傘の藤骨と桜骨

小学生の頃(昭和40年代の半ば~後半くらい)に、当時はまだ安いビニール傘が普及しておらず、傘は貴重品で傘の折れた骨を修理する人がいました。おそらくそういった人から聞いた話だと思いますが、傘の骨で中央から直線状に伸びている通常のを藤の花が垂れているのと同じということで「藤骨」といい、それに対し根元が二重になっていてまるで桜の花のように見えるのを「桜骨」といい、桜骨の方がはるかに丈夫と教わったことがあります。しかし、コストや重さの問題なのかやがて桜骨の傘も桜骨という言葉も見かけなくなりました。インターネットで検索が出来るようになってから、「藤骨」「桜骨」で検索しても何もヒットしなかったので、本当にそういう言葉があったのかと自分の記憶を疑うようになっていました。しかし、今日また「桜骨」で検索したら、写真のように何と桜骨の傘がちゃんとそう表記されて販売されていました。これも昭和の遺産と思い紹介しておきます。

ジョー90の”The Birthday”(最終回、ProsとCons)

ジョー90の”The Birthday”を観ました。珍しくちゃんと最終回を意識した話でしたが、中身はジョーの10歳の誕生日をWINの2人とマクレーン教授が祝う中で、過去のジョー90の活躍を振り返るという、過去フィルムの使い回しでした。そのため紹介するようなストーリーが無いため、ジョー90のProsとConsをまてめておきます。
Pros
・ビッグラットで、他人の脳波を移して、それを使えるというアイデアの面白さ。
・そのビッグラットで脳波を移すシーンの何というかサイケデリックな雰囲気。ちなみに普通にビッグラットを見たら洗脳マシンにしか見えませんが。
・主要な視聴者である子供が感情移入しやすい9歳の少年のスパイとしての活躍。
Cons
・ビッグラットで知識とか記憶を移せるのは分りますが、肉体的な鍛錬が必要なものまで能力を移せるというのは不自然です。例えばウェイトリフティングの金メダル選手の脳波を移してもジョーが200Kgのバーベルを頭上に持ち上げたりは出来ないでしょう。
・キーアイテムである眼鏡を落としたり、敵に取られたりというのが1回だけで、後はあまりピンチになることがありませんでした。
・9歳の少年に命がけの仕事をさせたり、人殺しをさせたり、という不自然さとモラルに反する内容。
・ビッグラットで知識が移せるのが最初は一人のものだけだったのが、最後の方では複数人可になり、そうなると何でも有りで、却って面白みが薄くなりました。
・ビッグラットの技術は平和利用すれば、世界的な学者の知能を保存したり、あるいは脳の機能異常がある人の役に立てたり、とか色々あったと思いますが、スパイ活動での利用だけで後味の悪さが残ります。
という感じで、懐かしさはありましたが、正直な所ジェリー&シルビア・アンダーソンの作品の中では地味でした。メカもフライングカーぐらいで魅力に乏しかったです。一番良かったのは、あるパイロットの脳波を移したら、そのパイロットの着陸恐怖症もそのまま引き継いでしまい、着陸が出来なくなる、というエピソードです。

トワイライト・ゾーンの”A World of His Own”

トワイライト・ゾーンの”A World of His Own”を観ました。これが第1シーズンの最後です。グレゴリー・ウェストはアメリカの有名な脚本家で、今は家で30歳ぐらいの美人で優しそうなマリアという女性が彼にマティーニを作ってくれていて、とても幸せそうでした。しかし映画を観に出かけていた彼の奥さんのビクトリアがそれを外から見ていて、部屋の中に駆け込んで来ます。しかしマリアの姿はどこにも見つかりませんでした。ビクトリアはウェストを問い詰めますが、彼はマリアは自分が作り出したキャラクターが実在化したもので、その内容を吹き込んだ口述テープを暖炉の火に放り込んで彼女は消滅したと言います。ビクトリアはそんなことは当然信じたりせず、外に行って離婚の手続きを始めようとします。しかしウェストはアフリカ象の内容をテープに吹き込んで実在化させ、ビクトリアが出ていくのを阻止します。しかしビクトリアはさらにウェストを糾弾しますが、彼は本棚の奥の金庫からやはりテープの断片を取り出して、何とビクトリアもウェストが作り出したキャラクターだと言います。ビクトリアはそれを信じず、テープが入った封筒を暖炉に投げ入れます。テープが燃えた所でビクトリアは消えてしまいます。邪魔者がいなくなったウェストは、再度マリアを作り出します。笑えるのがそこにロッド・サーリングが登場して、「皆さん、もちろん現実の人生ではこんな馬鹿げたことは起きませんが…」と説明し出すと、ウェストは「馬鹿げたと言うな」と怒り、金庫の中から「ロッド・サーリング」と書かれたテープ入りの封筒を取り出し、それを暖炉に投げ入れてロッド・サーリングも消えてしまいます…
今回はいつもと違ってホラー色の少ないコメディータッチのお話でした。

