(以下はAmazonへのレビューで書いたものです。)
柊・オ・コジョの「文化の逆転 ―幕末・明治期の西洋人が見た日本(絵画篇)―」という本を読了。Amazonで偶然見つけたもの。Kindle版だけの本で、元はブログの記事をまとめたもののようです。以前「北斎とジャポニズム」という展覧会を見て、北斎の浮世絵に影響された西洋の画家達が、北斎の構図とか人物のポーズとかを真似しつつも、決して浮世絵そのままではなく、線も色も浮世絵よりはるかに複雑微妙だったという違いを感じ、その理由を知るヒントになるかな、と思って読んでみたものです。
作者の方についてはどういう方かまったく知りません。ですが、博引旁証ぶりはかなりのもので、私がほとんど知らない人名がいっぱい出てきて、文献参照は実に800以上にも及びます。
それはいいんですけど、ある意味やり過ぎというか、そこまで文献参照しないと自分の意見を書けないのかな、という所が気になりました。そうやってたくさん引用して出てきた結論が、「日本人は自然と一体化しているという考えを好み、西洋人は自然を人間が支配していると考える」といった、ある意味誰でも知っているようなことだったりします。
それでもまあ参考になったのは、日本の絵画が気韻生動、徹底した観察、線を一気呵成に描くことの重視といった指摘で、それは北斎と西洋画家の違いを知る上で参考になりました。この線を一気に描くという伝統は、たとえば手塚治虫の漫画とかにも受け継がれていると思いますけど、そういう指摘はなかったです。
後、Kindle版で300円という書籍に文句を言っても仕方がないのですが、この人「縦中横」を知らないようです。そのため、アルファベットや数字が横に寝てしまっていて、縦書きとしては読みにくいです。また、Malerei(絵画)というドイツ語が何故かWalereiとMとWがひっくり返っていたり、明らかな誤記があったりして、もうちょっと校正をしっかりやって欲しいです。さらには本文中で参照されている図(絵)が巻末に置かれているだけで、リンクにもなっていないので、一々見に行くのが非常に面倒です。またその絵自体もサイズが小さくて見にくいです。
表紙は萌え風ですが、中身はそれなりにちゃんとしています。たぶん作者はどこかのアカデミズムの世界の人じゃないかと思います。ちゃんと校正すれば普通の紙の本として出して問題ないレベルだと思います。
投稿者: kanrisha
ヴォルフガング・シュルフターの「「経済と社会」仮構の終焉」
ヴォルフガング・シュルフターの「「経済と社会」仮構の終焉」を読了。岩波書店の「思想」の1988年5月号に載っているもの。シュルフター教授は私の恩師の折原浩先生と並んで、「経済と社会」の再構成問題に取り組んできた方です。また私の個人的な思い出でも、2004年にハイデルベルクを訪問した時に、羽入書問題に関しての調査で面談させていただいたことがあります。この論考ではテンブルックの「経済と社会」編纂批判を受け、ヨハネス・ヴィンケルマンの編纂の問題点を整理して、テンブルックの批判が妥当であることを検証しています。まだ、再編纂の具体的な検討に入る前に、「ヴェーバー全集」の編集スタッフに対しての覚書みたいなものがベースのようです。この問題について理解が深まり有用でした。
NHK杯戦囲碁 井山裕太7冠王 対 志田達哉7段
本日のNHK杯戦の囲碁はいよいよ決勝戦、黒番が井山裕太7冠王、白番が志田達哉7段の対戦です。何とこの二人は初対戦とのことで、今の井山7冠王に当たるには、タイトル戦の挑戦者になるしかないということでしょう。またこれまでのNHK杯戦、志田7段はすべて白番で勝ちというこれまた珍しい記録です。布石は志田7段が得意の向かい小目で、ほとんど準決勝と同じような進行になりました。最近AIの影響で三々打ちとか流行っていますが、志田7段はそういうのにまったく影響されず我が道を行って勝ち進んでいます。左下隅の定石で黒が隅に付けていったのに白は手を抜いて右下隅のカカリを急ぎました。黒は白が手を抜いたので出切りを敢行し隅の白2子を取りましたが後手になりました。白は下辺から右下隅を詰め、黒がコスんで白が押して競い合いが始まりました。黒が下辺からの白にハネを打った時、白は伸びないで右辺を打ちました。これに対し黒が当てて叩くのが気持ちいいかと思いましたが井山7冠王はさらに厳しく急所に置いていきました。この後の折衝で結局黒は下辺でポン抜いている白4子を取り込みましたが、その代わり右下隅の黒を封鎖され、隅に一手入れなければならなかったのはちょっと辛かったかもしれません。右上隅は黒地が大きくなりそうなタイミングで白が三々に入り、黒は左側から押さえて白が右辺に食い込むのを許しています。下辺の折衝で先手を取った白は上辺に開き、次に右上隅を封鎖している黒への攻めを見ました。黒は攻められてはたまらないので上辺を開きました。ここで白がその開いた石にコスミツケて利かしにいきましたが、黒はすかさず反発して結局ノゾキを2つ打ち、両方を白に継がせて、ここは黒が上手く打ち回した感じです。黒は続けて左辺に打ち込み、いろいろありましたが、黒は上辺の白地をかなりへこませ、黒が打ちやすい形勢ではなかったかと思います。非勢を感じていた白は下辺で取られている白4子に向かって右下隅から連絡を匂わせる手を打ちました。ここでも黒は反発して。取られていた白4子が復活する代わりに、右下隅の白を切り離すという振り替わりを目指しました。この結果は白が得した感じで、黒は右下隅を取る手を打たずに、左辺の白への攻めを見せ、一部の白を切り離すことに成功し、ここでまた黒のリードとなりました。また右上隅の白には劫が残っており、全体に厚くなった黒は劫を決行しました。白は劫材が続かず、右上隅は活きる手を打たなければなりませんでした。これで盤面10目くらいの黒リードで、このまますんなり黒の勝ちかと思われましたが、真ん中につくかと思った黒地が志田7段の巧妙な手でほとんどなくなり、差はほとんどなくなりました。しかし最後半劫が2つ残りましたが黒はその両方を白に譲って、結局黒の半目勝ちでした。志田7段の健闘が光りました。井山7冠王NHK杯戦2連覇です。2人ともTV囲碁アジア選手権で頑張って欲しいものです。
