獅子文六の「おばあさん」

獅子文六の「おばあさん」を読了。昭和17年から19年の戦争の真っ最中に「主婦之友」に連載されたもの。タイトル通り明治生まれの「おばあさん」が主人公ですが、このおばあさんが69歳という設定にちょっと驚かされます。今なら老け込む年齢ではなく、この物語自体が成立しないのですが、当時は自然な設定だったのでしょう。このお婆さんを巡って、孫娘の結婚(養子縁組)、末の息子の自立と結婚、娘夫婦の家庭争議などを、このおばあさんが仕切って解決していくのですが、そのおばあさんの筋の通った行動が痛快です。昔の日本人の多くの人が持っていた自然な知恵という感じです。時節柄ということで、開戦をおばあさんが知るシーンがありますし、孫娘の結婚相手(養子縁組の相手)は結婚と同時に出征します。この結婚相手についてはおばあさんは最後まで「男らしさが足らない」と心配していたのですが、それがおばあさんの死の間際に解決されておばあさんは安心して死の旅に出ます。実際の自分の祖母のこととかを思い出してちょっとほろっと来る小説です。

イリーナ・メジューエワのリストの「巡礼の年 第3年」

イリーナ・メジューエワの弾くリストの「巡礼の年 第3年」を聴きました。メジューエワは好きなピアニストで波長が合うというのか、全てのCDで叙情性豊かでかつ繊細な演奏を繰り広げます。これが手持ちのメジューエワの16枚目のCDになります。リストの「巡礼の年」も好きな曲で、これまでホルヘ・ボレットやブレンデル、ベルマンで聴いています。この第3年の中では、「エステ荘の噴水」が有名です。リストは若い頃は、ピアノのヴィルトゥオーゾ性を誇示するような曲が多いですが、晩年に近づくにつれ、内省的・宗教的な曲が多くなります。この「巡礼の年 第3年」もその一つです。「ものみな涙あり」とか「心を高めよ」とか題名もいいです。

獅子文六の「信子」

獅子文六の「信子」を読了。「悦ちゃん」で人気作家になった文六が昭和13年から15年にかけて「主婦之友」に連載したもの。以前紹介した「胡椒息子」が「坊ちゃん」の設定をそのまま使っていましたが、この「信子」はさらにそのまんま女性主人公版の「坊ちゃん」です。解説によると、冒頭の汽車で上京するシーンは三四郎の影響もあるそうです。この小説の中では主人公が「胡椒息子」の映画を観て、自分と似ていると思うなんてシーンがあります。九州の大分(獅子文六の父の故郷です)から上京した小宮山信子が、教師として働き始めた女子校で、校長と校主-教頭の二派の間の争いにまきこまれるという展開で、ほぼそのまんま「坊ちゃん」です。違うのはその女子校の移転と校長の辞任を巡って生徒が騒ぎ出して大騒ぎになるという展開で、下村湖人の「次郎物語」の第五部あたりにもそんな展開があったような記憶があります。まあ時局柄とでも言うべきでしょうか。「胡椒息子」はあまり感心しませんでしたが、この「信子」も途中までは「坊ちゃん」の亜流振りが鼻についてあまり楽しめなかったのですが、後半の展開はなかなか良く、不覚にもちょっと涙してしまいました。「悦ちゃん」と同じくこの頃の文六の展開の巧さが光っています。ただ、大団円の話がちょっとデウス・エクス・マキーナ的ですが、まあ大衆小説というのはこういうものです。なお、NHKがこの「信子」と獅子文六の別の小説の「おばあさん」をくっつけて「信子とおばあちゃん」という昭和44年の朝の連続ドラマを作り、原作とまったく違う話になり獅子文六が憤慨していたみたいです。今年放映された「悦ちゃん」のTVドラマの台本もかなりひどかったですが、NHKは昔からそういうことをやっていたんですね。

SFの古典的名作について

SFの古典的名作を実はあまり読んでいなくて、アーサー・クラークの「幼年期の終わり」を読んだのは光文社から新訳が出たのがきっかけですし、フレドリック・ブラウンの「火星人ゴー・ホーム」と「発狂した宇宙」を読んだのはつい最近で、「デューン」に至っては先日です。それで思うんですけど、これらのSFの名作って、純粋SF的な科学的要素だけでなく、多くの場合何か別の要素がミックスされて作られているケースが多いような気がします。たとえば「幼年期の終わり」はイギリス人が大好きなオカルトとSFを混ぜ合わせたものです。(アーサー・クラークは超常現象大好き人間として知られています。)またフレドリック・ブラウンの「火星人ゴー・ホーム」は一見火星人というSF的な素材を使いながら、そこで論じられているのは哲学の唯我論(私が考える故に世界は存在する、という中二病的な考え方。)です。「デューン」もSFに色んな宗教的要素を混ぜ合わせたもののように思います。
別にそういうのが悪いとは言いませんが、私としてはジェームズ・パトリック・ホーガンの三部作の最初の作品である「星を継ぐもの」みたいな純SFが好きです。