トム・フーバーの「英国王のスピーチ」

トム・フーバーの「英国王のスピーチ」を観ました。これはずっと前に買っていましたが今まで観ていませんでした。会社で毎週やっている部下への英語の研修について、エリザベス女王2世とパディントン・ベアーの動画を取上げて欲しいというリクエストがあり、それだけだと3分で終わりなんで、ついでにこの映画のジョージ6世のスピーチも観てもらおうと思って、やっと観たものです。映画の中に幼い頃のエリザベス女王2世(リリベット)とマーガレット王女も登場します。映画自体は有名なので説明は不要でしょうが、小さい頃に左利きを右利きに直された結果として吃音になりというエピソードや(私も本当は左利きですが右利きで教育されています)、兄が勝手なことをやって弟が苦労する、という所でちょっと身につまされました。映画の中でローグという言語セラピストがジョージ6世が怒りの言葉だとどもらないのに対して、悪罵やフォーレターワード系をわざと言わせるというシーンがあり、そのせいでアメリカやイギリスで成人指定になったそうで、実に馬鹿馬鹿しいですね。この映画はむしろ子供に見せるべきものと思います。ちなみにどうでもいい余談ですが、ジョージ6世の兄は即位前のタイトルはプリンス・オブ・ウェールズで、この名前にちなんだ戦艦がご承知の通り、マレー沖で日本軍によって沈められています。王位自体も短かったですが、その名前にちなんだ戦艦も結局あまり活躍しないまますぐ沈没しました。

エンツォ・トラヴェルソの「歴史記述における<私> 一人称の過去」

エンツォ・トラヴェルソの「歴史記述における<私> 一人称の過去」を読了。この本は、未來社という出版社のサイトを折原浩先生の「マックス・ヴェーバー研究総括」の状況(当初の予定より2年以上遅れています)を確認するため何度か訪れている時に、同社の新刊として発見したもの。この本を買った動機は更に二つあります。
(1)以前、イヴァン・ジャブロンカの「歴史は現代文学である 社会科学のためのマニフェスト」と、その実践編である、「私にはいなかった祖父母の歴史 -ある調査」を読んでいます。この本にも登場しますが、ジャブロンカは歴史記述に小説的な一人称を持ち込んでいる代表者です。
(2)以前、AEONで英語のライティングの教材をやった時に、「フォーマルな文章では一人称を使ってはいけない。」ということを言い張るネイティブ教師が2人もいて、この問題について調べた事があること。
(1)については、元々ジャブロンカが歴史学者と文学者のどちらになるかの選択を迷ったというのが背景にあるようです。この本に拠れば、ジャブロンカだけでなく、主観的な視点での歴史記述を行っている人が何人もいて、筆者は一種の新個人主義だとしています。実はジャブロンカのような主張は、19世紀終わりから20世紀の初めにかけて、デュルケームやマックス・ヴェーバーなどが厳として否定していたもので、この2人は科学として歴史をどう扱うについて模索し、様々な方法を提唱しています。有名なのはヴェーバーの理念型とか価値自由です。それから約100年経って、今度は行き過ぎた客観主義に対する揺り戻しのような現象が出てきている訳です。
しかし、私見ではジャブロンカの方法論は濫用されるときわめて危険であり、また19世紀のような主観による歴史の脚色に戻ってしまう可能性も秘めています。但し、過去に生きたある人物を理解するためには、歴史学的な年表形式での事実の羅列が不十分であるのもまた事実で、ジャブロンカの「私にはいなかった祖父母の歴史 -ある調査」はジャブロンカの祖父母の生きた時代と二人の置かれた状況(二人ともポーランドのユダヤ人で共産主義者で、ポーランドから追放されてフランスに移り、ヴィシー政権下で捕らえられアウシュヴィッツに送られ、二人ともそこで死にます。)をより良く描写するという点で成功していると思います。ちなみにこうした1人称歴史記述は、ジャブロンカ以外でもやはりホロコースト関係だったり、第2次世界大戦期のある個人の記録だったりが多いようです。
(2)の英語のライティングの際の1人称使用禁止という誤った主張(昔はこういうことをルールとして言う人がいたのですが、今はアメリカの大学のライティング・ガイドでも、1人称を適切に使うことがむしろ推奨されています)も、20世紀初めの行き過ぎた客観主義の遺産と思われます。大体、マックス・ヴェーバーの論文読んでいると、ほぼ毎ページにわたって1人称が出てくるので、そういう意味で元々ナンセンスと思っていました。自分の単なる意見や証明されていない仮説を3人称で書くのは、むしろ客観性を装うごまかしと思います。受動態で主語を隠すのと同じです。
まあこの本は現状を整理しているだけで、これからどうなるのかを興味深く見守って行きたいと思います。

