理念型とフラット・キャラクター

今、フランスの歴史家のイヴァン・ジャブロンカが書いた「歴史は現代文学である」を読んでいます。この本は歴史を科学的に扱おうとして19世紀以降歴史と文学が切り離された物を、もう一度結びつけようとする試みでなかなか興味深いです。
それでちょっと思いついたのですが、社会学で「理念型」(ドイツ語でIdealtypus)という方法論みたいなのがあります。歴史の現象を解釈する上で、観念的に作り出された一種の純粋型のことです。昔は「理想型」と訳されていましたが、「理想」というと価値判断が伴っているようですし、また「売春宿」のIdealtypusもあり得るということで、ニュートラルな「理念型」という訳に落ち着いています。
で思ったのが、この「理念型」の元は、文学における「フラット・キャラクター」(平面的キャラクター)じゃないのかということです。この「フラット・キャラクター」はE.M.フォースターの造語で、対照にされるのは「ラウンド・キャラクター」(立体的キャラクター)です。フラット・キャラクターは、フォースターはディケンズの小説の登場人物はほとんどそうだとしていますが、ある類型的な性格や社会的地位をもっていて常に読者が期待するような行動をする人のことです。(ラウンド・キャラクターはそれとは違い、性格などが次第に変化して深まっていくようなタイプのキャラクターです。)例えば「クリスマス・キャロル」の(改心する前の)スクルージ爺さん、「ディヴィッド・コパフィールド」の悪役のユライア・ヒープ(ロックバンドのユーライア・ヒープはこの名前を借りたものです)なんかが、まさしくフラット・キャラクターです。
マックス・ヴェーバーは有名な「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の中で、「資本主義の精神」を読者にわかってもらうための「理念型」としてベンジャミン・フランクリンを使います。しかし、それは実在のフランクリンというより、キュルンベルガーという作家の書いた「アメリカにうんざりした男」という詩人レーナウのアメリカ体験を元にした小説に登場する「カリカチュア化したフランクリン」であり、まさしくフラット・キャラクターそのものです。
もちろん、「理念型」は人間だけに使うものではないのですが、少なくとも小説におけるフラット・キャラクターの使用の方が社会科学よりはるかに先なんではないかと。

NHK杯戦囲碁 三村智保9段 対 呉柏毅4段

本日のNHK杯戦の囲碁は、黒番が三村智保9段、白番が呉柏毅4段の対戦です。呉4段はNHK杯戦2回目です。布石は比較的オーソドックスですが、白が右下隅でコスミツケられてかけた後、手を抜いたのがちょっと珍しいかと思います。しかしその後はどちらかと言うと白が手厚く打ち、黒が走って、という状況になりました。ポイントとなったのは、白が左辺の黒を攻め、黒への出切りを狙ったシチョウアタリを兼ねて上辺から右上隅の黒にからんでいった所で、白はうまく利かせて中央を厚くしました。それから白は左辺の黒に襲いかかり、眼を取る手を打ちましたが、黒がタケフでつながるのではなく、空き三角の愚形ですが、白のダメを詰めて受けたのが好手で、白は中央の黒を切り離して左辺の黒を封鎖しましたが、黒はまず左下隅に飛び込んで一眼を確保し、さらに先ほどダメを詰めた効果で、白に当たりをしてもう一眼持つ手が出来たので、先手で生きることが出来ました。こうなると白の攻めは空振りで、実利で先行した黒がリードしました。白は厚みを生かして中央にどれだけ地をまとめるかが勝負でしたが、黒は巧みに上辺の白の薄みを突いて中央に進出し、大きな地を作らせませんでした。それでも白は厚みを生かして寄りつき、また右上隅で劫に勝って黒地を削りましたが、右下隅の黒地への侵入がやや中途半端に終わり、黒のリードは変わりませんでした。最後、右上隅で黒が白2子を取り込み、ここで黒の中押し勝ちとなりました。