長谷川伸の「日本敵討ち異相」を読了。中央公論で昭和36年から37年にかけて13回連載された、長谷川伸の遺作です。長谷川伸というと「瞼の母」や「一本刀土俵入」の作家で、股旅物というジャンルを作った作家です。この作品は、日本史上での敵討ちの文献を長谷川伸が370件ほども集めて、その内の13件を改めて長谷川伸がまとめ直したものです。敵討ちで、卑属が尊属の敵を討ってもいいけど、逆は駄目、というのは知っていましたが、姦通を行った不義の妻と相手の男を討つ「女敵討ち」というのはこの作品で初めてそういうものがあったのを知りました。他には敵を討つまで実に35年もかかって、その時相手は82歳だったとか、なかなかすさまじい実例が出てきます。敵を討つ方も討たれる方もなかなかに大変だったということもよくわかりました。長谷川伸は、白井喬二と一緒に二十一日会に参加しています。また、池波正太郎の先生です。
「Book」カテゴリーアーカイブ
国枝史郎の「煉獄二道」
未知谷から出ている国枝史郎の伝奇全集補巻に入っている「煉獄二道」を読了。国枝史郎の場合、全貌が未だに明らかではなく、今頃になって新発見の長篇が出てきたりするのは、喜ぶべきなのか、悲しむべきなのかわかりません。この「煉獄二道」は1930年に映画になっているようなので、今まで何故見つからなかったのか不思議です。物語は、天草の切支丹の話で、島原の乱で終わります。国枝史郎としては珍しく話に破綻がなく、筋立てとしても無理がなく最後まで行きます。波乱万丈という感じではないのですが、何故か不思議な魅力を持っていて、途中大胆にも20年の話の省略があり、最後まで飽きないで読むことができます。有馬直純の娘のるしや姫とその娘のまりあ姫と、るしや姫を一生慕い続ける竹富義之介らが、幕府から禁じられたキリスト教信仰を守り通して最期は原城で果てるお話しです。
下村悦夫の「悲願千人斬」(下)
下村悦夫の「悲願千人斬」(下)を読了。土岐家の忘れ形見の太郎頼秀を秘かに隠し育てている白雲上人とその腹違いの弟土佐青九郎は、甥である稲葉伊代守に頼秀を託そうとしますが、一抹の不安を感じて頼秀ではなく、青九郎の息子で頼秀によく似た多門光治を身代わりに伊予守の元に送ります。光治はそこでしばらく匿われて侍女の深雪と深い仲になりますが、それを嫉妬した男の奸計により、光治は敢え無く命を落とします。本物の頼秀は無事だった訳ですが、その頼秀の存在もやがて敵方につきとめられ、敵方より秘かに派遣された美女の間者の手により頼秀も敢え無く毒殺されてしまいます。で、そこからがタイトル通りで、仏門に帰依した高僧であった筈の白雲上人と、青九郎が斎藤家の侍を次から次に斬り殺して、最終的に千人を殺すことを目標とする、という陰惨な話になります。白井喬二は「悲願千人斬」という題名を「古今絶無」と評したそうです。実はこの作品はジョンストン・マッカレーの「双生児の復讐」を下敷きにした作品だということです。下村悦夫という作家は、「大衆文芸」という言葉が生まれる前の「新講談」の時代にデビューし、結局一生その引け目が抜けず、また手を抜いた仕事が目立ってしまったようです。(朝日新聞に連載された下村の「愛憎乱麻」という作品は、読者からの抗議が殺到し、2年の筈の連載が1年で打ち切られたそうです。)
この作品は面白くないとは言いませんが、私の好みではないです。こういう作品を読むと、白井喬二作品の健全さ、明るさがよりいっそう引き立つように思います。
下村悦夫の「悲願千人斬」(上)
