小林信彦の「イエスタデイ・ワンス・モア」を再読。1989年に出版された作品です。ある高校生が1959年の東京にタイムスリップする話です。この1959年は小林信彦にとっては特別な年で、江戸川乱歩に見いだされ、宝石社のヒッチコックマガジンの編集長になった年です。「夢の砦」がその時の経験を描いていますが、「夢の砦」では1961年に舞台が移されています。その理由は、1959年を舞台にすると、59年から60年での安保闘争を描かざるを得ないからと作者が説明しています。「イエスタデイ・ワンス・モア」ではその安保闘争に主人公が参加するシーンがあります。
1959年時点では、東京にはまだ高速道路もなく、高層ビルもありませんでしたが、そうした東京の風景と当時の風俗が生き生きと描写されています。主人公が1959年に来て放送作家で生計を立てる、というのはちょっとまたか、という感じもしますけど。
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古今亭志ん朝の「お化け長屋、子別れ/下」
片山杜秀の「近代日本の右翼思想」
片山杜秀の本、今度は「近代日本の右翼思想」を取り寄せて読んでみました。この本は片山杜秀の卒論や修論がベースになっているみたいです。
片山は左翼を、過去にも現在にも存在していない理想を未来で実現させようとしてそれに走る者、と定義します。左翼の反対側が右翼ですが、それには保守と反動があって、保守は現在を重視し、反動は過去に戻ろうとします。日本の場合は、戻るべき過去は天皇制ですが、戦前は現在を見ても天皇が現前と存在しています。そこで右翼は現状を変革しようとしても、ある種の腰砕けに終わってしまい、現状を変革する試みはすべて失敗に終わります。どうせうまく世の中を変えられないのなら、やがてあきらめて自分の手で変えるのではなく、天皇がいつか変えてくれるのだという錦の御旗の革命論になります。(これが安岡正篤。片山は安岡正篤研究の専門家です。)さらに一歩進めて変えることを諦めると、現在をありのまま肯定するという気持ちになり、「中今」という考え方が生まれます。現状を肯定するようになると、頭で何か考えることは不要になり、身体論が叫ばれるようになります。という風に1945年8月までの戦前の右翼思想の流れを総括します。結局何も考えないでアメリカとの戦争に突入した背景が右翼思想の点から明らかになります。そうした過程で、西田幾太郎や阿部次郎や長谷川如是閑のような、一般には右翼とは思われていない人の思想が、こうした右翼思想の変遷に与えた影響を考察しているのが目新しいです。
一方、欠けている視点は「大アジア主義」的な見方でしょう。頭山満が孫文を支援したり、戦前の右翼には日本を超えてアジア全体のレベルで考えることが行われていましたが、この本ではそのあたりはまったく取り上げられていないですね。
宗像教授の間違い
この漫画は、星野之宣の「宗像教授異考録」の「虫めづる姫君」の中の一場面です。(単行本に収録されたものではなく、雑誌ビッグコミック連載時の場面。)どこがおかしいかおわかりになりますか?
ここで描かれているのは説明と違ってアゲハチョウの幼虫ではありません。キアゲハの幼虫です。キアゲハの幼虫は、パセリ、ニンジンの葉、セリなどを食べ、ミカンの葉の上にはいません。昭和三十・四十年代の小学生にはほとんど常識だったことで、初歩的な誤りです。(キアゲハの幼虫の写真は、ここをどうぞ。)
三遊亭圓生の「子別れ 上/中/下」
今日の落語、三遊亭圓生の「子別れ 上/中/下」です。
志ん朝の「お化け長屋、子別れ 下」を先に買ったのですが、「子別れ」の下だけを聴くのもなにかと思って、この圓生の全部揃ったのを別に買い、先に聴きました。(「子別れ」は普通は下だけが演じられ、上/中/下を通して演じられることはほとんどありません。)この「子別れ」の上/中だけを聴くと、主人公の大工の熊さんはとても嫌な奴で、笑える所がほとんどありません。特に酔っ払って悪態をつく所は、圓生のとてもうまい語りを通して嫌な男ぶりが目立ちます。この嫌な熊さんが、下になると、心を入れ替えて、酒を止めて仕事に励み、豹変します。上/中から続けて聴くと、その対照が鮮やかです。それで自分の子供の亀にある日ばったり出くわして、子供を鎹(かすがい)にして、別れた夫婦が元の鞘に収まるという人情噺の傑作です。笑うというより泣ける噺です。
小林信彦の「紳士同盟」「紳士同盟ふたたび」
小林信彦の「紳士同盟」と「紳士同盟ふたたび」を再読了。「紳士同盟」が1980年、「紳士同盟ふたたび」が1984年に出版されたもので、どちらも週刊サンケイ(現在の週刊SPA!)に連載されたものです。小林信彦の作品としては結構部数が出たようで、「紳士同盟」の方は、薬師丸ひろ子主演で映画にもなっています。(薬師丸ひろ子が歌う主題歌を今でも記憶しています。)ただし、映画のストーリーは原作とはほとんど無関係です。