NHK杯戦囲碁 村川大介9段 対 河野臨9段(2022年9月18日放送)


本日のNHK杯戦の囲碁は、黒番が村川大介9段、白番が河野臨9段の対戦です。両者棋士の中のポジション的には近い位置にありがっぷりかみ合う対局です。白は珍しく両三々の布石、黒は両小目でした。黒が左上隅に二間にかかり白がケイマに受けたのに、黒は左辺から両ガカリ風にはさみ、白がコスミツケて黒が立って、白が中央に一間トビして上辺と左辺を見合いにしました。黒が上辺で二間に開いたので、白が左辺の星下へ挟む展開になりました。ここで左下隅の三々に対し星に肩付きしたのがいわばAI風の打ち方でした。白の這いに軽く一間に飛び、白が割り込んで黒が上から当て、白が継いだところで黒は手抜きし、左辺の白にボウシしました。ここからギシギシと石の絡み合う戦いになりました。結局白は左辺を捨てて中央を厚くし、切り離された下辺の黒4子を小さく取るのは出来ましたが、右下隅の黒の肩を衝いて下辺を目一杯拡げました。こうなると黒は取られかけていた4子を動き出す一手でした。この後の黒のサバキが見事で、黒は中央への進出を見せながら巧みにサバキました。その代償として右下隅を若干利かされましたが、結果として白の一等地で無理なく活きて、ここで黒が優勢になりました。白はその後上辺の黒模様に打ち込んでいったりして挽回を図りましたが、差は縮まらず、結局白の投了となりました。

ジョー90の”See You Down There”

ジョー90の”See You Down There”を観ました。この時期のドラマによくある幻覚もの。悪辣だが合法のギリギリの範囲で株価を操作して会社を乗っ取っていくある会社の経営者に、その行動を止めさせるために、WINが乗り出すという話です。マクレーン教授がまずその会社に乗り込んで、給仕人に化け、その経営者にお茶を飲ませます。マクレーン教授はそのお茶にはドラッグが入っていて、解毒剤を飲まないと幻覚を見続けると言ってその経営者を脅します。その経営者はそれをブラフとして信じません。そこからWINとジョー90が、その経営者に対して幻覚を見ていると信じさせるための、色んな馬鹿げた仕掛けを作ってその経営者がこれまでのような行動を止めさせることが条件の契約書にサインさせようとします。ジョー90は今回は、声帯模写の名人の脳波を移して、その経営者の声で部下に無意味な命令を出したり、架空のテレビ番組を作ってその経営者の家のテレビに映したりします。まあ原子力潜水艦シービュー号でもシーズン4あたりはこうしたドラッグでラリったような話がいくつかありましたが、1960年代後半の一種の流行ですね。

