ヴェーバーの「中世合名会社史」の日本語訳の第30回目を公開

ヴェーバーの「中世合名会社史」の日本語訳の第30回目を公開しました。この所いいペースで現時点での(最終校正前の一応の)完了予想は2020年11月10日です。一時はこの予想が2021年1月2日まで遅れていましたがかなり挽回しました。
ここでは新たにcapitaneusという英語のcaptainの語源となった単語が新たに登場します。ソキエタス・マリスで全体の貿易ビジネスの総責任者という意味です。

今度は厚労省のおかしな通達

厚労省がこんな通達を出していいんでしょうか?
界面活性剤を含む洗剤が新型コロナウイルスの不活化には有効であっても、例えば親水型ウイルス等にはほとんど効果が無いと思いますが。大体、病院ならピューラックッスやミルトンなどの医療用次亜塩素酸ナトリウムを備え付けている筈で、それらを差し置いて洗剤を使う意味は無いと思います。この洗剤がコロナウイルスに有効は家庭向け情報だった筈です。私だったら、アルコールを切らして洗剤で拭いている病院があったとしたら即行くのを止めます。(そもそも政府がきちんと病院向けの消毒用エタノールの確保と供給に色々としくじりをやったのを棚に上げて、こんな馬鹿げた通達を出す神経が分りません。)
=============(以下引用)========================
第2.1版では、独立行政法人製品評価技術基盤機構(NITE)が新型コロナウイルスに対して有効と報告した界面活性剤として、▽直鎖アルキルベンゼンスルホン酸ナトリウム(0.1%以上)▽アルキルグリコシド(0.1%以上)▽アルキルアミンオキシド(0.05%以上)▽塩化ベンザルコニウム(0.05%以上)▽ポリオキシエチレンアルキルエーテル(0.2%以上)-を取り上げ、「日常の環境整備でアルコール等の消毒薬が不足した状況においては、医療機関でも導入の参考になると思われる」としている。
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https://news.yahoo.co.jp/articles/13d53c8a221e551aca1a6eeb812d1eecce5e0a58

キッチンハイター最強説

「次亜塩素酸水」についての本を読んで思ったんですが、実はアルコール以外の家庭での消毒剤ではキッチンハイターが最強ではないかと思うようになりました。ポイントはキッチンハイターには次亜塩素酸ナトリウム以外に界面活性剤が入っていることです。

(1)消毒しようとする対象に汚れがある場合は、次亜塩素酸の酸化による殺菌力がその汚れを分解するのに使われ、殺菌力が低下する。
(2)消毒しようとする対象物が油を含んでいる場合などで濡れ性が悪い場合、水をはじくので、次亜塩素酸ナトリウム中の次亜塩素酸が十分対象物に触れず殺菌力が低下する。

界面活性剤の添加は上記の(1)と(2)を同時に解決します。ただ、界面活性剤で汚れが分解したり、また表面張力が小さくなって濡れ性が向上し、対象物が十分濡れるまで、若干の時間が必要です。キッチンハイターで布巾等を消毒する際に3分ぐらい漬けっぱなしにしろ、と指示してあるのはそういうことなんでしょうね。なお、キッチンハイターの洗浄力は水3Lにキャップ1.2杯(30ml)くらいでも十分泡立ちますのでそれなりにあると思います。

ちなみに次亜塩素酸水ですが、次亜塩素酸がイオン(OCL-)ではなくそのもの(HCLO)の状態で多く含まれているので次亜塩素酸ナトリウム希釈液より殺菌効率は高い(次亜塩素酸塩のイオンは細菌の細胞膜への浸透性が弱いですが、次亜塩素酸塩そのものは強いということです)ですが、それを当てにして低い濃度のものを使った場合、同一の量で含まれている自由塩素原子の絶対量は当然少なくなります。なので汚れがある場合などは、貴重な塩素が汚れで不活化し、十分な殺菌効果を発揮出来ない可能性があります。

まあ注意点としては、もしかすると界面活性剤を入れることによるマイナス点もあるのかもしれませんがそこまでは調べ切れていません。また前に書いたように普通に店で売っているキッチンハイターが工場出荷時の濃度である6%を維持しているとは限りませんので、その点は気にしておく必要があります。要はあまり長く保管したものではなく、小さな容器のものを買って使い切るサイクルを上げた方がいいということです。また品物の回転の悪い店のものは買わない方が無難です。

