国枝史郎の「八ヶ嶽の魔神」を再読。前に読んだのは6年ぐらい前ですが、内容はほとんど忘れてしまっていました。国枝の三大傑作は「神州纐纈城」、「蔦葛木曽桟」とこの「八ヶ嶽の魔神」と言われています。その三作の中で、この作品だけが唯一完結しています。但し、完結しているといっても、一人の姫を巡って争った兄弟の兄の方の末裔が山窩族となり、弟と姫の間に出来た久田姫の末裔が水狐族となって双方が代々争っています。山窩族の血を引く主人公の鏡葉之助が、水狐族の長を倒した時に呪いを受け、永遠に不安を感じながら生き続けることになり、物語が書かれた大正時代の今も生きている、というのが果たして普通に言う結末と言えるかどうか。この作品も平凡社の現代大衆文学全集に収められています。というか国枝史郎だけで、三巻も割り当てられおり、国枝史郎が当時いかに人気が高かったかが窺えます。物語の印象としては、最後の方で葉之助と、淫祠邪教化した水狐族の、血で血を争う腥い戦い(葉之助の味方となった熊や狼や豹の猛獣が人間を食い殺すシーンもたくさんあります)の描写が実に国枝らしいです。
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趙治勲名誉名人・二十五世本因坊の「お悩み天国② 治勲の爆笑人生相談室」
趙治勲名誉名人・二十五世本因坊の「お悩み天国② 治勲の爆笑人生相談室」を読了。週刊碁に連載されていたもの。(囲碁を知らない人はびっくりされるかもしれませんが、囲碁の週刊新聞があるんです。私も学生時代は毎週買っていました。碁の雑誌がほとんど無くなる一方で、週刊碁は今も出ています。)趙治勲さんのTVの碁での解説とか、各タイトル戦での挨拶とかとても面白いので有名ですが、文章の方でも爆笑ものです。あまり期待しないで買ってみましたが、とても面白いです。囲碁をまったく知らなくても問題なく楽しめます。囲碁を知っている人にはもっと面白く、小林光一とか張栩の悪口とか、山城宏日本棋院副理事が登場したりします。趙治勲さんは、現時点で棋士の中でもっとも多数のタイトルを獲得した人で、もう還暦を迎えられていますが、現在でも第一線の棋士として活躍中です。
岩下俊作の「富島松五郎伝」
岩下俊作の「富島松五郎伝」を読了。いうまでもなく映画「無法松の一生」の原作です。私は、映画はいわばダイジェストで、小説では松五郎の一生がもっと詳細に語られるのかと思っていましたが、実際は、映画に出てくるエピソードと小説のそれはほとんど同じでした。ただ映画では省かれているのは、松五郎が博打を打つシーンで、映画では芝居小屋での喧嘩の仲裁に初めて登場する吉岡の親分は、小説ではその前に松五郎と博打を打ち、松五郎に対して大負けしますが、気持ちの良い勝負が出来たと言って、松五郎を褒めます。また、小説を読んで初めてわかるのは、当時の小倉の芝居小屋と人力車夫の関係は、芝居の大道具・小道具を運んだり、役者が宿と小屋を往復するのに人力車夫が不可欠で、持ちつ持たれつの関係にあったということで、それで松五郎は芝居小屋の入場口を「顔で」通過しようとしたのでした。その他、松五郎が吉岡の未亡人に寄せる愛情が、最初は男女のものだったのが、次第に兄が妹を思うような気持ちに変わっていったことも、映画では描ききれませんでした。細かく言えば色々ありますが、原作をほぼそのまま映画化して不朽の名作になっているのですから、この原作自体が名作なんです。
吉川英治の「恋山彦」
吉川英治の「恋山彦」を読了。吉川英治が「宮本武蔵」を書く直前の昭和9年から10年にかけて、講談社の雑誌「キング」に連載したもの。昭和8年に日本で公開された「キング・コング」を観た吉川英治が、かなりの影響を受けてこの作品を書いています。後半の主人公である伊那小源太(信州の山奥に隠れ住んでいた平家の後胤)の荒唐無稽な暴れぶりが、まさにキング・コングそのものです。キング・コングは美女のアンを片手にもって、エンパイア・ステート・ビルを登っていきますが、小源太は、柳沢吉保の六義園の開所式に忍び込んで、大暴れし、吉安の妾のおさねを捕まえて片手に抱え、六義園の嘨雲閣(しょううんかく)を登っていきます。キング・コングは人間よりはるかに大きいので(あるサイトによると身長7mくらいではないかということです)、その大暴れぶりは別に問題ないのですが、小源太は大きいといってもたかだか身長は八尺(180cmくらい)ということなので、かなり設定に無理があります。(なんせ小源太一人で、武家屋敷を丸ごと崩壊させたりします。)とはいえ、お話としては、波乱万丈でなかなか楽しめる作品です。最後に小源太が恋人のお品を平家部落に連れて帰る所で終わりますが、その平家部落は既に焼き討ちにあった筈じゃないの、という所がちょっと引っかかりますが。
