古今亭志ん朝の「お化け長屋、子別れ/下」

jpeg000 120今日の落語、志ん朝の「お化け長屋、子別れ/下」。
お化け長屋は大家に意地悪された店子が、偽の幽霊話をでっち上げて部屋を借りに来た客を追い返すが、一番目の客はうまくいったけれど、二番目の客は脅かしても平気で勝手が違って…というお噺。
「子別れ/下」は、圓生と志ん朝、甲乙付け難いですね。このお噺は笑いながら涙が出る、人情噺の傑作と思います。特に子供の亀が遊び相手の男の子によって、顔にコマをぶつけられて怪我をしたのを母親が知って、怪我させた相手を問い詰めますが、それがいつも縫い物の仕事をもらっている家の子供とわかって我慢するように言うところはわかっていても泣けます。

片山杜秀の「近代日本の右翼思想」

jpeg000 108片山杜秀の本、今度は「近代日本の右翼思想」を取り寄せて読んでみました。この本は片山杜秀の卒論や修論がベースになっているみたいです。
片山は左翼を、過去にも現在にも存在していない理想を未来で実現させようとしてそれに走る者、と定義します。左翼の反対側が右翼ですが、それには保守と反動があって、保守は現在を重視し、反動は過去に戻ろうとします。日本の場合は、戻るべき過去は天皇制ですが、戦前は現在を見ても天皇が現前と存在しています。そこで右翼は現状を変革しようとしても、ある種の腰砕けに終わってしまい、現状を変革する試みはすべて失敗に終わります。どうせうまく世の中を変えられないのなら、やがてあきらめて自分の手で変えるのではなく、天皇がいつか変えてくれるのだという錦の御旗の革命論になります。(これが安岡正篤。片山は安岡正篤研究の専門家です。)さらに一歩進めて変えることを諦めると、現在をありのまま肯定するという気持ちになり、「中今」という考え方が生まれます。現状を肯定するようになると、頭で何か考えることは不要になり、身体論が叫ばれるようになります。という風に1945年8月までの戦前の右翼思想の流れを総括します。結局何も考えないでアメリカとの戦争に突入した背景が右翼思想の点から明らかになります。そうした過程で、西田幾太郎や阿部次郎や長谷川如是閑のような、一般には右翼とは思われていない人の思想が、こうした右翼思想の変遷に与えた影響を考察しているのが目新しいです。
一方、欠けている視点は「大アジア主義」的な見方でしょう。頭山満が孫文を支援したり、戦前の右翼には日本を超えてアジア全体のレベルで考えることが行われていましたが、この本ではそのあたりはまったく取り上げられていないですね。