トワイライト・ゾーンの”The Mighty Casey”

トワイライト・ゾーンの”The Mighty Casey”を観ました。トワイライト・ゾーンには珍しい野球ものです。ホーボーケン・ゼファロスというプロ野球チームは32年間優勝したことがなく、その年も首位から大幅に離されて下位に低迷していました。そのチームのトライアウトに、変な科学者がやって来て、ケイシーというピッチャーを連れていました。このケイシーをテストしてみたら、超剛速球、信じられない軌道の変化球、そして打者が待ちきれないで2回も空振りするスローボールと、スーパー投手でした。早速採用されたケイシーでしたが、実はその科学者が作ったロボットですが、球団はそれは内緒にして雇います。チームはケイシーの活躍でたちまち白星街道を突き進みます。しかしある日ケイシーはビーンボールを頭に受けて、入院することになります。そこで医者の診察により、ケイシーには心臓が無く、ロボットであることがバレます。医者がコミッショナーに連絡し、選手は人間でなけらばならず、心臓が無いものは人間ではないので、ケイシーは試合に出場出来ないと言います。それならと、科学者はケイシーに心臓があればOKなのか、と聞き、コミッショナーはYESと答えます。科学者は首尾良くケイシーに人工心臓を付けて、ケイシーがまたマウンドに立ちました。しかし彼の投げるボールは威力が無くなっていて、めった打ちでKOされます。実は心臓を付けたことによってケイシーには人間のような同情心が生れ、相手の選手に同情して速い球を投げなくなったのでした。ケイシーは首になって慈善活動を行うためにチームを離れます。科学者が別れ際に監督にケイシーの設計図を渡します。そこでおそらく監督が、ケイシー2号、3号(但し同情心抜き)を作ってもらうことを思い付き、それでチームがワールドカップで優勝、というのが匂わされて終ります。
なんかちょっと捻りが単純すぎてあまり感心しませんでした。人造人間キカイダーの良心回路による葛藤とかの方がよほど話としてはレベルが上のように思います。なお、ケイシーという名前は「ケイシー打席に立つ」という有名な野球詩から取ったもので、ホーボーケン・ゼファロスも当時観ていた人には、おそらくあのチームがモデルだな、と分ったものらしいです。

50シングルアンプのキット、製作中。

50シングルアンプのキット、少しずつ配線しています。配線だけなら2/3は終ったと思います。後はコンデンサーと抵抗の取り付けです。ともかく重くてでかいので動かすのが大変です。また配線材について、これまで私が使っている配線材は太すぎるかな、と思っていたのですが、このキットに付いていた配線材は私の手持ちのものより太めでした。細い線材の方がまとめやすくて、見た目は綺麗になりますが、音質的には太い配線材の方がいいと思います。なお、私はシールド線は使わない方針だったのですが、このアンプは縦のサイズが長く結構線を引き回さなければならないのと、シャーシアースじゃないんで線をシャーシに這わせてもノイズ削減効果が期待出来ないので、大人しく付いていたシールド線を今回は使いました。

デイヴィッド・グレーバーとデイヴィッド・ウェングロウの”The Dawn of Everything”

Facebookの紹介でこの本が出てきて、内容が学生の頃から私が思っていることにかなり近いので、取り寄せてみました。私は昔から「発展段階説」が大嫌いで、例えば日本のいわゆる「縄文時代」について、原始共産制みたいなユートピアでもなく、逆に現代から見て文字通り「原始的」で常に飢えに脅かされて必死に狩猟採集を行っていた時代とも思っていません。この本は、いわゆる原始時代の社会構造がきわめて多種多様であって、現代人が考えるような低レベルのものではないことを、様々な考古学や文化人類学の事例を元に論じているようです。同様の本にマーシャル・サーリンズの「石器時代の経済学」がありますが、そこでの議論からどう発展しているかに興味があります。
ちなみに、日本の原始時代を「縄文時代-弥生時代ー古墳時代」とするのはマルクス主義的な発展段階説に毒された結果であり、私は異を唱えています