白井喬二の「彦左一代 地龍の巻」

白井喬二の「彦左一代 地龍の巻」を読了しました。1942年10月の出版で、後篇の「天馬の巻」と合わせての二篇ですが、前篇だけ見つかったものです。この時期は出版用の紙の統制もかなり強まっていた時期ですが、第二冊が10,000部と奥付にあり、初刷も同じ部数だとすると合計20,000部ということになり、さすが白井喬二だと思います。「地龍の巻」は天下のご意見番として知られた大久保彦左衛門の少年時代と、成人して家康の直参として活躍し、小牧・長久手の戦い(徳川家康と豊臣秀吉の戦い)の途中で終っています。大久保彦左衛門は幼名が「平助」でしたが、三男坊で上二人が優秀なのに比べ「ぼんやりした」「愚鈍な」少年であり、親から「間引き」(養子に出したり、遠方へ追いやる)を検討されたほどでした。しかし実は「能ある鷹は爪を隠す」で、生まれついての智恵と秘かに研鑽した武芸の腕を隠していましたが、ある時的から城の高い位置に射こまれた矢を取ることを、城下の元服前の少年武士達に命令が下ったのを、首尾良く成功し、しかもその功を自分のものとしなかった処理を天晴れとされ、家康から直々に元服を命じられます。また、事実かどうかは不明ですが、いわゆる長篠の戦いで初陣でありながら大手柄を立て、家康から「彦左衛門」という名前を賜るという話です。
ちょっと嬉しいのは少年時代の「平助」のキャラクターが、ほぼ熊木公太郎とかぶることです。また同じ年に出版された「坊ちゃん羅五郎」の主人公ともかなりかぶっています。「彦左衛門」になってから、かつての部下が悪い商人に捕まって土牢に入れられていたのを救出したりとか、乳兄弟の女性が遊女に売られたのを救いに行くとか、まったく典型的な白井喬二作品の主人公です。
下巻が入手出来ていないので、いわゆる「天下のご意見番」となってからの話はありませんが、気長に探したいと思います。

ハロウィーン考:社会の二重構造と「ケ」と「ハレ」

今読んでいる”The Dawn of Everything: A New History of Humanity”に面白いことが書いてあります。17-8世紀の北米カナダのネイティブアメリカンの多くの部族は面白い社会を持っていました。それは食物が容易に手に入る春~夏~秋の間は家族中心の小集団がそれぞれ別れて狩猟採集で暮らし、ある意味「平等社会」で暮すのを、冬になるとある場所に集まって暮して保存した食べ物を消費して暮しますが、そこは「階層社会」だったそうです。有名なポトラッチ(贈与合戦)もその階層を決めるための手段でした。(より多く他者に贈与をして気前の良さを示した者が上位の階層となる。)筆者の二人によると実はこのように季節によって社会構造を変えるというのは北米のネイティブ・アメリカンだけでなく、歴史的にも世界的にもかなり多くの社会で見られるのだそうです。なので狩猟採集の原始共産制社会が農耕が始ると貧富の差が出来て階層社会が出来たなどという発展段階説は、こういった歴史的事実をまったく説明出来ていません。
それでは現代の社会が何故季節性を失って単一の社会構造になったかですが、実は現代社会にもかつての名残があって、それが欧米での「ホリデーシーズン」だと筆者達は言います。(欧州については夏のバカンスも。)アメリカ人がお互いに贈り物をしあうのはこの時期にほぼ限定されます。そう考えると日本の「ハレとケ」も本来はそういう同一社会の時間によって変わる二重構造の現われではなかったのかと。またハロウィーンという欧米の習慣(キリスト教の習慣ですらない)が何故日本や韓国で近年これだけ享受されたのかという説明もこれで出来そうです。即ち昔「ハレ」として社会のガス抜きの意味を果たして来た伝統的な祭などが形骸化し、そこで満たされない「馬鹿騒ぎ・社会秩序の否定」が日本や韓国でのハロウィーン騒ぎではないかと。そう考えると、日本で47都道府県の内、1つだけそういう伝統的「ハレ」を今でも強く維持しているのが、徳島の阿波踊りではないかと。「踊る阿呆に見る阿呆」というのは、ヨーロッパでの「驢馬のミサ」(カーニバルの起源で、〈愚者の饗宴〉では,少年や下級僧の間から〈阿呆の司教〉が選ばれ,祭りの期間は通常の秩序や価値観が逆転した世界が支配した)とまったく同じ役割を果たしています。今年の3年ぶりの阿波踊りでコロナ感染者が多数出たり、ソウルでハロウィーンで多数の死傷者が出たというのも、そういう「無礼講・狂乱状態」だと考えると理解が出来そうです。(亡くなられた方には謹んで哀悼の意を表します。)

