完全将棋」(先手必勝の手順)を編み出して、そのために名人が引退してしまう、という話がありましたが、コンピューター将棋がこの少年棋士の役割を果たしてしまう可能性は十分考えられると思います。
羽生善治+NHKスペシャル取材班の「人工知能の核心」
羽生善治+NHKスペシャル取材班の「人工知能の核心」をざっと読了。2016年5月に放送された、NHKスペシャル「天使か悪魔か 羽生善治 人工知能を探る」のために、世界中を取材した内容をまとめたもので、羽生さんが本文書いて、NHKのディレクターが章末にレポートを追加しています。忙しい羽生さんが本当に全部書いたのか疑問にも思いますが、もしかするとゴーストライターが羽生さんに取材して書いたという可能性も否定できません。あまりじっくり読んでいませんが、NHKらしく浅く広くで、突っ込みが足りないという感じを受けました。特に折角羽生さんなんだから、コンピューター将棋、コンピューター囲碁についてじっくり語って欲しかったですが、そこはかなり控えめです。1996年に将棋年鑑のインタビューで、「コンピューター将棋がプロ棋士を倒す日が来るとしたらいつか」という問いに、多くの棋士が「そんな日は来ない」と回答したのに(映画の「聖の青春」でもそのシーンが出てきました)、羽生さんは2015年と答えたそうです。羽生さんは、アルファ碁を見て、コンピューターが「引き算の思考」をやり始めた所に感銘を受けたそうです。羽生さんはそこをアルファ碁の強さの秘密、みたいに書いていますが、私はちょっと違うと思います。モンテカルロ木探索では、全部の手を制限時間内に読むことはできないから、どちらにせよ読む手は制限するしかないだけだと思います。後、面白かったのは、日本のコンピューター将棋が、今回Googleがアルファ碁でやったような大量の資金をかけて一気に作り上げるというのの対極で、個人が細々と延々と努力して作り上げてきた、と振り返っている所。この点はZenなどの日本のコンピューター囲碁ソフトも同じでしたが、アルファ碁出現後は、ドワンゴがZenの開発者を資金支援し、コンピューターリソースを提供するなど、流れが変わりました。また、将棋の場合、ディープラーニングをするには、棋譜の数が日本だけなので十分ではないそうです。その他、色々と書いてあって、テキストの形態素解析の話まで出てきますが、全体では散漫な印象を受けました。