大松博文監督の「なせば成る! 続・おれについてこい」と谷田絹子の「東洋の魔女と呼ばれて 私の青春」

大松博文監督の「なせば成る! 続・おれについてこい」と谷田絹子の「東洋の魔女と呼ばれて 私の青春」を読みました。個人的にすっかり大松監督ファンになっています。前著の「おれについてこい!」は1962年の世界選手権優勝の後に出版されていますが、続篇は1964年12月の東京オリンピックの後に出ています。やはり大松監督の合理性を強く感じたのは、1962年の世界選手権がピークだったニチボーチームを、日本全国からの東京オリンピックに出て欲しい!という願いに応えて出ることを決心した時に、1962年の時は4:6でソ連に負けていたのを精神力でカバーして勝った、というのを東京オリンピックでは7:3で圧倒して勝とうとします。そのため前回は「柔よく剛を制する」でどちらかと言えば守備力(回転レシーブ)とチームワークで勝ったものを、東京オリンピックでは「剛」も鍛え、攻撃力、スパイク力でも負けないようにします。もちろん平均身長ははるかに日本が低いですから、それを補うために今回編み出されたのが「移動攻撃」で、スパイクを打つ選手が右に左に平行移動してスパイクを打つ位置を相手から読めないようにします。後のミュンヘンオリンピックでの男子バレーの各種クイック攻撃とちょっと似ている所があります。更に、サーブも、ソ連は1962年の敗因の一つだった「木の葉落とし」サーブを徹底的に研究し、それを拾う練習も積み重ねていました。しかしニチボーチームは、木の葉落としの回転を微妙に変化させ、ネットを越えたらすぐ落ちるのではなく、落ちる位置も何種類にも分けて攻撃力をアップします。そして睡眠時間は1962年までより更に短くなり、オリンピックの直前にはチームはボロボロ状態になります。しかし「これだけ練習している私達が負ける筈がない」というある意味絶対的な自信になり、ついに東京オリンピックの決勝戦で、ソ連を3-0のストレートで下します。大松監督は、ソ連の敗因は1962年時点のニチボーチームを越えることを目標にし、その後のニチボーチームの進化を計算に入れていなかったことだと断言します。
谷田選手の本は、ちょっとしたエピソードみたいなものが中心ですが、大松監督が鬼どころか、映画をねだるとすぐ自腹で連れて行ってくれて食事までおごってくれた「仏」だったと言っています。
印象に残るのは、大松監督も谷田選手も猛練習が楽しかったと言っている所です。ともかく元気をくれるいい本でした。