Public romance in Japan (7) – Kyoji Shirai’s “Fuji ni tatsu kage”
Let me introduce today Kyoji Shirai’s best romance, “Fuji ni tatsu kage” (“富士に立つ影”, a shadow standing on Mr. Fuji). This romance is not only his best work, but also a big milestone in the history of public romance, or even in all Japanese literature, I should say. The three greatest works in public romance are, “Dai Bosatsu Touge”, “Musashi” (“宮本武蔵”) of Eiji Yoshikawa (“”吉川英治”), and this work.
This romance was serialized in the newspaper “Hochi” (“報知新聞”) from July 1924 through July 1927, for more than 1,000 times. (Novels serialized in newspapers are still popular in Japan, but the average period of continuance is just around a half year.) There are ten volumes (also chapters) in Japanese paper book style, as you can see in the photo. The names of ten parts are, 1. Susono-hen (Chapter of the plain at the foot of Mt. Fuji), 2. Edo-hen (Chapter of Edo city), 3. Shujinko-hen (Chapter of the central character), 4. Shinto-hen (Chapter of a new battle), 5. Shinkyoku-hen (Chapter of Divine Comedy), 6. Kirai-hen (Chapter of coming back to Mt. Fuji), 7. Unmei-hen (Chapter of destiny), 8. Sondai-hen (Chapter of grandsons’ generation), 9. Bakumatsu-hen (Chapter of the end of Edo period), and 10. Meiji-hen (Chapter of Meiji period). The romance was sold for more than 3 million copies.
Let me introduce now basic story of this romance. To make a long story (literally) short, this romance describes 68 years’ (1805 – 1873) battles between two families of castle builders, during three generations, namely fathers, sons, and grandsons. The author said that he described “war and peace” based on humanity. The story starts when Tokugawa shogunal government planned to build a new castle in the plain at the foot of Mt. Fuji for the training of their subordinate soldiers in western style. The government summoned two engineers, namely Kikutaro Sato (“佐藤菊太郎”), as a representative of Sanshi-ryu (“賛四流”) school of castle building, and Hakuten Kumaki (“熊木伯典”), as one of Sekishin-ryu (“赤針流”), another dominant school of castle building. The government tries to determine the chief designer of the new castle by the competition between two schools. Until this work, most public romance used fighting by Japanese swords (Chambara) to solve the conflict between two parties. This work, however, adopted debates between two engineers, which was, and still is, a brand-new style. Kikutaro is a young, talented, and honest guy. Hakuten, an older guy, on the other hand, plays very dirty. Most readers expected the victory of Kikutaro, a white-hat, but the author betrays the readers’ expectation, which is very rare in public romance.