山本嘉次郎監督の「ハワイ・マレー沖海戦」

山本嘉次郎監督の「ハワイ・マレー沖海戦」を観ました。これはいつかは観ようと思っていたものですが、直接のきっかけはまたも古関裕而で、YouTubeの「英国東洋艦隊潰滅」の動画のバックがこの映画ではないかとあたりをつけたから。それは正解でしたが、100%ではなく更に別の映画も混じっているようです。
この映画は最初は「真珠湾攻撃」だけの映画として企画されたのを海軍省の希望でマレー沖海戦も追加された物です。半分くらいまではある飛行士志望の若者が予科練で鍛えられる話です。この映画が正しいとすると、空母からの発着が出来る一人前の飛行士を育てるのは4~5年くらいかかっていたようです。開戦当時のこれらのパイロットの練度は世界にも誇れるもので、それがあってこそ、真珠湾攻撃もマレー沖海戦の勝利もあったのだと思います。そしてその優秀なパイロットのほとんどを失ったのがミッドウェー海戦ということになります。
主演は大河内傳次郎とか、姿三四郎の藤田進とか、そして主人公の飛行士の姉として原節子が出ています。この頃の原節子は演技は評価されていなかったと思いますが、そんな感じの演技です。
小林信彦はこの映画を封切り時に観ており、特撮の技術に感嘆したと書いています。その特撮担当が円谷英二です。ただ子供の頃ウルトラマンシリーズで育ったものとしては、この程度の特撮は当たり前感がありますし、敵の飛行場の建物が破壊されるシーンはかなりデジャビュ感がありました。
マレー沖海戦の分は、何か取って付けたという感じですね。でもその時の大本営発表が聞けたのは収穫で「英国東洋艦隊潰滅」の歌詞はその発表をかなりそのまま使っているのが分りました。次は「雷撃隊出動」も観る予定です。これも主題歌が古関裕而です。

ヴェーバーの「中世合名会社史」の日本語訳の第29回目を公開

ヴェーバーの「中世合名会社史」の日本語訳の第29回目を公開しました。今回から第4章に入り、12世紀のピサでの慣習法の集成であるConstitutum Ususにおいて、連帯責任の原理の発展を確かめるという内容になります.
最近、翻訳の進捗は好調で、ヴェーバー没後100年の今年中に何とか完成出来そうです。

「古関裕而作品集」(楽譜)/ 「鳴門しぶき」

「古関裕而作品集」(楽譜)を入手。Amazonのマーケットプレイスで古書で1万円もしましたが、これは良かった!コロンビアの7枚組のCDの全集が139曲ですが、これは189曲収録していて、CDなどの音源が出ていないものも多数あります。総譜ではもちろん無いですが、オリンピック・マーチやスポーツショー行進曲も入っています。
それで1曲、古関裕而記念館の作曲リストにも無い、何と徳島のご当地ソングを発見しました。「鳴門しぶき」というタイトルで、作詞が高橋掬太郎、作曲が古関裕而、歌が音丸でこれは明らかに「船頭可愛や」の2匹目のドジョウを狙ったものだと思います。歌詞にも「可愛い船頭衆」が入っています。この本では昭和5年となっていますが、昭和11~12年の間違いでしょう。(その後確認してネット上の情報では昭和13年でした。)徳島のご当地ソングではもう1曲昭和11年に「鳴門くもれば」(作詞:高橋掬太郎、歌:伊藤久男)というのもあるみたいです。(伊藤久男のCDに入っています。)おそらく古関と高橋がこの頃徳島に旅行したんじゃないかと思います。(この二人の最初のヒット曲「利根の舟唄」は二人で茨城の水郷地帯に旅した結果生まれたものです。その後も同じパターンで作品を作ろうとしたというのは十分考えられます。)
この楽譜でCDなどの音源が発売されていないものは、そのうち楽譜を読み取って自動的に演奏してくれるソフトで、MP3などにしようかと思います。(→しました。こんな曲でした。後半のサビの部分は「船頭可愛や」よりもさらに難度が上がっています。でもなかなかいい曲です。)

 

NHK杯戦囲碁 清成哲也9段 対 謝依旻6段


本日のNHK杯戦の囲碁は黒番が清成哲也9段、白番が謝依旻6段の対戦です。この二人の碁にしては激しい戦いが無く、唯一右下隅での折衝で中央で黒がポン抜き、代償で白が右下隅の黒を切り離して封鎖するというのがありました。しかしこの黒は活きており、そうなるとポン抜きの分だけ黒がリードしている感じでした。しかし白はこのポン抜いた黒4子を上手く攻め、上辺に50目に近い大きな地を作ることに成功しました。その後ヨセでも白が上手く立ち回り、細かいながら白勝ちと思われた終盤で、黒の下辺左での飛びワリコミという勝負手が出ました。白は強く上から受けましたがこれには白の見落としがあったようで、結局劫になりました。この劫に白が負けると下辺の白地はほぼ無くなって逆に黒地が付きます。しかし黒の劫立ては上辺にほぼ無数にあり、結局白は劫を解消しましたが、代償に白の一等地の上辺を大きく荒らされてしまいました。これで白の投了となりました。清成9段の勝負を最後まで諦めない粘りと踏み込みが見事でした。