NHK杯戦囲碁 山城宏9段 対 蘇耀国8段

本日のNHK杯戦の囲碁は黒番が山城宏9段、白番が蘇耀国8段の対戦です。勝った方が3回戦進出で井山裕太7冠王と対戦します。布石は4手目で白が左下隅を目外しに構えたのがちょっと珍しかったですが、蘇8段は研究済みの布石のようです。黒が左下隅に小目にかかったのに白は右下隅にかかり返しました。右下隅でツケヒキの定石となり白は先手で切り上げ、左下隅のハサミに回りました。この展開は蘇8段が良く研究しているようで、結局白が下辺と左辺の両方を打った形になり白が打ち回していました。ただ局後の感想で左辺を4間に開いたのが開きすぎで、後で黒に打ち込まれ局面が紛糾しました。黒は左辺打ち込みの後で左上隅にも手を付けていき結局劫になりました。劫争いの最中に白は下辺から左下隅に利かしていきましたが、ここで黒が受けを間違え、単にへこんで受けるべき所を余分なハネツギを打ってしまいました。このハネツギを打っても尚、左下隅には劫にする手があり、結局へこむ事になりました。それ以上に罪が大きかったのは中央の切断した白に下辺の白に渡ってつながる手が残ったことです。劫争いは結局白が勝ち、左上隅から左辺を大きく地にしました。黒の劫の代償は小さくここで形勢は白に大きく傾きました。黒は中央に尚眼のはっきりしない石を抱えていましたが、その石から中央の白にツケノビて、上辺と右辺のどちらかを大きく囲う手を見合いにしました。白は強く戦わず安全に打ったので、ここで黒はある程度盛り返しました。しかし白も上辺に手を付けそこで活きましたので、やはり形勢は白有利で、盤面でも白地が多い形勢でした。最後右辺に侵入した白からうまい寄せを打たれ、黒はおそらく投げ場を求めて抵抗しましたが上手くいかず、ここで黒の投了となりました。

尾崎秀樹の「大衆文芸地図 虚構の中にみる夢と真実」

尾崎秀樹の「大衆文芸地図 虚構の中にみる夢と真実」を読了。昭和44年に、数多くの大衆小説を復刊させた桃源社から出たもの。大衆小説作家19人を取り上げた作家論です。もちろん白井喬二は含まれていますが、何故か国枝史郎はありません。尾崎秀樹は白井喬二の葬儀の時に弔辞を述べていますが、その中で言及されている白井の戦後の作品は、短篇の「怪盗マノレスク」と「明治女学校図」だけです。私はこの選択にとても不満があります。白井の戦後の短篇の中でこの2作は大した作品ではありません。短篇の中から選ぶのなら、「坂田金時」「石川五右衛門」「助六」なんかの方が作品としてはずっと上です。それに「国を愛すされど女も」や「天海僧正」のような長篇作品もまったく無視されているのも不満です。そういう訳で私は尾崎秀樹が白井の戦後作品を短篇以外はほとんど読んでいなかったのではないかという疑いを持っていましたが、この本では「捕物にっぽん志」や「鳴滝日記」などの作品が紹介されていますから、まったく読んでいなかった訳ではないようです。
他には林不忘(長谷川海太郎、牧逸馬、谷譲次)についてはあまり情報を持っていなかったので、それを補足できて有用でした。

尾崎秀樹の「大衆文学」

尾崎秀樹(おざき・ほっき)の「大衆文学」を読了。1964年に紀伊國屋書店から出たもので、2007年の復刻版です。この人はゾルゲ事件の尾崎秀実の異母弟です。その関係の著作も複数あります。大衆文学の評論については、戦前は中谷博、戦後は尾崎秀樹がまず第一人者として挙げられると思います。この本では「大衆文学」が新講談→読物文芸→大衆文芸→大衆文学と次第に名前を変えていく過程が説明されていてなるほどと思いました。また、江戸時代の講談が明治での民権講談や社会講談へそして新講談から大衆文学へという説明もなるほどでした。また、巻末の文献表がかなり詳細で有用です。