The actual hero of this romance appears at first only from the chapter three. The hero, Kimitaro Kumami (“熊木公太郎”) is the son of Hakuten, a quite evil guy. The son, however, is completely different from his father. He is quite honest, decent, always trying to protect the weak, and at the same time a little bit foolish. A critic compared him with Prince Myshkin in Dostoyevsky’s novel “The Idiot”. Both of them are, so to say, holy idiots. This character is quite new and different from the cruel, nihilistic character of “Ryunosuke Tsukue” in “Dai Bosatsu Touge”. This hero brought the romance into a big success, because many readers really loved the character of Kimitaro. In parallel to Kimitaro, Heinosuke Sato (“佐藤兵之助”), the son of Kikutaro, is described as a very smart, bureaucratic type, but rather cruel guy. This is quite a surprising twist that the good side and the evil side turn over in the second generation.
One English teacher at Eigox told me when I introduced this romance to him that this romance sounds similar as Frank Herbert’s “Dune”, which also describes the battles between two families, namely between the Atreides and the Harkonnens. In Dune, however, the Harkonnes are always described as the evil side. In Fuji ni tatsu kage, we cannot simply say that one side is good and the other is bad, and do not know until the end of the story how the battles between two families are settled. There is also a “Romeo and Juliet” type affair between the two families, which makes the story more complex and attractive. In such viewpoints, this romance goes far beyond the realm of usual public romance. Kyoji Shirai aimed at such a high-level literature even the genre was classified as public romance, which was usually considered as vulgar literature.
It is absolutely impossible to describe all charm of this romance here. I strongly hope that this novel will be translated into English for foreign readers someday.
溝の口のマルエツ、3月17日現在
フリードリッヒ・H・テンブルックの「マックス・ヴェーバーの業績」
フリードリッヒ・H・テンブルックの「マックス・ヴェーバーの業績」を読了。私の大学時代の恩師である折原浩先生の業績である「ヴェーバーの「経済と社会」再構成問題」について、改めて現在までの流れを私なりに出来る範囲で追いかけてみようとして読んだものです。その「再構成問題」はこの本に含まれているテンブルックの「『経済と社会』からの訣別」がスタート地点になっています。ヴェーバーの「経済と社会」は妻であるマリアンネ・ヴェーバーが夫の死後、夫の「主著」としてまとめ上げようと、本来ヴェーバーが一冊の本としてまとめようとしていたかも不明なのですが、遺産として残された膨大な原稿を彼女なりの考えで整理して1922年に出したものが最初です。このマリアンネの版に対して、いわゆる「校訂」作業を施して、膨大な注釈を付けた版を1956年と1976年にヨハネス・ヴィンケルマンが出します。この「訣別」論文はそれに対する徹底した批判です。ヴィンケルマンは、ヴェーバーが当初計画していた「構成表」に従って全体を再構成するということを行っていますが、実はその「構成表」はヴェーバーによって破棄されたものでした。また、マリアンネが残した誤った二部構成をそのままにしました。
