「鐘よ鳴り響け 古関裕而自伝」を読了しました。読み終わってまず何が印象に残ったかというと、やはり古関裕而という作曲家は一種の天才型なのだな、ということです。作曲時に何の楽器も使わず(そもそもちゃんと練習したのがハーモニカぐらいで、音感を得たのは母親に買ってもらったオモチャのピアノです)、それでも頭の中から次から次にメロディーが湧いて来るというのは天才の証拠です。また古関はしばしばきわめて短時間で作曲しており、戦前は「英国東洋艦隊潰滅」をわずか一時間くらいで作曲していますし、戦後は菊田一夫と組んだラジオドラマで、菊田の台本がギリギリに上がっていて(当時は録音したものを放送するのではなく、すべて生放送)、ほぼその場の即興で作曲して、それも菊田の「ドアが静かに開く時の感じの音楽」といったきわめて作曲が難しいものを簡単に作曲しハモンドオルガンで演奏しています。こうした即興の才能というのは多作の作曲家には不可欠な要素で、J.S.バッハやベートーヴェンも皆そうでした。
また、古関はやはりクラシック音楽の作曲がベースだということで、古関はコロムビア時代の最初の頃、作曲家の菅原明朗に2年くらい師事してクラシック音楽の作曲を学んでいます。菅原は古関について、やはり弟子であった深井史郎よりも才能があった、と言っています。しかしある意味古関にとってクラシック音楽の作曲家に留まらなかったのは正解ではなかったかと思います。1964年の東京オリンピックの開会式で團伊玖磨の「オリンピック序曲」や黛敏郎の「オリンピック・カンパノロジー」などの「ちゃんとした」クラシック音楽の作曲家の作品も演奏されていますが、今日それを記憶している人はほぼ0でしょうし、私も聴いたことがありません。また深井史郎については、私はクラシック音楽マニアなので、ナクソスから出た日本作曲家選輯で深井史郎のCDを持っていますのでその作品を聴いたことがありますが、世間ではまったく知らない人がほとんどだと思います。それに比べると古関の作品は、古関裕而の名前は知らなくても、「六甲颪」「栄冠は君に輝く」「スポーツショー行進曲」などはむしろ知らない人を探すのが難しいくらいで、これは作曲家にとってはある意味理想に近いように思います。
後面白いのは、奥さんとのなれそめについては照れくさかったのか、「その年既に結婚していた私は」で一切紹介されていません。また、菊田一夫との対談で暴露されているのは、一時戦争中に満州から帰ってきたら、いわゆる円形脱毛症になり、いつもベレー帽をかぶって、またカツラまで作ったのだとか。戦後の古関裕而はその菊田一夫とのコンビが無かったら語れないほど、二人は一心同体で多くの素晴らしい仕事をします。菊田の書く台本にふさわしい音楽を書けるのは古関裕而だけであり、また菊田一夫の方も古関が書いた音楽に深く満足し文句を付けることはまったくありませんでした。その菊田一夫が昭和48年に66歳で亡くなると、古関の作曲はきわめて少数になってしまいます。まさしく「伯牙断琴(絶弦)」のエピソード(伯牙は春秋時代の晋の琴の名手。その友人の鍾子期は伯牙の演奏を深く理解していたが、伯牙はその鍾子期が亡くなると自分の演奏を理解してくれる人がいなくなった、と言ってそれ以降琴を弾くことを止めてしまった故事)を思わせます。
巻末にある古関の作品リストは膨大で、今入手出来るCDに収録されているのが、古関の作品のほんの一部なんだということが良く分ります。