「原子力潜水艦シービュー号」の”The village of guilt”

「原子力潜水艦シービュー号」の”The village of guilt”を観ました。この回は大ダコとシービュー号の格闘で、このシーンも映画版に出てきていたと思います。ノルウェーのある漁村で酔っ払った猟師3人がボートで海に漕ぎだして、「海の怪物」に襲われて2人が死にます。残った1人から事情を聞き出そうとネルソン提督がシービュー号でやってきますが、タッチの差で生き残った一人も誰かに殺されてしまいます。シービュー号が近くの海を捜索していたら、シービュー号は何匹もの巨大ナマズに襲われます。(日本人には巨大ナマズはおなじみですが。)結局ある種のマッドサイエンティストが海洋生物の細胞を巨大化する実験を行っていて、それが逃げ出したのが怪物の正体で巨大タコでした。シービュー号はこの大ダコに襲われて、船首を破壊されそうになります。(意外ともろいシービュー号)ネルソン提督の指示で原子力エンジンのフルパワーを出して、電流を艦体に流してやっと大ダコを退治することが出来た、という話です。この海洋巨大生物パターンはこの後何度も何度も登場し、シービュー号のストーリーの中のもっとも顕著なパターンの一つになります。

NHK杯戦囲碁 中野泰宏9段 対 本木克弥8段

本日のNHK杯戦の囲碁は黒番が中野泰宏9段、白番が本木克弥8段の対戦でした。この碁のハイライトは下辺の攻防で、黒が下辺の白に対し、左下隅から延びる黒と連絡気味にふわっと封鎖したのに白が反発してその左に付けていった所から始まりました。黒はその過程で下辺に下がる強手を打ちました。その後はほぼ一本道で左下隅から延びる黒、下辺の白、右下隅の黒との攻め合い含みのねじり合いになりました。双方持ち時間0での読み合いでしたが、最初本木8段は下辺の白にしのぎがあると楽観していたみたいです。しかし途中から大変さを理解しようで、顔色が変わって真剣になりました。右下隅ではほとんど取られていた白を活用して一手ヨセコウに持ち込んで白が良くなったかと思いましたが、中野8段は下辺の白に冷静に切り込みを打ち、これで一気に白の手が短くなり、結局下辺と右下隅の白が全滅しました。白はその後左辺の黒全部を取りに行きましたが中野8段は捨てても十分と冷静に対応し、ここで白の投了となりました。中野8段の冷静な読みが光った一局でした。

Bullying in Japan

(Again, the following essay is what I wrote as an assignment of AEON.)

Topic Bullying in schools
Style Formal

Bullying in Japan is a serious, insidious, wide-spread, and long-lasting problem, not to mention bullying in schools. In the Edo era, there was a custom called “Mura hachibu” in most villages in Japan. It was a form of Japanese ostracizing, and if a resident of a village violated the laws of the village or disturbed the peace, all other residents terminated the communication with him/her in addition to the ban of the usage of common water and fuel. This system was often abused by some leaders of villages as a means of eliminating unfavorable person for them. There was no option other than to leave the village for the person who was declared “Mura hachibu”. Although this custom was judged to be illegal by the supreme court in 1909, we still hear similar cases even now.

If we describe some characteristics of bullying in Japan, the followings can be exemplified:
(1) It is usually done in a closed, small community (including a class in a school).
(2) There is/are a bully or bullies and a/some victim(s) and the others who are just neutral bystanders and are reluctant to stop bullying.
(3) It is mostly conducted in an insidious way, in stealth, without being seen e.g. by a teacher.
(4) It can start without any specific reasons and it usually lasts long.

From above mentioned characteristics of bullying, most cases are difficult to detect from the outside, and many teachers in schools are not aware of them. As for the others aside from bullies and victims, it is quite difficult for them to stop bullying because they fear that they would also be the targets of bullying if they try to stop them.
One of the harshest cases of bullying happened among groups of children who evacuated from the metropolitan areas in Japan during World War II. For example, a Japanese novelist Nobuhiko Kobayashi evacuated from downtown Tokyo to the Hanno city in Saitama. All children who evacuated there experienced serious lack of food and bullying among children was quite harsh. Kobayashi was forced to stand in a urinary pot with bare feet during the night. (He later wrote two novels based on the experiences at that time). There were a plethora of similar stories at that time.
In Japan, people are often implicitly forced “to read the air”, namely to sense the atmosphere in a group and to follow others. If we try to stop bullying in the future, it is vital to strengthen the independence of every single person so that anybody can have a courage to stop bullying.