おそらく、映画の「スティング」の影響で、日本で初めての「コン・ゲーム」(詐欺ゲーム)小説です。ジェフリー・アーチャーの「百万ドルをとり返せ!」の影響もあるかもしれません。パズラーと呼ばれる謎解きのミステリーが、ほとんどあらゆるパターンが出尽くして手詰まり感があったのに対し、コン・ゲーム小説は新しい可能性を開いたといえると思います。
出てくるコン・ゲームの内容について不満があるのは、小林信彦が得意なTV局関係と映画マニア関係に偏っていることです。この2つに関係ないのは一番最初の銀行を騙す話と、「ふたたび」の方の最後の話での絵画を使った詐欺だけです。また、騙される側として、資産家の医者である宮田老人というのがルーティーンで何度も登場しますが、実際のコン・ゲームでは同じ相手というのはタブーなんではないかと思います。
古今亭志ん生の「文七元結、藁人形、千早振る」
片山杜秀の「未完のファシズム」
片山杜秀の「未完のファシズム」を読了。第二次世界大戦(大東亜戦争)での日本軍の神がかった精神主義、玉砕主義がどこから来たかを明らかにしようとする労作。従来、戦前の日本軍については、日露戦争の栄光→大東亜戦争の悲惨、という流れで語られるのがほとんどだったのを、その2つの戦いの間に起こった第1次世界大戦の重要性を提起しています。第1次世界大戦で「総力戦」の思想が生まれ、それがある意味傍観者の立場で第1次世界大戦を研究していた「持たざる国」の日本陸軍の各人にどのような影響を及ぼしたかを考察しています。
(1)小畑敏四郎
「持たざる国」として、戦いにおいては奇襲・側面攻撃を重視した「殲滅戦」を主張。一方で「持てる国」との戦いは回避するという思想。しかしながら小畑を含む皇道派は二・二六事件で粛正され国の方針に対する影響力を失う一方で、この「殲滅戦」の思想だけが1928年に改訂された「統帥綱領」に反映され、これが大東亜戦争時にまで改訂されず持ち越され「持てる国」である米国相手の戦いに適用されてしまう。
(2)石原莞爾
「持たざる国」を「持てる国」に変えて、それから最終戦争を行って勝てばよいという思想。しかし、石原が想定した最終戦争の始まりは早くても数十年後だったが、実際には1941年に対米戦争に突入。また石原が首謀した満州事変は、軍部だけの独走を既成事実化し、日本全体での意思統一をできなくした。
(3)中柴末純
「持たざる国」が「持てる国」に対抗するには、精神力で足らない部分を補うしかないと主張。戦陣訓を執筆し、玉砕を相手に恐怖心を与え戦争を早めに終結させるものと美化した張本人。
(4)酒井縞次
「持たざる国」が戦争に勝つには、航空部隊や戦車部隊を使って、速戦即決で勝つしかないと主張。海軍の山本五十六に近い考え方。実際に日中戦争で機械化部隊を率いて参戦するが、機械化部隊は歩兵の支援でしかないと考える当時の陸軍の元で分散運用され十分な戦果をあげられず、結局予備役にされる。
題名の「未完のファシズム」は、持たざる国が戦争に勝ち抜くためにはいずれの方向に行くにせよ、国全体を一つにして強力に国策を進めていくことが必要だったが、明治期に作られた国家体制は全体に分権的でそういう一元的な仕組みが欠けていたと主張しています。
古今亭志ん朝の「真田小僧、駒長」
小林信彦の「背中合わせのハート・ブレイク」
小林信彦の「背中合わせのハート・ブレイク」を再読。1988年の作品で、単行本発売時には「世間知らず」というタイトルでしたが、作者が後に「世間知らず」という言葉が死語になっていることに気がついて、文庫本になる時に現在のタイトルに変えられました。私は、このため文庫本が出た時に新刊かと思って間違って買ってしまった記憶があります。
この小説は、1.小林信彦の高校時代をモデルにした青春小説 2.ラブストーリー 3.昭和25年当時、特に朝鮮戦争による世相の変化を描いた小説、の3つの観点で評価できると思います。最初に読んだ時はあまり感銘は受けなかったのですが、今回読み直して、よく出来た作品だと思うようになりました。
最初の青春小説としてですが、小林信彦の高校時代というのはあまりこれまで描かれていなかったので貴重です。映研の部室を勝手に建ててしまったり、高校の見学に来たGHQのメンバーにプラクティカルジョークを仕掛けたり、映画を撮ろうとして本物の拳銃を使い、それが警察に見つかったり、また空襲のシーンを撮るために火薬を調合しようとして、間違えて化学の実験室を爆破してしまったり、とはちゃめちゃぶりが大変面白く描かれています。
次のラブストーリーとしてですが、主人公は、またいとこの混血の女性に恋しますが、お互いに惹かれながら二人の恋はすれ違ってしまいます。長い年月が経って、すれ違いの真相が明らかになって、二人はやり直そうとするのですが…結末はとても切ないものです。
三番目の世相を描いた小説としてですが、小林信彦自身がもっとも幸福な時代として振り返っている昭和24年頃から、朝鮮戦争が始まり東西の冷戦の現実が身近に迫って来て、日本は逆コースという再軍備化の道を歩み始め、という時代の雰囲気が、小説ならではの描写で読む人に的確に伝わってきます。