下村悦夫の「悲願千人斬」(上)を読了。獅子文六も主なものは大体読んだし、さすがに獅子文六で手に入るものを全部読もうとは思わないので、次に移行。次のステップとしては、平凡社の「現代大衆文学全集」に収められた大衆小説の作家。既に「現代大衆文学全集」そのものも古書店で5冊ほど購入済みです。この「現代大衆文学全集」は白井喬二が編集に携わったもので、第1巻であった白井喬二の「新撰組」が30万部を超える大ヒットとなり、この全集の成功をもたらします。この全集の成功は作品が採用された多くの作家に多額の印税をもたらし、例えば江戸川乱歩はそのお金で家を新築しています。
この「現代大衆文学全集」にも収録されている下村悦夫は和歌山県出身の歌人で、与謝野晶子、北原白秋の指導を得ますが芽が出ず、伝奇小説の作家に転じます。そんな下村悦夫の出世作がこの「悲願千人斬」で、雑誌「キング」の創刊号から連載され、吉川英治の「剣難女難」と人気を二分します。今回読んだ「悲願千人斬」は「現代大衆文学全集」収録のものではなく、講談社の大衆文学館です。物語は、戦国時代の美濃で、斎藤道三に滅ぼされた土岐家の忘れ形見の太郎頼秀を、名僧である白雲上人と、その上人の腹違いの弟である豪傑の土佐青九郎(白雲上人とそっくりという設定)が守って、主家である土岐家の再興を図ろうとするという話です。白雲上人に腹違いでそっくりな弟がいるということは秘密にされており、そっくりなことを利用して、この二人は色々なトリックを駆使します。そこが上巻の読みどころです。
猪浦道夫の「英語冠詞大講座」
猪浦道夫の「英語冠詞大講座」を読了。これで実に4冊目の冠詞に関する本を読了。筆者はイタリア語を専門とするポリグロット(多数の外国語を知っている人)で、その視点からの指摘がなかなか参考になり、例えば、”The dog is an animal.”などと言った、theを使った総称表現は、フランス語の書き言葉の影響なのだそうです。ちょっと本当かなという気もしますが。また、抽象名詞に冠詞をつけないのは、欧州の主要な言語では英語だけなんだとか。これは多分本当でしょうね。この本の説明は本の半分までで、残りは練習問題とその解答・説明です。この練習問題がかなりボリュームあって、冠詞の特訓には最適です。でも正答率は6~7割に留まりました。本当に冠詞は例外が多くて困ります。例えば病気の名前は、(1)無冠詞:命に関わるような重い病気が多い。pneumonia(肺炎)、leukemia(白血病)など。(2)不定冠詞:日常的に何回もかかるものや、症状に近いもの。a cold、a sprain(捻挫)など。(3)定冠詞:the flu(無冠詞も多い)、the hives (じんましん)など。
この本の欠点ですが、ともかく校正レベルが低いことで、全巻を通してかなりの誤りがあります。それも単純な誤植ではなくて、There are three cats. One is white, and the other is black.のようなまったく意味不明な例文が載っています。(最初の文がThere are two cats.ならOK。)
白井喬二の雑誌掲載作品
獅子文六(岩田豊雄)の「海軍随筆」
獅子文六(岩田豊雄)の「海軍随筆」を読了。昭和17年に、真珠湾で散った9軍神の内の一人である横山少佐をモデルにした「海軍」を朝日新聞に連載して非常に好評を博したため、その後も朝日新聞に、海軍の各種学校、つまり土浦・霞ヶ浦の航空兵学校、呉の海軍潜水学校や、横須賀の海軍水雷学校を訪問して、そこの見学記をいくつか出しています。これらの一連の著作のため、獅子文六は戦後一度戦犯として「追放」の仮指定を受けてしまいます。獅子文六は「大東亜戦争というものがなければ『海軍』は書かなかった」としていますが、太平洋戦争の緒戦で真珠湾、マレー沖と大きな戦果を上げたことに感激したことが、直接の動機のようです。しかし、「海軍」とこの「海軍随筆」を読んでも、露骨な軍国主義賛美という感じではまったくなく、純心な若者とそれを育てた優れた学校システムに感激しているのが主です。それは、現在の人が、高校野球の名門校が、優れた監督の指導の下で甲子園で活躍するのに感激する、というのとほとんど変わらないように思います。また、獅子文六という人は大衆が望んでいるものを上手く文章とする人であって、それは戦中も戦後も同じだと思います。惜しむらくは、もう少し批判的な目があってもよかったのではないかということですが、戦争中の雰囲気の中で大衆作家にそれを求めるのは酷かもしれません。