Nobuhiko Kobayashi, Fuyu no Shinwa (A Myth in Winter)

Nobuhiko Kobayashi, Tokyo Shonen (A Boy in Tokyo)

アーヴィン・アレンの”The lost world”

アーヴィン・アレンの1960年の映画”The lost world”を観ました。コナン・ドイルの「失われた世界」が原作です。その結果分かったのは、「原子力潜水艦シービュー号」の”Turn back the clock”の回は、この映画の後半部を単に短くしただけだということが分かりました。恐竜のシーンを使い回しているだけでなく、ほとんどの展開が一緒です。原住民に襲われて捕まり、その原住民の女性に助けられて脱出し、最後に溶岩の流れる洞窟を脱出してというのがまるきりそのまんま。もっとすごいのがこの映画の新聞記者マローンとシービュー号のクレーン艦長は同じ役者(デビッド・ヘディスン)なんですが、それをいいことに、映画のシーンをまったくそのまま流用しています。この写真の3枚目の大グモを撃つシーンまったく一緒ですし、他にも沢山そんなシーンがあります。まあ自分の作品だから「盗作」ではありませんが、ここまで使い回し倒す監督を初めて知りました。

「原子力潜水艦シービュー号」の”Turn back the clock”

「原子力潜水艦シービュー号」の”Turn back the clock”を観ました。南極海を潜水ポッドで調査していて、ロープが切れてポッド毎行方不明になっていたメンバーの内一人が何ヶ月か振りに無事に救助されました。その男は防寒具を持っておらず普通の服装だったのに南極で数ヶ月生き延びていました。男は部分的に記憶がなくなっており、ネルソン提督はシービュー号で調査に向かいます。前回と同じように潜水ポッドで潜っていたら、突然強い潮流に流され、またロープが切れてポッドはどこかへ流されます。そしてポッドが浮上したのは、南極にありながら、南海の楽園みたいな島でした。ネルソンはおそらく火山活動によって気温が上がっているのだと推定します。メンバーがしかしそこで見たのは、まるでジュラシック・パークみたいな恐竜でした。それで笑っちゃうのが、その恐竜がタイムトンネルで100万年前に飛ばされた時に出てきた恐竜と同じだったことです。完全に使い回し。その後別の恐竜が出てきて2匹が戦い始める所までまったく一緒でした。(おそらく大元は20世紀フォックスの何かの映画なんでしょうが。)その後、これまた1960年代当時の偏見に満ちた「原住民」が出てきて、ネルソン提督以下全員捕まります。ネルソン提督が靴底に隠していた、麻酔剤を使って見張りを麻痺させ、何とか脱出に成功しますが、途中でまた別の恐竜が出てきて、結局それに対しては溶岩をその上に落として何とか切り抜けます。一行は無事にシービュー号に拾われますが(シービュー号が氷山の間に浮上するシーンがこれまた何回目かわからない使い回しです)、結局その島の火山が大爆発し、全ては吹っ飛んでしまいました、というお話です。今回は少なくとも「某国」の陰謀の話ではなかったです。

オムロンのUPSの自動シャットダウン設定ソフト(Linux用)

会社のサーバーにはEatonのUPSを付けました。会社のなんで、一応ちゃんと停電時の自動シャットダウン設定をしました。(OSはLinuxでCentOS7.5です。)
そっちでうまく行ったので、今度は家のオムロンのUPS(BY50S)の自動設定をやろうとしたんですが(今までは単なる瞬停対策として自動シャットダウン設定はしていませんでした)、これがかなりの難物というか、かなり信じられないような出来損ないでした。
まず、Linux用のプログラム(PAPV452_Master_RHELV7_64bit)(rpm)をダウンロードしようとしたら、認証ウィンドウが出てきて、IDとパスワードを入れないと入れません。それでオムロンのサイトでユーザー登録をしてIDとPWを入手しましたが、それではログイン出来ません。またUPSの製品のユーザー登録もしましたが、そちらでもIDとPWは発行されません。よくよくマニュアルを読んでみたら(そのマニュアルがまた単なるHTMLファイルの集まりで、しかもChromeでもIEでもきちんと表示されず、何故かFirefoxだとちゃんと表示されるという訳のわからないもの)、何とパスワードは製品付属のCD-ROMのボリュームラベルについている数字とバージョンだということでした。しかもバージョンの方はそのボリュームラベルについている3桁の数字のままではなく、1桁目と2桁目の間に小数点を自分で入れなければ駄目、という極めてわかりにくい内容になっています。
それでようやくrpmをダウンロードしてインストールしようとしましたが、今度は依存関係のエラーが沢山出てインストールが止まってしまいます。仕方がないので、yumでどのパッケージが必要なのか調べて一つ一つつぶして、やっとのことインストール出来ました。そしてインストールを開始したら、全部テキストなのはコンソールのプログラムだからいいとして、何故かSSLの証明書を作らされます。(マニュアルには通信にSSLを選べとあります。しかし、最近のブラウザはこのような「なんちゃってSSL証明書」ではページにアクセス出来ないと思います。)それでも我慢してなんとかインストールを終えましたが、その後、サーバーの動作をチェックしたら何とhttpdが死んでいます。調べてみたらこのインストーラーが勝手にhttpd.confに追記を入れていて、その内容が間違っているために、httpdが再起動できなくて死んでいました。多分このhttpd.confの設定は設定画面をブラウザで見るためのものなんでしょうが、私は自動シャットダウンの設定をきちんと一回やれば、後は設定画面を見る必要はなく、このhttpd.confの変更部分は即刻削除し、httpdがまた動くようになりました。
ともかく、色んな環境でのテストとかやっているとはとても思えないお粗末なインストーラーでした。自動シャットダウンソフトについては、Eatonの方がはるかに優れています。