蘇耀国の「定石のマル秘ノート 打たれなくなった形と新常識」
蘇耀国の「定石のマル秘ノート 打たれなくなった形と新常識」を読了。ここの所続けて読んでいる定石の本3冊目です。前の本のレビューで日本の定石の本は全盤面が載っていない、と書きましたが、この本は2014年刊の最新版だけあって、ちゃんと全盤面がすべてのページで出ています。この本でかつて盛んに打たれたのが、最近まったく打たれなくなった定石が頻出します。まず最近は足早な碁を良しとする風潮があって、一つの隅でごちゃごちゃ戦うのを避けるような傾向があるように思います。また、昭和の時代にはかなり流行っていた、小ゲイマガカリに二間や三間にはさんで、二間トビするようなある意味曖昧な打ち方も最近はあまり好まれないようです。先日紹介した、韓国国家代表チームの本よりも変化が少なめな分、わかりやすいです。
三上於菟吉の「雪之丞変化」(下)
三上於菟吉の「雪之丞変化」(下)を読了。一言、面白かったです。結末は最初から分かっている訳で、読者としては、その過程で作者によっていかにはらはらどきどきさせてもらえるかですが、この作品はその点実に良くできていると思います。ファーストガンダムも言ってみれば、シャアの敵討ちの物語ですが、敵討ちというものは、古の曽我兄弟以来、人の心を捉えるものがあるようです。雪之丞が付け狙う敵の土部三斎の娘で、将軍の側室であった浪路が、雪之丞の計略もあって、雪之丞を心から恋するようになるのですが、その浪路が父親が敵を討たれる前に、悲劇の死を遂げてしまいますが、浪路の純心を受けて心が揺れる雪之丞を描いて、読者を惹き付けます。この辺りのストーリー廻しが素晴らしいですね。
「第36期本因坊戦 全記録」
「第36期本因坊戦 全記録」(毎日新聞社)を読了。この棋戦が私が囲碁を覚えて最初に経験したリアルタイムの7大タイトル戦なのでとても印象が強いです。1981年の5月から7月頃にかけての対局です。また、趙治勲二十五世本因坊が碁界のトップに上り詰める途中の非常に大きなステップという感じです。武宮正樹9段、趙治勲二十五世本因坊の二人とも本因坊戦には相性のいい棋士です。武宮9段は、本因坊を合計で6期取っていますし、趙二十五世本因坊はそのタイトル通り、本因坊を合計12期、しかも10連覇しています。実は1989年の本因坊戦もこの二人の激突で、武宮9段は、それまで本因坊戦を4期連覇していて、名誉本因坊の称号がかかっていましたが、趙二十五世本因坊に0-4で負けて阻止されてしまいました。そしてその時から趙二十五世本因坊の10連覇が始まっています。この1981年はそんな二人の最初の本因坊戦での対戦でしたが、今改めて棋譜を追ってみた印象では、二人ともかなり出来が悪い対局だということで、全局を通じて双方に多くのミスがあって決して名局ではありません。そういう双方とも問題がありながら、趙二十五世本因坊の方が勢いと必死さが上回っていたと思います。
三上於菟吉の「雪之丞変化」(上)
三上於菟吉の「雪之丞変化」(上)を読了。三上於菟吉は大正から昭和初期にかけての大衆小説の人気作家で、多作を誇りましたが、この「雪之丞変化」で人気の絶頂だった昭和11年に脳塞栓で倒れ、以後創作も減り、昭和19年に53歳で亡くなります。昭和9年から東京朝日新聞に連載されたこの「雪之丞変化」が代表作で、実に6度も映画化されています。主人公で妖艶な姿を誇る上方芝居の名女形である雪之丞が、実は親の敵として5人の者を狙っていて、そのために優男に見えながら実は剣の腕は免許皆伝という設定が、映画になりやすいのだと思います。その雪之丞を秘かに助けるのが、大泥棒ながら義賊でもある闇太郎と、雪之丞に横恋慕するこれも泥棒の軽業お初など、登場人物がちょっと変わっています。雪之丞の親は長崎の実直な豪商でしたが、長崎奉行と、その財産を付け狙う商人の陰謀によって、密貿易の罪を着せられ、一家は没落し、雪之丞の父は狂い死にします。子供だった雪之丞は、同じ長屋に住んでいた役者の菊之丞に引き取られ、女形としての修行を積みながら、同時に武芸の腕も磨き、親の敵を討つ日を心待ちにしています。
