今、フランスの歴史家のイヴァン・ジャブロンカが書いた「歴史は現代文学である」を読んでいます。この本は歴史を科学的に扱おうとして19世紀以降歴史と文学が切り離された物を、もう一度結びつけようとする試みでなかなか興味深いです。
それでちょっと思いついたのですが、社会学で「理念型」(ドイツ語でIdealtypus)という方法論みたいなのがあります。歴史の現象を解釈する上で、観念的に作り出された一種の純粋型のことです。昔は「理想型」と訳されていましたが、「理想」というと価値判断が伴っているようですし、また「売春宿」のIdealtypusもあり得るということで、ニュートラルな「理念型」という訳に落ち着いています。
で思ったのが、この「理念型」の元は、文学における「フラット・キャラクター」(平面的キャラクター)じゃないのかということです。この「フラット・キャラクター」はE.M.フォースターの造語で、対照にされるのは「ラウンド・キャラクター」(立体的キャラクター)です。フラット・キャラクターは、フォースターはディケンズの小説の登場人物はほとんどそうだとしていますが、ある類型的な性格や社会的地位をもっていて常に読者が期待するような行動をする人のことです。(ラウンド・キャラクターはそれとは違い、性格などが次第に変化して深まっていくようなタイプのキャラクターです。)例えば「クリスマス・キャロル」の(改心する前の)スクルージ爺さん、「ディヴィッド・コパフィールド」の悪役のユライア・ヒープ(ロックバンドのユーライア・ヒープはこの名前を借りたものです)なんかが、まさしくフラット・キャラクターです。
マックス・ヴェーバーは有名な「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の中で、「資本主義の精神」を読者にわかってもらうための「理念型」としてベンジャミン・フランクリンを使います。しかし、それは実在のフランクリンというより、キュルンベルガーという作家の書いた「アメリカにうんざりした男」という詩人レーナウのアメリカ体験を元にした小説に登場する「カリカチュア化したフランクリン」であり、まさしくフラット・キャラクターそのものです。
もちろん、「理念型」は人間だけに使うものではないのですが、少なくとも小説におけるフラット・キャラクターの使用の方が社会科学よりはるかに先なんではないかと。
理念型とフラット・キャラクター
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