P.S.httpd.confの変更部分を削除した後、自動シャットダウンの実験をしましたが、きちんと作動しました。

「原子力潜水艦シービュー号」の”The sky is falling”

「原子力潜水艦シービュー号」の”The sky is falling”を観ました。アメリカ上に円盤形UFOが現れ、人々を恐怖に陥れます。アメリカは地対空ミサイルで迎撃しようとしましたが、UFOは海中に姿を消します。アメリカ軍はそこでシービュー号に捜索を命じます。シービュー号は海中で渦巻きに巻き込まれそうになった後、UFOを発見します。しかし、UFOからの何かのパワーで、シービュー号の空気供給を含む全パワーが停止してしまいます。その内、円盤から何かポッドのようなものが近づいてきてシービュー号に接岸し、ネルソン提督がそのポッドに乗り込みます。そこで提督が見たものは、提督とまったく同じ顔をしたエイリアンでした。(エイリアン側が会う人に合わせて顔を変えているということです。)結局エイリアンと交渉して、彼らのUFOが燃料不足で宇宙に戻れないことがわかり、シービュー号の核燃料の一部を提供して無事に戻っていくという話です。(しかしUFOの動力源が原子力というのも何だかです。)今回シービュー号はUFOに手も足も出ないで、ほとんど活躍していません。またUFOが一体何が目的で地球にやって来てわざわざ姿を見せたのかもさっぱりわからず、SFドラマとしてはかなり中途半端でした。

マックス・ヴェーバーの「ロッシャーとクニース」(松井秀親訳)