今野元の「マックス・ヴェーバー ――主体的人間の悲喜劇」

今野元の「マックス・ヴェーバー ――主体的人間の悲喜劇」を古書で購入。この著者のヴェーバーに関した本は他にももっていますが、あまり評価していないので、新書とはいえ新品を買う気がせず古書にしました。この人はヴェーバーの学問よりも伝記的なことばかりを追いかけている人で、ご丁寧にもヴェーバーの子供の時の論文(?)まで日本語訳しています。私は「中世合名・合資会社成立史」を翻訳しようとした時にまず思ったのが、こんな子供時代のはっきりいって学問的価値の無いものを訳す暇があったら、どうして「中世合名・合資会社成立史」や「ローマ土地制度史」を訳さないのかということです。しかし本文をチェックして、その「中世合名・合資会社成立史」の所を読んでいたら、Die Offene Handelsgesellschaft (合名会社)を「公開商事会社」と訳していて、ああ、これはとてもじゃないがヴェーバーの学術論文は訳せないなと思いました。それからヴェーバーの博士号論文でテオドア・モムゼンが「結論に異議を呈した」とありますが、本当の所は、「モムゼンが生涯考え続けていたローマの植民市における何かの概念についての解釈がヴェーバーと違っていた」というだけです。それからこの論文を「資本主義の起源を扱った」と書いていますが、資本主義という単語はこの論文には一度も出て来ず、実際はローマ法のソキエタースがどのように法制史上で合名・合資会社を取り込んだか、というのが主眼であり、資本主義の起源を書いたなどというのはナンセンスです。この程度の人が書いた「伝記」など読む気はしません。

ヴェーバーの誤り:母権制とメンナーハウス

マックス・ヴェーバーの「支配の社会学」の中に、「母権制」は「メンナーハウス」(戦士宿)で男子が戦士としての腕を磨くために共同で暮して家を空けた制度の名残であろうと説明しています。そしてWikipediaの「男子集会所」の項はこのヴェーバー説を正しいと認められた理論であるかのように引用しています。
しかし、
(1)まず「母権制」という概念自体がインチキで、スイスのバッハオーフェンという人が19世紀中頃に主張した説で、大昔は結婚制度がなく乱婚状態で、その場合父親が誰かは分りにくいけれど、母親が誰かは分るので、母親を中心とした家が作られた、というまったく歴史的事実に裏付けされないトンデモ説であり、いわゆるマルクス主義の原始共産制という概念もこれに基づいています。
(2)「母権制」といえる、女性が権力を継承するという社会は、世界全体では非常にまれで、「母系制」と混同しています。母系制は女性が権力を得るというものではなく、子供が母親の家系の成員となりその財産を相続するというものです。ただ、実際には母親の財産を管理しているのは男性の兄弟だったり息子だったりしますので、必ずしも女性が家長権を握っている訳ではありません。(母系制については中根千枝先生がいくつか論文を書かれています。)
(3)メンナーハウスがある所に(あった所に)、母系制社会があったというのも証明されていないと思います。メンナーハウスで一番有名なのはおそらくスパルタでしょうが、スパルタが母系社会であったというのは聞いたことがないです。
マックス・ヴェーバーの欠点は2次文献、3次3文献で得た知識を性急に一般化してしまうことで、これなんかまさしくそうだと言えます。