以上のようなヴィンケルマンの編集に対して、その内容がヴェーバーの元々の意図とはまるで無関係であり、それを読むものが正しくヴェーバーの本来の意図を理解できるような構成ではないとテンブルックは批判します。
さらには、この本に入っている別の論文である「マックス・ヴェーバーの業績 I」で、テンブルックは「経済と社会」の価値自体も、それが単なる「委託仕事」であって、ヴェーバーの主著とすべきは「宗教社会学論選」の方であるとし、「経済と社会」の評価を貶めます。1962年にアメリカでラインハルト・ベンディクスという人が「マックス・ウェーバー その学問の包括的一肖像」という本を書いて、それまで断片的な著作だけを個別に評価されていたヴェーバーの、初めてといえる包括的な評価を行います。ベンディクスは、「宗教社会学論選」と「経済と社会」を同時に評価しているのですが、テンブルックはそれを批判している訳です。そのベンディクスの本は1966年に折原浩先生の翻訳で日本語版が出ています。(改訂版が1978-79年です。)次はそれを読んでみます。
日本銀行調査局の「レンテンマルクの奇蹟」
日本銀行調査局の「レンテンマルクの奇蹟」を入手。大学の卒論の時使った資料で、書いてあったことを確認したくて「日本の古本屋」で買いました。結構部数が出たみたいで、1,000円くらいで入手できました。当時の日銀調査局は優秀で、薄い冊子ですが要点はかなり押さえてあり、分析も的確です。今回、いわゆるレンテンマルクについて改めてWeb上を調べてみたのですが、Wikipediaの日本語のみならずドイツ語のサイトさえ、「土地の価値に基づく」という説明しかしていないのに驚きました。(土地の価値そのものではなく、その土地の「地代」に基づく通貨です。)(日本語のWikipediaは私が書き換えました。)また、第2次世界大戦後の日本のインフレに対し、国民から日銀に対し「何故日本でもレンテンマルクを導入しないのか」という声があり、この本はそれへの回答にもなっています。それによれば、レンテンマルクは最初ライ麦マルクという案で、後に地代であるレンテに価値の基礎を置いたことが特に農業界の絶大な信用を得たこと、最大発行額が制限されていたこと、レンテンマルクの発行と同時にライヒスバンクの国債引き受けが停止されたこと、同じく同時に厳しい外国為替管理が実施されたこと、そして何よりレンテンマルクが導入されてすぐ、ドーズ案によってドイツの賠償支払いの猶予が認められたことを決定的な「奇蹟」の原因としています。こうした付随する条件無しに、レンテンマルクのような何か金以外の価値に基づく通貨を作っても効果は限られている、というのが結論です。
前にも書いたように、その当時の日銀がレンテンマルクの代わりにインフレ収拾策として導入したのが預金封鎖と新円切り換えです。しかし、この政策は多少の効果はあったもののハイパーインフレーションを抑えきることは出来ず、金融資産に依存していた層が没落する原因となります。この社会の構造を根底から変えてしまう、という点がハイパーインフレーションのもっとも恐るべき点です。
マックス・ヴェーバーの著作の日本語訳における「誤訳」の連鎖(続き)
「マックス・ヴェーバーの著作の日本語訳における『誤訳』の連鎖」にて、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」に出てくるRentenkaufの日本語訳が、大塚久雄が「年金売買」と不適切な訳を使い、それが後の2つの日本語訳にも継承されたことを書きました。その時に、この単語が「中世商事会社史」と「古代農業事情」、そして「経済と社会」にも登場することを書きました。この内、「中世商事会社史」は私が調べた限りではまだ邦訳が出ておらず、取り敢えず「古代農業事情」の日本語訳である「マックス・ウェーバー 古代社会経済史 古代農業事情」を取り寄せました。訳者は、渡辺金一氏と弓削達氏です。(1959年)
この「古代農業事情」でRentenkauf(ないしはその変化形)が登場するのは次の3箇所です。
1.「四.ギリシア」の「a 古典期以前」の「神殿領における永代賃貸借の発生」(この段落見出しは訳者が付与したもので原文には無い。)邦訳P.234
2.「五 ヘレニズム」の「ヘレニズム エジプトの経済事情」の所。邦訳P.318
3.「六 ローマ」の「b ローマの拡大時代」の「公共地利用法の二種。先占による農業資本主義の発生」邦訳P.421