古関裕而の「船頭可愛や」

今度は古関裕而の最初の大ヒット曲、「船頭可愛や」の楽譜を入手しました。うーん、これはかなりの難曲です。相当の歌唱力が無いと歌いこなせないと思います。西洋音楽でいうメリスマ唱法、日本でいう「こぶし」で母音を引き延ばしています。ただ、日本的なこぶしというより、西洋音楽的なトリルやターンが使われていて、そこが不思議なハイブリッド感を出しています。三浦環がこの曲を録音していますが、三浦環はまるきり西洋音楽としていわゆるコロラトゥーラ風に歌っています。またこぶしの女王、都はるみも歌っていますが、彼女は日本風とか西洋風どちらでもなく、自分なりに「はるみ節」として消化して歌っていてそこが素晴らしいです。これに対して完全に日本の民謡として歌っているのが三橋美智也。この楽譜の部分もまったく危なげなくさらりと歌っていて、元々民謡からスタートしている実力を十分に示しています。
ファとシが出て来ないということが、これがいわゆるヨナ抜きの5音音階なんでしょうね。リズム的にはエンヤートットとかドンブラコッコという感じでこれも伝統的なものです。しかし聞いていると必ずしも完全に民謡調でも無いように思います。古関裕而は最初はこの歌詞で西洋音楽的な曲を書こうとしましたが、ディレクターに説得されて民謡調に変え、それが結果的に成功します。ただ、一回聴いてすぐわっと好きになる曲ではなく、何度も聴いている味が出て来るという、古関の曲にありがちなパターンの典型です。この曲も8月くらいに発売されて年末ぐらいから人気が出てきたみたいです。現在だったらもう次の曲に移るようなタイミングですね。

古関裕而の「紺碧の空」私なりの分析

古関裕而についての本は多数出ていますが、どの本もきちんと古関裕而の音楽を論じていないのが不満です。古関裕而は作曲家なのに。なので素人なりにであっても気付いたことを少しずつまとめて行きたいと思います。まずは古関裕而の最初の成功作である「紺碧の空」。

(1)まずすぐ気がつくのは前奏の素晴らしさ。大体素人が応援歌を作曲すると、単に主旋律だけとかになりがちです。また戦前のコロムビアの専属作曲家の中で、前奏まで自分で作曲していたのは古関だけみたいで、普通はそれは編曲家の仕事でした。古関の前奏は大体において見事で、例えば戦前の最大のヒットになった「露営の歌」の前奏は、別の歌詞が付けられて「さくら進軍」という名前で別のレコードになっているくらいです。
応援歌における前奏の役割は、歌い出しに向けて気分を高めるのと同時に、メロディーの一部をあらかじめ聞かせて歌う人にメロディーを思い出させるというのがありますが、この「紺碧の空」の前奏は見事に両方を満たしています。また応援歌の歌は基本がユニゾンでハモったりはしないのが普通ですが、その単調さを古関の伴奏が見事にカバーしています。
(2)調性がト長調というのも面白いですね。日本で校歌や社歌ではヘ長調が圧倒的に多いのですが、山田耕筰の校歌は高校以上向けはト長調が多いそうで、もしかするとその影響かもしれません。
(3)冒頭の部分がシューベルトの「ザグレート」の出だしに似ているという意見には既に論評したので省略します。私に言わせれば歌うものに希望を持たせるような上昇音型の繰り返しで始まっていると言えると思います。
(4)途中はダレ勝ちですが、そこを「すーぐーりーしせーいえーい とーしーはもーえーて」と、アクセント付き音符を3回重ねた後、母音を延ばしながら8分音符4つで下降音型を入れて、非常に上手く変化を付けていると思います。
(5)サビの所。西条八十が「覇者、覇者」が難しいだろうと言ったそうですが、確かにハ音は力強さに欠けますし、また「はしゃ」は音節として2.5音で短か過ぎます。これを「はーしゃはーしゃ」と長音を入れることで解決し、旋律的には「ソーファミーレラシド」という下降音型+上昇音型で主音に戻るというありがちな音型ですがこの歌詞にぴったり合った旋律で処理したのは見事と思います。

辻田真佐憲の「古関裕而の昭和史 国民を背負った作曲家」

辻田真佐憲(ちなみに辻は書籍上は一点しんにょう)の「古関裕而の昭和史 国民を背負った作曲家」を読了。これで自伝とムック本を含めて古関裕而に関する本は4冊目。この本で良いのは、戦前の古関裕而の作曲したレコードの実際の枚数を新しい資料を発見してかなりの所まで突き止めている所です。しかし、その他は既に自伝を読んでいるので、7割方自伝にあった話の焼き直しです。その際にきちんと引用部と自分が書き加えたり修正した所を明示してくれればいいのですが、境界がまったくはっきりしません。「昭和史」と題してる書物としてはそこがマイナス。イヴァン・ジャブロンカが主張しているように、歴史と物語は決して相反するものではないので、そこで手抜きをして欲しくなかったです。後は古関裕而は作曲家なのに、外面的事実ばかりで、その音楽に対する分析がほとんどないことが不満です。例えば「オリンピック・マーチ」の最後の君が代の引用について、刑部芳則氏はそれが既に戦争中の「皇軍の戦果輝く」でも使われていることを指摘しています。それに対し辻田氏のは単に古関裕而自身の「日本的な旋律をという要求に対してこれを思いついた」を引用しているだけ。
この人に限りませんが、古関の音楽が同時代の古賀政男や服部良一とどこが違うのか、具体的に分析してくれるような本が読みたいです。例えば「船頭可愛や」でも民謡調だけど、単なる民謡調に終わっていません。