折原浩先生の「マックス・ヴェーバー研究総括」

折原浩先生の「マックス・ヴェーバー研究総括」、本日先生より贈っていただき届きました。但しAmazonで9月30日に別に予約したものはまだ届かず、今日見たら「注文後1~2ヵ月で発送」になっていました。(発送予定自体は10月14~16日)この本は、元々2019年7月の「東大闘争総括」の書評会での質問や批判に応答するというのが執筆動機であり、本来は2020年のヴェーバー没後100年の年に出る筈だったのが遅れに遅れてやっと出たものです。折原先生自身のご病気、奥様のご病気、またコロナのパンデミックによって、おそらくはスペイン風邪で亡くなったと思われるヴェーバーとの関連での記述が追加になったとか、色々な理由で遅れています。
人名索引に私の名前が出ていたので、また羽入批判関連かと思ったら、私が大学時代に先生のヴェーバーの「経済と社会」解読演習に参加していた、という話でした。
中身は、文字通り「総括」でヴェーバー研究を始めた動機、東大紛争での闘争と学問、宗教社会学の公開自主講座の話から始って、「経済と社会」の編纂問題のまとめ、宗教社会学3部作(「ヒンドゥー教と仏教」「古代ユダヤ教」「儒教と道教」)の読解とまとめ、などです。この3部作は本当に難解なので、個人的にはとても助かります。

最近の手紙本はひどい…

以前、J社で手紙文自動作成というプロジェクトに関係していました。その時市販の手紙の書き方本・文例集を何冊か買って調べましたが、中身は噴飯ものでした。最近のはどうかと思って、Amazonで一番売れていそうなの(敢えてタイトルと著者は書きませんが、出版社は主婦の友社)を買ってみましたが、さらにレベルが落ちていました。封筒ののり付けする所に書くのは「メ」じゃなくて「〆」なんですけど…
芳賀矢一・杉谷代水合編「書翰文講話及び文範」では、元は「〆」だったのを明治になって男性で「緘」「糊」「封」などを書く人が増えたと言っています。1896年の樋口一葉の「通俗書簡文」では、一葉は「状封じて墨を引くこと古くよりの法なりとぞ、封、しん、鎖、糊、いづれも女のものならず、まして此處に検印みとめおしたるいかなる心にかと怪し、ただ〆とばかりかきてありぬべきを。」として、女性はただ「〆」と書きなさい、と教えています。(この部分、故山本夏彦氏がそのエッセイの中で何度か引用していました。尚、「緘」は封緘紙の「緘」で現在では「かん」としか読みませんが、「通俗書簡文」は「しん」とルビを振っています。「書翰文講話及び文範」は「かん」です。)
それから日付は手紙の本文中に書くもので、封筒に書く必要はないと思いますが。(履歴書を郵送する時とかは別)
手紙の本を買うんだったら、大正時代以前のものが良いです。戦後のものは買う価値無いです。

中根千枝先生の「社会人類学 アジア諸社会の考察」

中根千枝先生の「社会人類学 アジア諸社会の考察」を読了しました。昨年10月の先生の訃報を聞いてからしばらくして買い求め、読み始めたものです。ここの所半年くらい、6冊くらいの日本語の本をほぼ常に同時に読んでいるので、読了が遅くなりました。内容は家族の構造などの社会人類学の基礎概念の解説と、中国、インド、韓国、インドネシア、フィリピン、マレーシア、ネパール、シッキムなどの社会構造を、階層とか社会構造、人間ネットワークの観点で比較分析したものです。後者については先生も書いておられるように、まだ最初の試み、という感じがありますが、しかし社会学者が「社会」を研究対象にしながら、このような視野の広い比較による社会分析が十分出来ていないのに比べると、先生のこの研究のようなものの方が一歩先を行っていると思います。また現在文化人類学はサイードの「オリエンタリズム」におけるような欧州中心主義に対する批判とか、ポストモダン側からの極端な相対主義による批判にさらされ、かつての勢いを失っているようですが、日本を含むアジアの文化人類学者というのは、そういう批判の外にいて、独自の貢献が出来る可能性を持っているように思います。少なくとも私にとっては社会学と文化人類学は車の両輪のようなものです。