読売新聞社の「第21期 竜王決定七番勝負【激闘譜】」(渡辺明竜王 対 羽生善治名人)
読売新聞社の「第21期 竜王決定七番勝負【激闘譜】」を読了。2008年に、渡辺明竜王と羽生善治名人が激突した世紀の対局です。これまで囲碁の七番勝負の本はかなりの冊数を読んでいますが、将棋はまだないので、試しに読んでみたものです。どうせ読むなら一番盛り上がったのをと思ってこれを選択しました。この時は、勝った方が「永世竜王」の資格を得るという戦いで、羽生善治名人の方は、同時に永世資格を全タイトルについて取る、という史上空前の快挙がかかっていました。その戦いは、出だし羽生善治名人が三連勝して渡辺明竜王を追い詰めます。しかし、渡辺竜王が4局目に開き直って新手を指して勝ち、そこからペースをつかんで三連勝を返します。最後の第7局は、非常にもつれた終盤になり、どちらに勝負がころぶか分からない戦いでしたが、最後は渡辺明竜王が勝利を手にします。囲碁ではこの時までに3連敗4連勝は5回起きていました。(林海峰名誉天元2回、趙治勲名誉名人3回)しかし、将棋ではこの時が初めてでした。
将棋の観戦記は初めてちゃんと読むので、局面を追っていけるかどうか心配でしたが、何とかなりました。
デイビッド・セインの「ネイティブが教えるほんとうの英語の冠詞の使い方」
獅子文六の「ちんちん電車」
獅子文六の「ちんちん電車」を読了。昭和41年に週刊朝日に連載されたエッセイ。幼少の頃から都電(市電)を利用し続けてそれに慣れ親しんでいた獅子文六が、73歳になって当時もう増え続ける自動車に邪魔者扱いにされていて、やがて消えゆく運命だった都電に乗って、自分と都電(市電)との関わりを回想したもの。品川から始まって上野、浅草へと行く幹線に乗っています。出だしで泉岳寺-札の辻が出てくるのが個人的にちょっと懐かしいです。というのは最初に勤めた会社が、勤めて9年目ぐらいに新宿から芝浦に引っ越し、ちょっと歩くと札の辻辺りに出たからです。グルメの獅子文六だけあって、沿線の食べ物屋の記載が詳しく、今はもう無くなった店も多いですが、今でも残っている店もあり、東京の老舗ガイドみたいに読めなくもありません。
個人的な市街電車との関わりは、生まれ育った下関には、私が10歳になる頃まで市街電車があり、通った幼稚園のあった新町四丁目の交差点を唐戸方面と東駅方面を結ぶ電車が走っていたのを記憶しています。高校に入って暮らした鹿児島市には市街電車があり、これは今でも残っています。高校のあった谷山は鹿児島市の南の外れで、天文館のような繁華街に出るには高校生ですからタクシーは使えず、もっぱら電車でした。30分くらいかかったと思います。当時の高校の教育で、電車の中では座ることを禁じられていました。後は大学に入って最初に暮らしたのが豊島区の雑司が谷で、ここには都電荒川線が走っており、今でもそうです。ただ乗ったのは数回です。小林信彦の「路面電車」という作品は、親子でこの荒川線に乗りに行く話です。
今でも市街電車が残っている都市は、日本では上述の鹿児島市や広島市、富山市などが頭に浮かびます。スピードはあまり出ませんが、CO2も出さないエコな乗り物なので、悪くないと思います。海外出張した先ではスイスのジュネーブやドイツのミュンヘンに市街電車(トラム)がありました。