マックス・ヴェーバーの「ロッシャーとクニース」(松井秀親訳)を読了しました。ヴェーバーの本は大体において難解で有名ですが、この本は特にそうで、一回読んだだけではさっぱり頭に入らず、二回目に注釈を飛ばしてなおかつマーカーで線を引きながら読んでようやく少しだけ理解できた感じです。私には「ヴェーバー的倒錯」と呼んでいる現象があって、それは何かというと、たとえば「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」であれば、本来であれば「プロテスタンティズムの倫理」について多少は知識がある人が読むべきと思いますが、大抵の日本人はヴェーバーの著作によってプロテスタンティズムを知る、ということになります。「古代ユダヤ教」なんかに至ってはさらにそうで、クリスチャンでない限り、旧約聖書の世界に精通している人は日本にはそうはいません。「儒教と道教」ぐらいなら、日本人であれば多少はヴェーバーよりも理解しているかも知れませんが、それだって実は怪しいのではないかと思います。(「老荘思想」は知っていても、道教の実際を良く知っている人がどれだけ日本にいるでしょうか。)
この「ロッシャーとクニース」もまさにそうで、ヴェーバーは「ドイツ歴史学派の子」として、その親にあたる二人の学者を批判して自分の拠って立つ学問的基礎を固めようとしている訳ですが、この「ドイツ歴史学派」というのが、今日の日本ではほとんど知られていないと思います。この歴史学派は、経済学での「合理的な人間」(自分の利潤を最大限にしようとして行動する人間)の考えや、法学における「自然法思想」に対する批判として起こり、そういう普遍性の追究よりも、歴史的な経緯というものを重んじる学派です。それはドイツ自身がプロイセンによって国民国家としてやっと統一された「遅れてきた国民国家」としての立場主張と考えられます。その創始者はフリードリヒ・リスト(1789-1846)で、国民国家を最高のものとし、ヘーゲル的な発展段階説を唱えます。その後に来るのがブルーノ・ヒルデブラント(1812-1878)、ヴィルヘルム・ゲオルク・フリードリヒ・ロッシャー (1817-1894)やカール・グスタフ・アドルフ・クニース(1821-1898)になり、ヴェーバーがこの本で批判の対象にしているものです。
マックス・ヴェーバーの生涯はご承知の通り、1864年-1920年ですから、ロッシャーは47歳、クニースは43歳年上で、ヴェーバーから見ればいわば父親から祖父の世代になります。
そこでこの二人の批判ですが、ロッシャーに対する批判は比較的理解しやすいです。もっとも私はロッシャーの著作は一切読んだことがないので、片手落ちではありますが、ヴェーバーは、ロッシャーが「因果性」と「法則性」をごちゃごちゃにしていて、というか最初から「民族共同体の発展の図式」のような素朴な「信仰」がバックにあり、つまる所は宗教的な信仰へと行き着きます。19世紀に宗教から科学が分離をし始めますが、ロッシャーの段階ではそれはまだ混ざり合ったものであり、科学的な歴史の解明としては問題が多いことをヴェーバーは批判しています。
これに対して、クニースへの批判は非常に錯綜しており、分かりづらいです。私はクニースの著作もまったく読んでいませんが、ヴェーバーによればそれ自体がかなり晦渋なもののようです。しかもヴェーバーはクニース批判に入る前にそれと関連あるものとして、まずは実験心理学のヴィルヘルム・ブント(1832-1920)の方法論を批判し、さらには同じく心理学のヒューゴー・ミュンスターベルク(1863-1916)をも批判します。ヴェーバーが自分の社会学を心理学とははっきりと区別していることは例えば「理解社会学のカテゴリー」にも出てきますが、ここではかなり詳細に立場の違いが論じられます。
さらには続けてゲオルグ・ジンメル(1858-1918)の説も取り上げられます。ヴェーバーが歴史における現象の「意味」を客観的に「理解」することを、主観的な動機の解明(心理学的なアプローチ)からきちんと区別したことをジンメルの功績として挙げ、ヴェーバーの立場がそれに近いことを示しています。
ここで一言言っておかなければならないのは、私は保城広至の「歴史から理論を創造する方法 社会科学と歴史学を統合する」への書評の中で、保城がヴェーバーの理解社会学を「解釈学」として表現することに異を唱え、「ウェ-バーの方法論のテキストの中に「解釈学」という言葉が出てくるのを私は記憶していません。」と書きました。しかし、この私の書いていることは間違いで、この「ロッシャーとクニース」の中には、「解釈」や「解釈学」という言葉は何度か登場します。しかしヴェーバーは、「解釈学」が扱う「解釈」の問題は、彼がこの著作で問題にしている認識論的な問題とはまったく別のことを扱っているので、シュライエルマッハーやベックの研究は考慮しないとはっきり言っています。またディルタイの論説についてもその先入観ともいうべき部分を批判しています。私はこの「ロッシャーとクニース」によって、再度ヴェーバーの「理解社会学」は(いわゆるシュライエルマッハーやディルタイからハイデガーにつながる)「解釈学」とは理解されるべきでないことを再度確認できたと思います。
そういう風に延々と回り道をして、第三論文でようやくクニース批判にたどりつきますが、しかしこの論文は未完であり、途中で終わってしまっています。結局クニースの考え方は人間は統一された有機体であり、さらにその考え方を国民国家にも適用し、国家もそのような有機体として理解されるべきと考えているとヴェーバーは批判します。その「統一的有機体」というものが定義も歴史的な解明もされず所与のものとされて最初から前提とされている所にヴェーバーはクニースの学問の非科学性を見ています。
といったような私の理解がどこまで読めているのかはまったく自信がありませんが、ヴェーバーが精神疾患からの回復過程でかつ「プロテスタンティズムの倫理と資本主義」を書く前にこの方法論的考察を行ったという所が非常に興味深く感じます。

「原子力潜水艦シービュー号」の”The price of doom”

「原子力潜水艦シービュー号」の”The price of doom”を観ました。ネルソン提督も忙しい人で、今回はある博士(元ナチスに協力していたという設定です)と、プランクトンを食用にする共同研究をやっています。ところが、そのプランクトンに熱を加えると、どんどん成長してとんでもない怪物に変化して人間を喰ってしまうという、なんだかほとんどウルトラQみたいな話でした。そこにまた「某国」のスパイが乗り込んでいて、シービュー号に爆弾を仕掛け、自分だけミニサブで逃げようとしますが、ミニサブの置いてある部屋には既に怪物化したプランクトンが待ち構えていて、そのスパイは食べられてしまいます。最後はクレーン艦長が外からハッチを開けて、南極海の冷たい海水を入れてプランクトンの怪物を退治して、という結末です。一応潜水艦ものですが、何でもあり、という感じです。次回はどうやらエイリアンが出てくるみたいです。