それで共訳者のお二人がRentenkaufをどう訳しているかと言うと、何と「レンテンカウフ」と単にカタカナ語に直しただけで、何の説明もありません。これは誤訳を当てはめるよりはましですが、無責任な態度と言わざるを得ません。実は伏線があり、「訳者序」には、そもそも「Rentenにはあえて訳語を与えなかった。」としています。その方針は分からないでもありませんが、Rentenを訳さないからRentenkaufも訳さない、というのはある意味翻訳放棄に見えます。また、「訳者注」もほとんど付けないことについての言い訳も書いてあって、それをやると出版までに何年かかるかわからず、またそれ自体が自分達の「研究」になってしまうから、と言っています。しかし、私が入手したのは2001年の第25刷ですが、最初に出版された後、まったく改訂されていません。確かにヴェーバーの著作に出てくる細かな事実を調べだしたら大変です。「プロ倫」の注釈の中に出てくるわずかな英訳聖書の記述だけで、ほぼ3年近く、また地球を一周する距離を旅してまで調べた私ですから、それは良く分かります。しかし、「レンテンカウフ」でそのまま済ませてしまうのはあまりにも安易かつ無責任だと思います。
上記のように、この「古代農業事情」の中だけでも、ギリシア、エジプト、ローマの歴史的事実に対して、中世におけるRentenkaufについて言及されています。(一番目は古代ギリシアでも同様のものがあり、神殿が自分の土地から資本投下を行うために設定した永代賃貸借がRentenkaufだとされます。二番目は中世とヘレニズムでの「資本創造」の差について述べており、11・12世紀のジェノヴァや13・14世紀のフィレンツェでRentenkaufを使った国債の発行があったとしています。{これが多分「中世商事会社史」に出てくるのでしょう。}三番目はローマで私的な永代賃貸借が存在しなかった理由を述べており、それが中世でも同様で、市民を隷属民にしない形での土地負担の一形態がRentenkaufで初めて可能になった、としています。)また実質的にヴェーバーの最初の論文である「中世商事会社史」にも登場し、また東エルベの農業労働者の問題にも深く関わったヴェーバーにとっては、非常に重要な概念であったのではないか、という思いが強くなってきました。
「中世商事会社史」についても、邦訳は出ていないながら、分かる範囲で眺めてみたいと思います。
丸山眞男の「戦前における日本のヴェーバー研究」
丸山眞男の「戦前における日本のヴェーバー研究」を読了。1964年はマックス・ヴェーバー生誕100年の記念の年で、東京大学でそれにちなんだヴェーバーに関するシンポジウムが実施されましたが、その時の講演の記録です。まず冒頭で、丸山は「私はヴェーバ-学者ではない」と断ります。ヴェーバーから非常な学恩を被っているけれども、ヴェーバーに関係した論文は一本も書いていないと言っています。丸山はヴェーバーは最初は日本では大正時代に経済学・経済史の学者として受容され、その中世商事会社の研究などが評価されたとのことです。その後、日本のアジア進出と合わせて、ヴェーバーの「儒教と道教」などの東洋に関する理論を評価したり、また東洋優位的な発想で批判したりするものが現れたということです。戦時の動きとして興味深いのは、ヤスパースのヴェーバー論の影響で、昭和17年に安井郁という人が何と「求道者ヴェーバー」という論文を書いているということです。昭和17年といえば吉川英治の「宮本武蔵」の人気がピークだった頃であり、まさに求道者として描かれた武蔵が人気を博する一方で、学問の世界でも特定の学者を求道者に祭り上げるという動きがあったということは非常に興味深いです。思うに大衆小説や漫画といった大衆文化というものは、その時代の精神(die Zeitgeist)を自然と反映するということなのかもしれません。
ユルゲン・コッカの「ヴェーバー論争」
ユルゲン・コッカの「ヴェーバー論争」を読了。ヴェーバー関係書誌情報を作るのに、ヴェーバーの研究書をいくつか買った内の一つ。薄くて読みやすそうだったのでトライしてみました。内容的にはヴォルフガング・J・モムゼンのある意味有名な(と言っても今Webを検索してみたら、ほとんど日本語の情報は出てこないですが)ヴェーバー批判を中心にして、それをさらに批判したものです。モムゼンの批判は、その本(「マックス・ヴェーバーとドイツ政治 1890~1920〈2〉」)も持っていますが、未だに読んでいません。というか、そのモムゼンが批判しているヴェーバーの政治思想について、ヴェーバーの政治的文献自体をまだほとんど読めていません。という訳で順番が変な読書なのですが、モムゼンの批判の概要がわかって有益でした。まあかいつまんで言うと、ヴェーバーは価値自由ということで、学問と政治を厳しく区別し、学問に政治を持ち込むことを否定しますが、その結果、政治の行動原理がその場その場の利益を追い求める「決断主義」になりがちだということ。また、有名な「支配の社会学」の議論で、その当時のドイツにはカリスマを持った大統領的人物を民衆の投票で選ぶような政治体制が望ましいとし、結果的にそれがワイマール期のドイツの政治体制に影響を与え、結局ヒトラーの台頭と独裁を許すことになったという批判です。この批判に対しては、このコッカの本もそうですけど、色々と再批判が出て、モムゼンの批判は当たらない、ということになっているみたいです。私自身も、1920年に死んでいるヴェーバーがヒトラー体制に影響を与えたというのは、ある意味飛躍が過ぎると思っています。
この事で思い出すのは、大学の時にドイツ史の授業で、ヴェーバーを勉強していると言ったら、先生からこのモムゼンのヴェーバー批判をどう思うかと聞かれたことです。その当時(大学3年生)の私は、モムゼンの批判についてはまったく知りませんでした。というか、ヴェーバーの膨大な著作を読みこなしていくのに全力を傾けていたので、当時、ヴェーバー以外の学者のヴェーバー批判にまで目を通す余裕はまるでありませんでした。今から考えると、ある意味意地悪な質問だと思います。