佐々木力の「東京大学学問論-学道の劣化」を読了。この本を読んだきっかけは、先日の折原浩先生の「東大闘争総括」の書評会で、偶然私の左隣に座ったのが佐々木氏だったことです。それだけだったら佐々木氏の名前も記憶することはなかったと思いますが、氏自身が質問に立たれたのと、その氏に対し、おそらくこの本にも出てくる「労働者の力」(第四インター日本支部のなれの果て)の人と思われる人が更に発言し、まず折原浩先生に対し「父兄」という言葉を使ったことを非難しました。折原先生は当時の学生の親から「息子(娘)を大学闘争に巻き込まないで欲しい」と言われたことを語っただけで、当時一般的だった「父兄」という言い方をしただけだと思いますが、そんなことにとがめ立てするPC派が日本にもいるんだ、とちょっと驚きました。さらに続けてその人は佐々木氏の過去の「セクハラ」事件について改めて糾弾し、日本人以外で女性という二重のハラスメントだ、みたいなことを言っていました。(ちなみにこの「労働者の力」が女性問題にこだわるのは、かつて三里塚闘争の時に、ここのメンバーが4人が女性活動家に対して強姦・強姦未遂を起こした、という過去があるからです。やれやれ。)
それで、その「セクハラ事件」の真相について、佐々木氏の言い分はどうなのかを確認したくて本書を読みました。ちなみに後書きは折原浩先生が書かれています。
結論から言えば、被害を主張している台湾からの学生のある意味思い込みによる一方的告発という感じがします。ただ、佐々木氏の方にも誤解を招くような行動が多く、それは善意から成されているのでしょうが、瓜田に履を納れず、的な慎重さに欠けていることは否めません。例えば、この女子学生が深夜に男性から電話がかかってきただけで大騒ぎするようなある意味病的な潔癖症であるのに対し、この女性が病気になった時に、食事を作ってあげるために家にまで押しかけている(佐々木氏自身はお金を出しただけと言っていますが)のは明らかにやりすぎです。しかし、私としてはE・M・フォースターの「インドへの道」を思い出しました。(「インドへの道」はイギリス人独身女性のアデラが婚約者を訪ねてインドへ行き、そこでヒンズー教のセクシャルな石像を多数見てちょっとおかしくなり、インド人男性医師のアジスの誘いでマラバー洞窟に出かけた時、その中で一種のヒステリーを起こして叫びながら出てきてしまいます。その結果アジズがアデラを洞窟の中で襲ったのだということになってしまい、アジスが冤罪で裁かれるという話です。)
そういうことで、被害者(と称している人)から話しを直接聞ける訳でもないので、セクハラの吟味については保留にしますが、問題はその後の東大側の対応の異常さです。おそらく普段から自分の業績について率直に語り、かつトロッキストという佐々木氏に対するある種のそねみみたいなものが存在したのは事実でしょうが、しかしその程度のことでここまでやるか、という思いを禁じ得ません。折原浩先生が東大闘争時の東大側の対応を鋭く批判しましたが、結局体質はその後も変わっていないように思います。(特に法学部)要するに未だにムラ社会そのもので、そこでは村八分的な陰湿なイジメが今でも横行しているということです。
後は悲しい思いをしたのは、東京大学の駒場のレベルの激しい低下です。大学院大学化と大学の法人化はダブルパンチで、駒場だけでなく東大のレベルの低下を促進したようです。もしかすると私が教養学科で学んだ頃(1983年10月~1986年3月)は、教養学科のピークの頃だったのかと正直な所思いました。確かに、折原浩先生だけでなく、廣松渉先生、杉山好先生、中根千枝先生(その当時は非常勤)、野村純一(民俗学)、石井不二雄先生(ドイツ文学、ドイツリート)などなど、錚々たる方々から自由に好きなことを学べた環境というのは本当に素晴らしかったな、と思います。