遠藤周作の「沈黙」
遠藤周作の「沈黙」を読了。マーティン・スコセッシの映画が1月後半に封切られるので観ようと思い、その前に原作を読もうと思って読んだものです。感想はネタバレさせないと不可能ですので、以下はこれから原作読むか、映画で初めてストーリーに触れる人は読まない方がいいです。
まず、戦国時代から江戸時代にかけて日本に来たポルトガル人宣教師の中で、幕府による迫害に負けて棄教して日本人になったという人が複数いたことは、今回初めて知りました。遠藤周作はこの歴史的事実を元にして、その棄教に至るまでの事情を追っていきます。物語はまずフェレイラという司祭が日本で棄教したという事情がローマ教会に伝えられる所から始まり、フェレイラにかつて教えを受けた3人の若い司祭が日本に渡ろうとし、2人がそれに成功します。それでロドリゴという司祭の方が、最終的にフェレイラの勧めもあってキリスト教を捨てるのですが、その理由は直接的には彼がキリスト教を捨てないと、日本人信徒が拷問で殺されるからですが、もう一つは幕府のキリシタンへの弾圧に対し、神が「沈黙」を続けることに対して、疑問の心が起きたからです。ここの所、私は非常に引っかかります。本当のキリスト教では、旧約聖書のヨブ記に見られるように、どのような苦しみを神から与えられようと、決して神を疑ってはいけないとされているのが、まず第一点です。さらには、キリスト教は現世利益を求める宗教ではなく、むしろ苦難を与えられることこそ神に選ばれたということという考え方があります。(マックス・ウェーバーはこれを「苦難の神義論」と呼びました。キリスト教というより元々迫害され続けた流浪の民であるユダヤ人の宗教であったユダヤ教の考え方ですが。)この作品に出てくるカトリックの司祭は、何度もこれだけ信者が苦しんでいるのに、何故神が奇跡を起こして信者を救わないのか、と疑問に持ち続けます。この考え方自体がまったくキリスト教の本来の考え方から見ると相容れないものに思えます。この本は最初に出た時に九州のカトリック教会から「禁書」に指定されたそうですが、なんとなくわからないでもありません。そういう訳で非常に違和感のある作品ですが、ただロドリゴが「転ぶ」所で、この場にもしイエス・キリストがいたならば、彼もまた(苦しんでいる信徒を救うため)「転んだ」であろう、という議論は重いです。
後、本筋とは関係ありませんが、フランシスコ・ザビエルが最初にキリスト教(カトリック)を日本に伝え、わずかな間に最盛期では40万人もの信徒を獲得した、ということに驚きました。今の日本でのカトリック教徒の数もせいぜい50万人なんで、ほとんど変わりません。
映画については、スコセッシが最初に映画化するのではなく、1971年に既に篠田正浩監督によって映画化されています。(最初に棄教するフェレイラを演じたのはなんと丹波哲郎。)ともかく、スコセッシの映画が楽しみです。
韓国国家代表チームの「新手/新型 定石の解析」
韓国国家代表チーム(囲碁の)著の「新手/新型 定石の解析」を読了。私が囲碁を覚えたのは大学の時で、もう35年くらい経っています。当然定石もその頃覚えたのですが、今や定石は大幅に進化し、昔はまったくあり得なかったような手が登場していて、NHK杯の囲碁とかを観ていてもついていけないことがあります。そういう訳で、この本を買ったのですが、かなりの種類の最先端の定石が載っていて有用でした。しかしながら、その変化はかなり高度で、私の棋力ではついていくのが大変でしたが…また、日本の定石の本だと、一つの隅の図しか出てきませんが、この本は常に碁盤全体が示されていて、常に回りの配石との関係で、定石の結果の優劣が判定されています。考えてみればこれは当たり前のことなのですが、日本では古くからの慣習に左右されて、これができていません。そういう意味で、この本は単に定石の本と言うだけでなく、布石、序盤の戦いを兼ねた本になっています。序盤の戦いも、昔だったら、割り打ちを打って、それから開いてとじっくり行く所を、今の碁は相手の囲んでいる石にいきなり横付けしたりしますので、どこから戦いが始まるかがまったく読めません。そういう最新の打ち方に触れるのにいい本です。高段者向けです。