白井喬二の「富士に立つ影」読み直しの総評。
2回目の読書も1回目の読書に劣るどころか優る感動がありました。時にはやや強引なご都合主義的な話の展開もありますが、全体には本当に良く構成されており、熊木家、佐藤家の両家を中心とする三代の人間模様のタペストリーが見事と思います。主人公である熊木公太郎は全10篇の第6篇の最後で死んでしまう訳ですが、しかし公太郎は死んだ後の方がむしろ存在感が強くなり、色んな人から「あんないい人はいなかった」と回想される存在になります。1回目に読んだ時は、小里(お雪)が何故蛇蝎のように嫌っていた伯典の妻になったのだろうか、というのが疑問でしたが、2回目の読書ではそれは小里が自分をある意味犠牲にして伯典の罪を浄化しようとしたように思います。その証的な存在が公太郎であり、その公太郎のおおらかなる心が対立して争う両家の人々の心をいつしか変えていき、最後は大団円になります。また黒船兵吾の存在も公太郎に次いで重要であり、熊木家・佐藤家の両方の血を引く唯一の人間である兵吾がこの両家の中ではもっとも世俗的に成功し、成功しただけではなく佐藤光之助をサポートし、結果として光之助が公太郎の偉大さに気がつくということになるきっかけを作っています。ともかくこの作品は大衆小説における勧善懲悪的なわかりやすいけども単純な枠組みをはるかに超えた、複雑な人間関係を描いており、こういう作品が大衆小説勃興の最初期に出てきたということは、そのジャンルの定着に貢献しただけでなく、一つの文学史における奇跡のようなものだと思います。白井の時代は「立身出世」こそ価値観の最上位を占めているといった時代だったと思います。そういう時代に「立身出世」のエゴイズムで突き進んだ熊木伯典や佐藤兵之助のある意味悲惨な晩年を描写し、人間の本来持つおおらかなる心の価値を歌い上げた、ある意味啓蒙的な意味も持った小説だと思います。
ピンバック: 白井喬二作品についてのエントリー、リンク集 | 知鳥楽/ Chichoraku