河西昌枝さんの「バレーにかけた青春 キャプテン生活八か年」

河西昌枝さんの「バレーにかけた青春 キャプテン生活八か年」を読了。言うまでもなく、「東洋の魔女」ニチボー貝塚のバレーボールチームのキャプテンを8年も務めた方です。中に、「東洋の魔女」が辞めた後の新生ニチボー貝塚チームの試合の話があって、決勝戦の相手が「日立武蔵」だったということです。「サインはV」の主人公のチームはテレビでは「立木大和」ですが、原作の漫画では「立木武蔵」です。誰が考えたって「日立武蔵」をモデルにしたに決まっていますが、既にこの頃から台頭していたようです。しかしその日立武蔵チームをニチボー貝塚の新しいチームは「キャリアが違う」と一蹴します。(ちなみに「サインはV」で立木大和のライバルチームは「レインボー」でこれもニチボーそのまま。)
河西さんは、キャプテンとして大松監督が仕事で遅くなる時には代わってチームを鍛えていた人で、「大松監督より厳しい、怖い」ということで有名でした。また大松監督に対しても、監督がへそを曲げて「わしゃ帰る」と立ち去ろうとした時に、いつも真っ先に謝り役をやる人でもありました。しかし、そんな河西さんが一度は大松監督を突き飛ばして尻餅をつかせたこともあるのだとか。
東京オリンピックの時、河西さんはチーム最年長の31歳でした。今なら31歳で独身は珍しくもなんともありませんが、当時では完全な「行き遅れ」でした。オリンピック後、大松監督は河西さんのお婿さん捜しに奔走します。実は河西さんのお父さんが東京オリンピックの直前に亡くなり、そのお父さんから「呉々も昌枝の結婚をよろしく」と頼まれていたとのことです。そして大松監督は何人かを河西さんに紹介したようですが、河西さんも「自分より背の低い人は嫌」(河西さんは174cm)と断ります。そしてついに大松監督はオリンピックの金メダルの報告で佐藤栄作総理に会った時に、何と総理大臣に河西さんの婿捜しを依頼します。そして本当に河西さんは佐藤栄作総理夫妻の媒酌で、自衛官の人(その人は身長172cmだったみたいです)と結ばれます。
その後もバレーボールが忘れられず、いわゆるママさんバレーを最初に組織化したのが河西さんです。もう亡くなられていますが、勇気と一つのことに打ち込む尊さを教えてくれました。