千葉一郎の「ちばあきおを憶えていますか」

千葉一郎の「ちばあきおを憶えていますか」を読了。著者はちばあきおのご長男です。ちばあきお、存命なら79歳ですが、1984年に41歳の若さで世を去ります。その死因を今まで知らなかったのですが、アルコール依存からの自殺だった、ということにショックを覚えました。また「プレイボール」のまだ本当にこれから、という所での唐突な終わり方も、本書を読んで、当時ちばあきおが仕事に追い詰められて書けなくなっての終了だということを知りました。また完璧主義者で、単行本になった状態の自分の絵に、さらにまた赤で修正を入れるのが常のことだったということです。また、元々兄であるちばてつやのアシスタントとして漫画家人生を始めたちばあきおですが、41歳で亡くなった時に連載中だった「チャンプ」をちばてつやが自分が引き継ごうかと考えたことがあるそうです。この場合原作は千葉兄弟の末弟の七三太朗ですから、絵さえ誰かが描けば続けられた訳です。しかし「チャンプ」の頃のちばあきおの絵は、ちばてつやですら既に真似をすることの出来ない独自のものになっていて断念したとのことです。この本の中のファンの言葉として、「ちばてつやの作品も素晴らしいけど、本当に影響を受けたのはちばあきおのキャプテンやプレイボール」という言葉は、そっくりそのまま私の感想でもあります。

手紙の作法続き-草々と早々


手紙の作法、追加。今は「前略」に対応する結びは「草々」になっていますが、元々は「早々」の方が多く使われていました。「取り急ぎ」という感じは「早々」の方が出ると思います。「草々」はどちらかと言えば「草々不一」の形で使われる方が多かったと思います。「草々」は走り書きで、「不一(ふいつ)」は言いたいことを尽くせず、という意味で、元々中国の奉書前後式という極めて煩雑な手紙の作法の最後で「不盡」とか書いていたのを日本人が真似するようになったのが「敬具」とか「不一」などの後文です。

「謹啓ー敬具」問題ー大正時代の手紙の書き方本の説明


芳賀矢一・杉谷代水合編「書翰文講話及び文範」(冨山房、大正2年初版の手紙の書き方と例文集で、当時の大ベストセラー)にて、手紙の前文(拝啓など)、と末文(敬具)などについて確認しました。
(1)そもそもこの手の「拝啓」「敬具」等は候文の手紙用であり、口語文の手紙では本来は付ける必要無し。
(2)江戸時代までは前文は「一筆啓上仕候」などと書いたが、明治になって簡略化されて2文字が多くなった。但し「頓首再拝」「恐惶謹言」などの4文字タイプも使われていた。
(3)拝啓の場合は敬具、謹啓の場合は謹言、といった前文と末文が呼応するといったことはまったく書いてない。
(4)「慶弔、感謝など儀式張った場合には同輩でも「謹言」「敬具」を用いてよい。」とあり、そもそも敬具も謹言も元はある意味堅苦しい上位者への手紙に使うものであり、またその2つとも慶弔の場合に用いて良いとあり、「謹言」が「敬具」より丁寧、ということも言っていない。
要は時間が経って候文が廃れていくと、その本来の書き方が分らなくなり、いつしか「謹啓の後は謹言で結ぶ」といったローカルルールを勝手に作り出す人が出てきて、それがあたかも正しい用法のように思われるようになっただけだと思います。または「格別のご高配」と同じで、本来目上にしか使わなかった「謹啓」が多用されるのは、ともかく丁寧に書けばOKという、敬意のエスカレーション現象かと思います。
(ちなみにジャストシステム時代に冨山房に電話し、この書籍の著作権について問い合わせたことがありますが{候文の例文集を作ろうとしていました}、口頭ですが「自由に使って良い」という返事でした。本当はどこかがこの本再版して欲しいんですが。復刊ドットコムに登録はしています。また、芳賀矢一、杉谷代水共に没後70年以上が過ぎており、著作権は失効しています。)それから、ローカルルールと言えば、封書の閉じる所には現在は「〆」(というよりメ)と書くと教わったと思いますが、これは元々女性用であり、男性は「緘」「糊」「封」などを使っていました。私は高校の時に漢文の先生に、「緘」と書けと教わりました。今でも一部の官公庁とか銀行などで、スタンプで「緘」を押したものを見ることがあります。