クラウディオ・アバドの2回目のマーラー交響曲全集

クラウディオ・アバドの2回目のマーラー交響曲全集を聴きました。「全集」と書きましたが、最初から全集にする意図があったのではなく、ライブ録音を集めたものだと思います。オケもベルリンフィルだけではなく、ルツェルン祝祭管弦楽団が混じっています。この全集に収められている録音では既に4番や7番は持っているのですが、まとめて聴きたくて買いました。学生時代に最初にマーラーを聴きだした頃、アバドの最初の全集が進行中でした。私にとっては、マーラーの基準はこのアバドの最初の録音です。それはクレンペラー、ワルター、バーンスタインといったマーラー指揮者の第一世代とも言える指揮者のものとは明らかに一線を画していて、どろどろとした情念とは無縁のかなり知的なマーラーでした。今2回目の全集を聴いて、基本的なアプローチは1回目と変わってないように思いますが、より柔軟さが加わって表現も自在になったように思います。もうこれで10種類以上のマーラーの交響曲全集を所有していて、今はマイケル・ティルソン・トーマスのがお気に入りですが、やっぱりアバドのも好きです。

フランク・ハーバートの「デューン 砂の惑星」(下)

フランク・ハーバートの「デューン 砂の惑星」(下)を読了。2/3くらいまで読んで、「後1/3でどんなことが起こるのだろう」とわくわくして待っていたら、実は物語は既に終わっていて、残りの1/3は用語集とかのオマケでした…残念ながらEigoxの先生が言っていた「どんでん返し」は私には不発でした。また、本文で十分に説明仕切れなかったことを、オマケで解説するのは小説としてのルールに反しているように思います。
この作品は作品世界の構築という点ではこの上もなく見事だと思いますが、ストーリーテリングに関しては結構課題の多い作品のように思います。白井喬二の「富士に立つ影」との対比で言うと、アトレイデス家とハルコンネン家が対立して、視点は常にアトレイデス家の方からで、一方的にハルコンネン家が悪役として書かれます。しかし(上)の終わりで、実はレベッカとポールがハルコンネン家の血を引いていることも描かれ、この先二つの家の対立が結局どう終結するのか興味をもって読み進めました。しかし残念ながら最後までハルコンネン家は悪役のままで、ハルコンネン男爵は自分の孫娘であるアリアにあっさり殺されます。アリアはその殺害に何の葛藤も持ちません。この点は「富士に立つ影」の方がはるかに優れていて、熊木家と佐藤家の両方の視点から物語が描かれ、初代での悪役と良役は二代目で逆転し、あまつさえ二代目で双方の息子と娘が恋仲になって子供を孕むという複雑な展開になります。
また、この「デューン」では色々な宗教、キリスト教、イスラム教、仏教、儒教までが登場するのですが、そのほとんどはキリスト教視点という感じがしました。後、エヴァンゲリオンの「人類補完計画」はこの作品でのベネ・ゲセリットの人類血統改良計画のパクリなのだなと思いました。各聖典を統一するという話がオマケに出てきますが、実際の所は、キリスト教の中で聖書の翻訳を統一しようとする試み(エキュメニズムというキリスト教統一運動の中から出てきたもの)ですらなかなかうまくいかなくて、強行にそれに反対する一派がいるくらいです。(昔J社で「キリスト教用語」の辞書を作ったことがありますが、その時に人名の固有名詞には新共同訳のを使ったんですが、それに対して文句を言ってきた福音主義派の牧師さんがいました。)
デューンは作者自身が書いたのは後5作あるんですが、続けて読むかどうかはちょっと考えます。

フランク・ハーバートの「デューン 砂の惑星」(中)

フランク・ハーバートの「デューン 砂の惑星」の中巻を読了。この巻では砂漠の中に逃げ込んだポールとレベッカの親子が砂漠の民のフレメンと合流して一緒に暮らし始めます。ポールがフレメンから名前を与えられたシーンで、「これでおまえは、イフワーン・ベドウィー --- われらの兄弟となった」というセリフが出てきます。鈍感な私も、ここでやっとフレメンのモデルが実在の砂漠の民ベドウィンであることに気がつきました。(「ベドウィー」はアラビア語で、「ベドウィン」の元になっている単語。「イフワーン」はアラビア語で「同胞」の意味。)またこの作品が出版されたのは1965年ですが、1962年に公開されたデイヴィッド・リーンのあまりにも有名な映画「アラビアのロレンス」の影響も感じました。ついでに言うと、ハルコンネン男爵の名前は「ウラジーミル」でこれにはソ連のイメージが若干投影されているのかも。Eigoxの先生によると、作者は作家になる前はジャーナリストで中東に興味を持って色々調べていたとのことです。しかし、「聖戦 ジハード」という言葉もそのまま登場するので、どうしてもISISとかを想像してしまいます。Wikipediaによると、この小説はすぐに読者に受け入れられた訳ではなく、いくつもの出版社に出版を断られた後にようやく陽の目を見た作品のようですが、もしこの作品が「今の」アメリカで出版されていたら、更に困難があったのではないかと想像します。中巻はポールとリエト・カインズの娘のチェイニーが愛し合うようになる場面で終わります。Eigoxの先生によれば最終巻でまた大きなどんでん返しがあるとのことですので、期待しながら続きを読みます。